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第2話 倫理委員会が黙っちゃいない



彼女はベッドの上に腰を下ろし、ためらいもなく長い脚を組んだ。

黒い下着姿のまま、枕に片肘をついてくつろいでいる。

あまりにも自然で、まるでそこに俺がいることなんて全く気にも留めていない様子だった。


……いや、普通そこは気にしろよ!?

こっちは全身の神経がピリピリしてるってのに、当人は「今日の天気は晴れだな」くらいのノリで素肌さらしてる。

精神的防御力の差が、地球と月くらい離れてる気がする。


俺は部屋の隅で、所在なげにうろうろ。

目を合わせないようにしながら、壁の木目を数えたり、床の節穴を観察したり、完全に挙動不審な小動物と化していた。


そんな俺を横目に、彼女はふっと口角を上げ、指先で手招きした。

「おい、こっち来いよ」


男勝りな低い声。だがその所作は、やたらと優美だった。

手首の角度、指の動き、何気ない仕草なのに目が離せない。

いや待て、今の完全にスローモーションだったよな? 脳内BGMまで流れたぞ?


気づけば俺は、ぽけーっと見惚れていた。

「……はっ!?」

慌てて顔をそむけ、両手で目を覆う。危ない、危ない。あと一秒遅れてたら鼻血第二波が来てた。


「なんだ、来ないのか?」

「い、いや……ちょっと、その……視界的に危険が多すぎるというか……」


我ながら情けない返事。

彼女はふぅ、と短くため息をつき、視線を落とした。


「やっぱり、まだ記憶が定まってないんだな」

その呟きは、妙に重く耳に残った。


記憶。

そうだ、俺は——思い出せない。

名前も、昨日以前のことも。

ただ、時々頭の奥で、何かがひっかかる感覚がある。

金属がぶつかる音。火花。誰かの叫び声。

それが現実の記憶なのか、ただの幻覚なのかも分からない。


「おい」

不意に呼びかけられて顔を上げると、彼女がじっとこちらを見ていた。

さっきまでの茶化すような表情とは違う、探るような目だ。


「……お前、本当に何も覚えてないのか?」

「……ああ、本当に。なんでここにいるのかも分からない」

「そうか……」


短くそう言うと、彼女はわずかに視線を伏せた。

その横顔はどこか寂しげで、けれどすぐにいつもの勝気な笑みに戻る。


「まあいい。いずれ思い出すさ。今はそれより——」

そう言ってまた手招きしてくる。

「こっちに来い。ほら、遠慮すんな」


「え、いや……」

俺は再び目を覆って一歩後ずさる。

……のだが、なんだこの déjà vu 感は。

まるで昔もこんなやり取りをしたような——


その瞬間、頭の奥でまた「ガキィン!」という金属音が響いた。

同時に、誰かの声が断片的に浮かぶ。


——「お前は、まだ生きてろ」


「……っ!」

息を呑む俺を見て、彼女がわずかに眉をひそめた。

「どうした?」

「いや……なんでもない」


ごまかすしかなかった。

だけど確かに、何かが繋がりかけている気がする。

それが何なのかはさっぱりだが、頭の中に何かが“在る“気がしたのは事実だった。


彼女はそんな俺をじっと見つめた後、ふっと笑った。

「思い出せないならそれでいい。思い出さなくていいこともあるだろうしな」

「俺は必死なんだけど……」

「いいから座れ。別に取って食いやしねぇよ」


……その言い方が全然信用できないんだが。

だが、俺の足はなぜか、言われるまま彼女の方へと向かってしまうのだった。



彼女は座ったまま俺をじっと見上げていた。

何だよ、その視線。まるで「獲物が自分から檻に入ってきた」って顔じゃないか。


「……あのさ」

俺が何か言いかけた瞬間——


ガバッ!


「うおわっ!?」

手首をつかまれ、そのままベッドの上に引き倒された。

頭の後ろで枕が沈み、視界いっぱいに彼女の顔が迫る。


そして——目の前に現れたのは、何も隠していない二つの山。

……いや、これは山脈だ。世界遺産に登録申請できるレベルだ。

そしてその間近から漂ってくる甘い匂い。

長い銀色の髪がサラリと垂れ、俺の頬や首筋にふれてくる。


視覚・嗅覚・触覚、すべてが同時に攻め込んでくるこの状況、男としての防御力はほぼゼロ。

「なあ」

耳元で低い声が囁く。

「昨日の続きといかねえか?」


……え、続き!?

俺は即座に全力で首を横に振った。

ブンブン。いやもう扇風機並みにブンブン振った。


もちろん下半身は……ええ、もう、ギンギンでしたよ。

これは物理現象だから仕方ない。男として生きてる証だ。

だが、かろうじて理性の防波堤は崩れていない。


だって俺はまだ、自分が誰なのかすら分かってないんだぞ?

目の前の美女が何者かも、どういう関係なのかも知らないんだぞ?

そんな状況で”続き”とか、倫理委員会が黙っちゃいない。

(いや、倫理委員会なんて存在してないけど)


俺は全力で心の中で叫んだ。

——落ち着け! ここで流されたら終わりだ!

——まず名前! 次に状況! それからでも遅くはない!


「……」

必死の決意と共に、俺は目をぎゅっと閉じた。


その様子を見て、彼女はふぅとため息をついた。

「しゃあねぇな」

諦めたような、でもどこか楽しんでいるような声だった。


その直後——

首筋に、ひやりとした感触。

「っ……!」

柔らかく、しかし確かに存在感のある温もりが触れ、次の瞬間、軽く歯が肌を捉えた。


……あれだ、これはキスだ。しかも首に。

背筋がゾクゾクして、理性の防波堤が一瞬きしむ音がした。


彼女は唇を離すと、俺の反応を面白そうに観察していた。

「……顔、真っ赤だぞ」

「……う、うるさい」

「はは、やっぱ面白ぇな、お前」


その笑顔は、勝気で、ちょっと悪戯っぽくて、でもなぜか妙に安心感をくれる。

そしてその安心感こそが、俺の心をいっそう混乱させていた。


——この女、何者なんだ。


彼女の銀髪がふわりと揺れ、その一房が俺の胸に落ちた。

香りが再び鼻をかすめ、鼓動が早まる。



両手が……動かない。

いや、厳密に言えば動くことは動くんだが、俺の手首を彼女ががっちりと押さえているせいで、ベッドの上に釘付け状態だ。

それも柔らかい感触で……いやいや、落ち着け俺! そういう感触の分析は後だ!


耳元でふっと吐息がかかる。

「……昨日のお前、ヤバかったぞ」


低めの声なのに、やけに耳に残る。

思わず息を呑んだ。


……昨日の俺? ヤバかった?

何がどうヤバかったのか。

いや、どう考えてもロクなヤバさじゃないだろ、それ。


俺の頭の中で映像が再生される。

——ぼんやりした部屋の灯り。

——ベッドの上で絡み合う影。

——……って、ちょっと待て俺!?


映像は脳内上映5秒で強制終了。

このまま想像を続ければ、理性より先に精神が崩壊して気絶する自信がある。


だが「ヤバかった」とか言われたら、普通は思い出そうとしちゃうじゃないか。

俺はもはや自分の脳みそを恨みたい。


しかも今、耳元で囁いてくるその声に混じって、甘い香りが鼻腔を満たしている。

髪からか、それとも肌からか。いや、どっちでもいい。とにかく俺の理性ゲージを削ってくる危険物だ。


腕を押さえるその手も、しなやかな指で俺の肌に軽く触れていて……ああ、これ絶対、危険度レベルSだ。

もしここで本能に任せたら、俺の理性は「あばよ!」と言って南の島にバカンスに行くに違いない。


「……あ、あんたは一体誰なんだよ!?」

もう限界だった。俺は話題を全力で逸らした。

飛び級で核心に突っ込む質問だ。名探偵でもこんな唐突な問いはしない。


すると、彼女の顔に一瞬、何か影が差した。

ほんの少しだけ——本当に、ほんの少しだけ寂しそうな表情。

だけどすぐに、いつもの勝気そうな笑みを浮かべ直す。


「……そうか。全く覚えてねぇんだな」

その声色には、微かに諦めが混じっていた。


「……」

俺は何も言えず、ただ彼女の顔を見返す。

胸は見ない。絶対に見ない。見たら負けだ。俺は必死に自分の視線を額から目、そして頬へと固定した。


彼女は少し間を置き、ゆっくりと口を開いた。

「……アリシア・ヴェルネス。それがあたしの名前だ」


アリシア・ヴェルネス——

……聞き覚えが、ない。

それどころか、記憶のどの引き出しを開けても、そんな名前は一度も出てきたことがなかった。


「……アリシア……」

声に出してみる。妙に舌触りがいい名前だ。強くて、それでいて品がある。


近くで見つめるその顔にも、見覚えはなかった。

けれど——

その瞳の奥に宿る感情が、なぜか妙に胸をざわつかせる。


知り合い以上の……いや、それ以上の関係だったことを、俺は彼女の表情からなんとなく読み取ってしまった。

それは嬉しさなのか、寂しさなのか、あるいは期待なのか。

全部が少しずつ混ざって、彼女の微笑みを形作っていた。


「アリシア……あんたと俺は……」

問いかけようとした瞬間、彼女は唇の端を吊り上げた。

「それは、もうちょっとしてから思い出せ」


挑発するようなその笑みが、俺の頭をさらに混乱させる。

記憶は霧の中。

でも、霧の向こうから確かに、何かがこちらへ歩み寄ってきている気がした——。

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