第17話 五百年前の戦争
波が寄せては返し、砂浜を濡らしていく。
規則正しいその響きはどこか子守歌のようでありながらも、同時に胸の奥をざわつかせるような不思議な力を持っていた。
俺は浅い呼吸を整えながら、目の前の広大な景色をただ見つめていた。
陽光を浴びた海はきらめき、風に揺れる漣はまるで鏡のように空を映している。空と海の境目は曖昧で、見れば見るほど自分がどこに立っているのかわからなくなりそうだった。
……地球でも、俺はこういう景色を見たことがあっただろうか。
かすかな記憶が脳裏に浮かぶ。
白い砂浜。蒼い空。潮の匂い。
だが、その情景はどこかぼやけていて、輪郭が掴めない。写真のピントが合っていないような、そんな頼りなさだ。
俺は確かに「地球から来た」と言える。でも、それ以上は……霧の中だ。
隣に立つライラが、潮風に髪を揺らしながら俺を見ていた。
その視線には揺るぎがなく、青銀の瞳は、海よりも澄んでいるように思えた。
「……ユウキ」
「ん?」
「覚えていることは他にないのか?」
ライラの声は波音に紛れることなく、まっすぐ俺の胸に届いた。
俺は言葉を選びながら、息を吐き出した。
「……正直に言うと、ほとんど覚えてないんだ。地球から来たってことは確かに覚えてる。でも、それ以上は……ぼんやりしてる。家族の顔も、友達の名前も、生活の細部も、ぜんぶ靄がかかってて……」
言いながら、自分でも胸が痛んだ。
失ったものを思い出そうとすればするほど、空虚さだけが増していく。
ライラはしばらく沈黙していた。
ただ波の音だけが、二人の間を満たしていた。
やがて彼女は口を開いた。
「記憶を失うというのは、己の根を断たれることに等しい。……お前は、恐ろしくはないのか?」
俺はすぐに答えられなかった。
恐ろしいかどうかと問われれば、もちろん怖い。自分が何者だったのかもわからず、空っぽのまま生きているのだから。けれど――
「……怖いよ。正直、めちゃくちゃ怖い。でも……不思議と、少しだけ安心もしてる」
「安心?」
「だってさ、何も覚えてないってことは……嫌なことも、失敗したことも、覚えてないってことだろ。……まあ、思い出せないこと自体は不安なんだけど」
言いながら、自分でも苦笑が漏れた。
どこか強がりみたいに聞こえたかもしれない。けれど、それは偽らざる気持ちだった。
ライラは目を細め、俺の言葉を吟味するように海を見やった。
彼女の横顔は冷静でありながら、どこか人間らしい温かみが宿っているようにも思えた。
「……お前がどういう存在であれ、ここにいるのは事実だ。記憶があるかどうかに関わらず、お前は“ユウキ”として生きている」
「……俺は、ユウキ……」
その言葉を反芻するように、俺は呟いた。
地球での記憶は曖昧でも、この世界で俺をそう呼ぶ人がいる。その事実だけは揺るがない。
波がまた足元を濡らしていく。
俺はその感覚を確かめるように目を閉じた。
……過去は思い出せなくても。
今ここにある現実は、確かに俺のものなんだ。
海と空が溶け合う景色の中、俺とライラの間には、言葉にしがたい静けさが流れていた。
それはただの沈黙ではなく、互いの存在を確かめ合うような、重みのある沈黙だった。
波音が寄せては返し、漣が揺れ続ける。
その中で俺は自分が少しだけ、この世界に根を下ろした気がした。
波が寄せては返す音は変わらない。けれど、その場に流れる空気は先ほどとは違っていた。
ライラの瞳がまっすぐにこちらを射抜く。蒼い狼の瞳は冗談を許さない光を宿しており、俺の心臓は小さな鼓動を繰り返していた。
彼女は口を開く。
「アリシア様は……元々、戦士だった」
その声音には、尊敬と畏怖が入り混じっているように思えた。
俺は思わず息を呑む。
「戦士……?」
ライラは頷いた。
「私たちは、アリシア様のように長命ではない。だから、その当時を知る者は誰もいない。だが、時折語られるんだ。お前のことを」
「俺の……?」
思わず自分を指さしてしまった。信じられないというより、理解が追いつかない。
「そう。かつてこの星であった“戦い”のことを。アリシア様と共に戦った者の名として——」
波音のリズムが遠くなるように感じた。
耳に残っているのに、頭の中では別の映像が蘇る。あの丘で見た巨大な機械。砂に半ば埋もれた鉄の骸。
あれはただの遺物じゃなかった。何かの記憶を、俺の奥底を震わせるような存在だった。
「……なあ、ライラ」
言葉を探すように、俺は視線を海に投げる。
太陽の光を受けた水面はまぶしくて、けれどその奥に何かが隠れているように思えた。
「俺とアリシアは……どんな関係だったんだ? “夫婦だった”とか言われてるけど、正直、実感なんて全然なくて……」
そこで一度、唇を噛んだ。
もっと聞きたいことがあった。心の奥から、自然とあふれてくる疑問。
「……それに、俺は“蘇った”って言われた。でも、どうやって? なぜ? 俺はどういう経緯で、今ここにいるんだ……?」
ライラの横顔を盗み見る。
彼女は何も言わず、ただ潮風に耳を傾けているように見えた。だが、その沈黙は言葉を選んでいる証拠だと、直感でわかった。
やがて、ライラは静かに息を吐いた。
その吐息すら波音に溶け込むほど、柔らかく、しかし確かな重さを帯びていた。
「……私は答えられない」
「……え?」
彼女の瞳が俺を見た。そこには偽りも、軽口もなかった。
ただ真実だけが込められた視線。
「だが、一つだけ言える。——五百年前に起こった戦争が、すべての始まりだということを」
「……五百年前……」
途方もない数字が、口の中で転がった。
五百年前なんて、地球の感覚からすれば完全に“歴史”だ。誰も生き残っていないような、教科書の中の出来事だ。
でも、この世界では違う。アリシアは五百年を生きた。その現実が、俺の常識を軽々と越えていた。
「その戦争は、この星の形を変えたと聞く。大地は裂け、多くの国が滅び、虚禍と呼ばれる存在が生まれたのも……その時だと」
ライラの声が、波の合間に染み込んでいく。
彼女の言葉に合わせるように、俺の頭の中にはあの丘の残骸が浮かんでいた。
金属の破片。巨体の腕。砂に埋もれたレンズのような目。
もしあれが戦争の産物だとしたら。もし俺が、その時代に——
「……俺は……」
言葉にならない声が、喉で途切れた。
ライラは俺を責めることも、急かすこともなく、ただ静かに立っていた。
彼女の耳が、潮風に揺れ、月光のように白い毛並みが光を反射していた。狼というよりも、清冽な守護者のようだった。
「記憶が戻らぬ以上、お前は真実を持たない。だが、この星に残された痕跡は、必ずお前を導くだろう」
彼女の言葉は断言に近かった。
俺は答えられず、ただ足元に寄せる波を見ていた。
その冷たさが、俺がここに“生きている”という証だった。
だけど同時に、“かつての俺”がどんな存在だったのか、その答えはますます遠くなっていくようにも思えた。
空は青く澄み渡り、海は絶え間なく呼吸している。
五百年前の戦争。その言葉が、何度も何度も頭の中で反響した。
俺は、自分が何者なのかを知るために。
この星に何を残したのかを確かめるために。
きっと、その戦いに向き合わざるを得ない。
そう感じさせるには、十分すぎる言葉だった。