第22話 虚禍
「よし、着いたぞ」
アリシアの涼しい声が耳元に届いた瞬間、俺の魂は半分抜けかけていた。
いや、マジで。
体感速度マッハ3のライドを終えた俺は、彼女の腰にしがみつきすぎたせいで両腕がプルプル震えている。筋肉痛どころかもうバンザイすらできそうにない。肩から背中にかけて腱鞘炎にかかりそうな勢いだ。
「……ぐ、ぐぅぅ……」
かろうじて《走影》から降りた俺は、膝ガックガクでその場にへたり込んだ。
地面が揺れてる。いや、揺れてんのは俺の三半規管か。酔った。確実に酔った。
遊園地で回転系アトラクションをはしごした後の百倍くらいヤバい。
「おい、大丈夫か?」
「……っせぇ……」
アリシアの心配そうな声が逆に腹立つ。だってサングラスをかけたまま涼しい顔してんだぜ? 髪も乱れてないし、呼吸も乱れてない。こっちは魂半分あの世に置いてきたってのに。
世の中は不公平にできている。
ふらつく視界をなんとか安定させた俺は、周囲を見回した。
そこには、アリシアの《走影》と同じように見える機体が数台とまっていた。いや、よく見りゃ一部はちょっと違う。
車体が三輪構造で、前方に突き出した操縦桿があるやつとか、丸っこいキャビン型のやつとか……どれも「バイク+異世界アレンジ」みたいな感じ。
どうやらこの世界では走影だけじゃなく、種類いろいろあるらしい。
その中に一台、やたら派手な塗装で“いかにもギャル仕様”の機体が混ざっている。……リリムだな、絶対。
周りの景色は一変していた。
山と山の合間に広がる谷間。岩肌がむき出しになった斜面には焦げ跡や裂け目が点々と残されていて、一目で「ただ事じゃない」ってわかる。
谷底を流れる川は赤黒く濁り、あちこちに折れた木々や砕けた岩が散乱していた。
まるで自然そのものが暴力に蹂躙された跡地。
……笑ってられる空気じゃねぇな。
俺も思わず、胃のムカつきを誤魔化すみたいに口をつぐんだ。
アリシアは《走影》から降りると、迷いなく谷底へ続く道を歩き出す。
「来い」
その背中は小さく見えるのに、不思議と頼もしさがあった。
俺はふらつく足を引きずりながらついていく。
谷を下りるにつれて、空気が重くなっていった。
焦げた匂いに混じって、どこか鉄のような生臭い匂いが鼻を突く。
耳を澄ませば、かすかに爆ぜるような音と、低く唸る獣のような声が混じっている。
虚禍。
この星で恐れられている存在。
俺はまだ実物を見たことがないが……ここまでの惨状を残せる時点で、ヤバさは容易に想像できた。
進む道の両脇には、倒れ伏した者たちがいた。
彼らはアリシアと同じギルドの戦闘員らしく、焦げた装甲服を身にまとったまま意識を失っている。
呻き声を漏らす者もいれば、完全に動かない者もいた。
「……ッ」
思わず足が止まった。
目の前の現実は、訓練場で「お湯三分ラーメン☆」とか言ってた世界とは全く別物だ。
笑い飛ばせない。いや、笑ってはいけない。
アリシアは振り返らず、ただ前へ進む。
その姿が一瞬、遠い存在に思えた。俺とは生きている世界が違う。
戦場という場所が、彼女にとっては当たり前なんだ。
やがて開けた場所に出た。
岩肌に囲まれた広場のような場所で、そこではすでに激しい戦闘が繰り広げられていた。
——空気が振動していた。
まるで巨大な鐘が地中深くで鳴らされ続けているかのように。
地面がかすかに震えていた。肺に入る空気さえざらつきを帯びていた。湿った土と焦げた岩の匂いが混じり合い、喉の奥に苦い感覚が張り付く。
広場の中央には、黒い影が渦を巻いている。
最初は煙かと思った。だが、風に流されることなく、逆に周囲の空気を吸い込むように蠢いている。それは形を持たない塊だった。だが、見続けるうちに目が錯覚を起こし、輪郭が浮かび上がってくる。
——いや、錯覚ではなかった。
影は膨張し、やがて“顔”のような凹凸を現した。歪な仮面を思わせる白い装甲が、黒の奔流の中から押し出される。その奥には底知れぬ闇が口を開き、呻くような低音が広場全体に響いた。
声ではない。だが確かに聞こえる。理性を侵食するような、耳ではなく骨に直接刻まれるような音。
「……虚禍だ」
背後でアリシアが低く告げた。涼やかな声はいつもと同じ響きを持っていたが、その眼差しは研ぎ澄まされた刃そのものだった。
広場の手前、虚禍と相対していたのは二つの人影だった。
ひとりはリリム。戦場では軽薄な笑みを完全に捨て、黒い双剣を構えて走影のように素早く駆け回っていた。彼女の刃が閃くたび、黒い肉塊の表面が裂ける。だが、その傷口は瞬く間に塞がり、虚禍は痛みを感じている様子すらない。
もうひとりは、ユウキの目に初めて映る戦士だった。
長い栗色の髪を後ろで束ね、革鎧に似た軽装をまとった青年。外見は人間に近いが、耳は僅かに尖り、肌に淡い紋様のような文様が刻まれている。半ば亜人、半ば人間。その手には蒼い光を帯びた長槍が握られ、虚禍の突進を真正面から受け止めていた。
地面に火花が散り、槍と虚禍の鉤爪がぶつかり合う衝撃音が広場に轟く。
「はぁっ……!」
青年は喉を裂くような声を上げ、押し返した。虚禍の巨体がぐらりと後退し、その隙を突くようにリリムが飛び込む。
「そこッ!」
双剣が十字を描き、黒い影の仮面に斬りつける。甲高い音が響き、白い装甲の一部が剥がれ飛んだ。だが、覗いた奥は虚ろな闇。血も肉も存在せず、ただ冷たい虚無が口を開けている。
ユウキは背筋を貫く戦慄を覚えた。
それは恐怖というより、得体の知れない“異質さ”だった。
自分たちが生きている世界の法則とは別の理に従って動く存在。それが、——虚禍だった。
「……アレが……」
声にならない声が喉を震わせる。自分の胸が早鐘のように鳴っているのが分かる。呼吸をすればするほど、肺に冷気が溜まり、指先が痺れていく。
白い骸のような外郭の奥から、虚禍が唸った。
低く、地響きのような咆哮が広場全体を揺らす。虚禍の背後から黒い触手が無数に伸び、地面に突き刺さった。岩肌が砕け、砂塵が舞う。亜人の青年が即座に槍を振るい、リリムが横合いから斬り込む。二人の連携は淀みなく、幾度となく虚禍の攻撃を凌いでいた。
しかし、それでも——倒せる気配はなかった。
「ユウキ」
アリシアが振り返る。
その瞳に宿るものは、冷徹な覚悟と揺るがぬ信念だった。
「見ろ。あれが、私たちの敵だ」
ユウキはただ頷くことしかできなかった。
笑いも冗談も、この場には存在しない。
世界を侵す災厄——虚禍。
それを初めて、彼は自らの目で直視したのだった。