第21話 どっちにしても
《走影》が街の大通りを突っ切っていく。
おいおいおい! マジで信号とかそういうのないのか!?
人混みギリッギリをすり抜け、荷車の横を紙一重でかわしていく。
通りすがりの商人が「おおっと!?」と声を上げるのを尻目に、アリシアはまったく速度を落とさない。
「うわっ……! ぶつかる! 死ぬ死ぬ死ぬ!!」
「黙って掴まってろ」
低い声で言われ、俺は言葉を飲み込んだ。
確かに文句を言ってる余裕はない。
目の前を次々と飛び越えていく街並みの景色は、いつものように行き交う人々で賑わっていた。
石畳の道路を滑るように進みながら、機体の下部から吹き上がる推進気流が砂埃を舞い上げる。後ろに伸びる排気翼が青白く光り、地面すれすれに火花を散らしながら加速していく。
俺は必死にアリシアの腰にしがみつき、ただただ振り落とされないように耐えるしかなかった。
通りを抜ければ、香辛料の匂いと焼き肉の煙。次に飛び込んできたのは商店街の喧騒。活気ある声と楽器の音、露店の看板が目の前で一瞬光っては後方に流れていく。俺の脳みそは完全にジェットコースターの二倍速再生だ。
「うわっ! ちょっと今、犬! 犬轢きそうになった!!」
「避けた」
「避けたとかそういう問題じゃねーだろ!?」
俺が叫んでもアリシアは微動だにしない。銀色の長い髪が風にたなびき、ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐる。……くそ、命の危機のはずなのに、なんでこの状況でいい匂いとか意識しなきゃならんのだ。脳内倫理委員会、緊急招集だぞ。
やがて街を抜けると、視界が一気に開けた。
そこには広大な草原が広がっていた。
青々とした草が風に揺れ、遠くに連なる丘と山々。雲の切れ間から射し込む夕陽が、金色の帯となって草原を照らしていた。まるで絵画みたいな景色を、俺はアリシアの背中越しに見ていた。
「……すげぇ」
思わず口から漏れた。
けど感動に浸る余裕なんて一瞬だ。
《走影》は地面を蹴るように跳ね、推進器が「ゴウッ」と轟音を立てて再加速する。後方には土埃の尾が長く伸び、草原の小道をまるで矢のように突っ切っていく。
「なぁ! 俺たち今どこ向かってんだ!?」
「虚禍が出たと報告があった場所までだ」
「はぁ!? そんなサラッと言うなよ! どんくらい距離あるんだ!?」
「ここから数十キロ先だ。走影なら数十分もあれば着く」
数十キロ……数十分!?
いやいやいやいや、どんだけ速いんだこいつ!?
バイクに似てるだけあってめちゃくちゃ速い。
速すぎて既に胃が逆流しそうなんだが。
「ちなみにリリムも別の走影で向かっている。現地で合流になるはずだ」
アリシアは淡々とそう告げる。声は低く、冷静で、少しも迷いがない。
こっちは必死にしがみついてるってのに……背中から伝わる体温とたなびく髪の感触。そのギャップが腹立たしいやら安心するやらで、余計に複雑な気分になる。
「なぁ……虚禍ってどんな化け物なんだ?」
気づけば口が勝手にそう問いかけていた。
まだ、想像でしかその存在のことを知らなかった。
自然と口に出てたんだ。聞く感じじゃ得体がしれなさすぎるっつーか…
アリシアは前を見据えたまま、微かに口元を吊り上げた。
「着いてからのお楽しみだ」
「……いや、楽しみじゃねぇからな!? 怖いから聞いてんだぞ!?」
「ふふ」
短く笑った。
おい、なんでそんな楽しそうなんだよ。
こっちは命懸けの絶叫マシンに乗せられてんのに、あんた完全にバイクツーリングのノリだろ!?
走影の推進器が再び吠える。地面の小石が跳ね、草が渦を巻く。
風圧に煽られながらも俺は必死に目を開けて前を見た。広がる大地の彼方に、薄い靄が立ち込めている。その奥で不気味に影がうごめいた気がした。
心臓がどくんと跳ねる。
いや、気のせいだと願いたい。……でも。
俺の耳に届くのは、アリシアの落ち着いた呼吸と、走影の低い唸り声。
推進器がさらに力を増し、草原を切り裂くように加速した。
「うわあああああああああああ!!!」
俺の悲鳴が、風にちぎれて空へと溶けていった。
《走影》は休むことなく草原を駆け抜けていく。
背後で舞い上がった砂埃は白い尾を引き、緩やかな風の流れの切れ間を突っ切っていく。
「……なぁ、スピード落とすって概念はないのか……?」
「ない」
「秒で返事すんなよ!!」
ちょっとは悩め! 少しくらい「うーん、まあ検討する」くらいの余地を見せろよ! このままだと俺の寿命が《走影》の速度に比例して縮まっていくんだが!?
そんな俺の悲鳴は風にちぎれて、谷間へと流れていく。
目に映る景色は刻一刻と変わった。
緩やかな丘を越えると、そこには高低差のある岩場が広がっていた。岩壁を縫うようにして流れる川、その上をかけられた古びた木の橋。橋を渡った瞬間、推進器の気流が川面を打ち、波紋が大きく広がった。
「こちら《灰鷹》、虚禍出現地点に接近中」
アリシアが片耳に装着した通信機に短く告げる。
低く澄んだ声がエンジン音にかき消されることなく届くあたり、妙に頼もしい。
そして、耳元から返ってきたノイズ混じりの声が聞こえた。
「《黒雷》も移動中。合流は二十分後を予定」
リリムの声だ。いや、《黒雷》って……名前が厨二っぽいのはお前もかい。
……ああ、そういや今俺、立派に“作戦通信”とかいうやつをリアルタイムで聞いてんのか。
なんかカッコよくね? いやいや、だからって俺が戦えるわけじゃねーけどさ。
走影はさらに加速し、岩壁の隙間を縫うように駆け抜ける。
周囲には樹々が生い茂り、木漏れ日がちらちらと地面に落ちていた。鳥の群れがバサッと飛び立ち、風切り音が耳を掠める。……自然の美しさを楽しむ余裕がちょっとは出てきたけど、それでもスピードは落ちてくれねぇ。
「なぁ、アリシア」
「何だ」
「……律ってやつ、結局なんなんだ?」
俺は思い切って訊いた。
リリムから聞いた“律=カップラーメン”理論が頭から離れないせいで、もう真面目に考えるのすら困難だった。
「リリムに聞いたんじゃないのか」
「…いやそうなんだけど。すげーややこしいっつーか、色々混乱したわ! お湯注いで三分で出来上がりとか言われたんだぞ!?」
「……あいつらしい」
アリシアは小さく笑って、それから少し間を置いて言った。
「難しく考えないことだ」
「…聞いた限りだが、それは無理な気がする」
「なぜだ?」
「だって完全にスピリチュアルだったし」
「どこら辺がだ?」
「…その、超常現象っぽいっつーか、“魔法”みたいっつーか…」
「律は……魔法じゃない」
「…っつーのは?」
「どんなものにも備わっている力だ。星にも、風にも、海にも、命あるものすべてに流れている。宇宙が誕生した時から存在した“エネルギー”の一つ」
「……え、ちょっと待て」
俺の頭の中で急に物理とオカルトがごちゃ混ぜになった。
「宇宙誕生って、ビッグバン的な?」
俺の脳みそがショートしかけてるのをよそに、アリシアは淡々と続ける。
「“魔法みたいなもの”と考えるのは間違いではない。だがそれは表現の一つに過ぎない。本質は、存在そのものを繋ぎとめるための根幹の力だ」
「存在そのもの……って、おいおい、壮大すぎて逆にわかんねぇぞ!」
目に見えないエネルギー? 星や海にも流れてる?
なんか一気にスケールがデカくなって、俺の脳内ブラックボックスはフル稼働状態だ。
いやだってさ……宇宙創世からあるエネルギーって。俺ごときが扱える気しねぇだろ。
「……で、俺にそれを扱えって?」
「そうだ」
「無茶振りすぎるだろ!!」
思わず叫んだ。
岩場に声が反響し、カラスの群れが驚いて飛び立つ。
驚かせちまって悪いが、こちとら絶賛困惑中でしてね…
それでもアリシアは落ち着いていた。
「無茶かどうかは、お前次第だ」
「そりゃまた無責任なまとめ方だな!」
俺は呻きながら、走影の振動に揺られる。
考えれば考えるほど混乱するけど……少なくとも、リリムの“ラーメン理論”よりはマシか。
そう思ったところで、目の前に切り立った崖が迫ってきた。
「お、おいおいおい! まさか飛び降りるとかじゃねぇよな!?」
「安心しろ。飛び降りはしない」
「ならよかった……」
「飛び越えるだけだ」
「どっちにしろ死ぬ未来しかねぇじゃねぇかあああああああ!!」
俺の絶叫を置き去りに、走影は推進器を轟かせて崖を跳んだ。
青空と地平線が視界いっぱいに広がり、時間が一瞬止まったように感じた――
着地の衝撃と共に、俺の内臓がズレた気がした。