第15話 旦那と言われましてもですね
「——じゃ、あとは任せた」
アリシアがそう言い放った瞬間、俺の時間は止まった。
「…………は?」
思考が一瞬フリーズする。いやいやいやいや、今なんて言った? “任せた”? 何を? 誰に? どういうこと!?
俺がオロオロしている横で、筋肉の山ことグラドさんは、待ってましたと言わんばかりに胸を叩いた。
「おうっ! 任せとけ!」
快諾。めっちゃ快諾。あまりに即答すぎて逆に怖い。
いやいや、ちょっと待て!? 任せるって、何を!? 何を任せたんだよ!? 俺の命か!? 俺の魂か!? それとも俺の人生そのものか!? そんな一括譲渡みたいに放り出されても困るんだけど!?
「ちょ、ちょっとアリシア! まさか俺を置いていく気か!?」
俺が慌てて叫ぶと、アリシアは肩をすくめて答えた。
「当たり前だろ。あたしは仕事がある」
涼しい顔で煙草に火をつけ、紫煙を吐きながらくるりと踵を返す。
……おい、この人、完全に俺を荷物扱いしてないか!?
「いやいやいや、展開早すぎるでしょ!? せめてもうちょっと段取りとか説明とかあってもよくない!? ほら、RPGとかで言う“チュートリアル戦闘”とか!?」
俺の必死の訴えは虚しく空気を切り裂くだけだった。アリシアは片手をひらひらと振って、まるで「じゃあな〜」と言わんばかりの軽さで立ち去っていく。
ちょっ……待っ……うそだろ!? 本当に置いていったぞ!?
俺はグラドの方を振り返る。
「ちょ、ちょっとグラドさん! 今の聞きました!? あれ完全に俺を投げ捨てましたよね!? 放置ですよね!?」
グラドはニカッと笑い、俺の肩をバシバシ叩いた。
「任せろ! アリシア様の頼みだ。お前は今日から俺の弟子だ!」
「弟子!? いや、そんな急に! 俺、まだ何も決意とかしてないから! そもそも俺、武器も持ってないし、戦闘スタイルも何もわかってないんだって!」
「安心しろ。俺が鍛えれば三日で一人前、七日で達人だ!」
「どんなスパルタ育成法だよ!? ブラック部活も真っ青じゃねーか!」
俺の悲鳴は、グラドの豪快な笑い声にかき消される。
なんだこの人……俺の恐怖とか怯えとか、ぜんっぜん理解してない。むしろ楽しんでるだろ!?
俺がガクガク震えていると、立ち去りかけたアリシアがふと立ち止まり、こちらを振り返った。
その目は冷たく、そして妙に突き刺さる視線を向けてきた。
「ユウキ」
「な、なんですか……?」
「あたしの旦那だった男が、そんなにビビってどうする」
……。
…………。
……………………は????????
思わずアリシアの方を二度見してしまう。
……いや、わかってるよ!? 俺がアリシアの旦那“だった”ってことはもう聞いた! 知ってる! その衝撃はすでに一度味わってる!
でも、だからってそれとこれとは話が別というか、そんなふうに言われても逆に困るんだけど!?
この場面でビビらないやつの方が珍しくない??
…え、違う!?
「いやいやいやいや! そういう問題じゃねぇだろ!? 俺まだ剣の握り方もわかんないんだぞ!??」
俺の叫びもむなしく、アリシアは「ふん」と鼻で笑うだけだった。
あの態度……完全に「情けないやつ」って思ってる顔だ。
隣でグラドは大爆笑していた。
「はっはっはっ! まあそうビビるな! 俺がついてる!」
(いやいやいやいや!どっちかっていうと、あんたと一緒になるのが「不安」の大部分だからね!?)
「アリシア様の旦那だったのなら心配ねぇ! 話には聞いてるが、アリシア様が惚れるだけの根性は持ってるはずだ!」
「だから俺は根性を潜らせた覚えもなければ、引っ張り出されたくもないの! そもそも旦那だった時代の記憶ゼロだから! なんで俺の知らん過去で勝手にやる気ポイント判定されてんの!?」
アリシアはもう完全に俺の話なんて聞いちゃいなかった。
煙草をくわえたまま、片手をひらひら振りつつ部屋を出ていく。
「じゃ、あとは任せた」
さらっと言い放って、そのまま消えていった。
残された俺は思わずその場で叫んだ。
「おいーーーーーーー!! アリシアさん!? ちょっと待て! せめて説明してけぇぇぇぇ!!!」
しかし、背中を見送るしかない俺の横で、グラドはもう完全にやる気満々だった。
「よし! じゃあ旦那殿、まずは体力作りだな! 走るぞ!」
「何そのノリ!? “旦那殿”って呼び方もやめろ! 俺はただの新人だから! 記憶も装備も根性もスキルも全部ゼロからだからぁぁぁぁぁ!!!」
俺の悲痛な叫びは、グラドの豪快な笑い声にかき消された。
……こうして俺は右も左も分からないまま、見た目も中身も豪快な筋肉ダルマに丸投げされることになったのである。
◇
「ハアッ! ハアッ! ハアッ! ……あああああもう死ぬぅぅぅぅぅ!!」
冒頭からこれである。いや、俺も言いたくて言ってるんじゃない。言わされてるのだ。肺から強制的に。
なぜか? 答えは簡単。
グラドが俺を観光ランニングに引きずり出したからだ。
「どうだユウキ! これぞレスタルムの街並みだ!」
そう豪快に笑いながら、街の中心部を馬鹿みたいな速度で駆け抜けていく筋肉親父。
俺は必死にその背中を追いかける。いや、追いかけるというか、半分引きずられてるというか、呼吸器官を完全に破壊されながら必死に生命維持を試みているだけというか。
「ゼェッ……ゼェッ……誰が……観光……だよ……!!」
何が“案内”だ。建物の一つも目に入ってねぇよ! 石畳の模様と、自分の靴先と、そして遠のく視界しか見えねぇ!
………
………
………
そして数十分後。
俺は石畳の上に仰向けにぶっ倒れていた。
肺はすでに鉄板の上で焼かれたみたいにヒューヒュー鳴っていて、喉は砂漠を何往復もしたようにカラカラだ。
……もう……ダメ……。
目の前に広がるのは、真っ青な空。雲ひとつない青天井。
ああ……空って……こんなに広かったんだなぁ……。
いや、違う。そうじゃない。俺はただ走らされただけなのに、なんで人生の最期みたいな感想言ってるんだ。
そんな俺を見下ろしながら、グラドは全力の笑顔で叫んだ。
「どうだ! 美しい街だろう!」
「見てねぇよおおおおおおお!!」
こっちは地面と空しか見てないんだよ! 建物も、港も、市場も、観光名所も、なんっっっにも目に入ってないからな!?
俺の脳内の“レスタルム観光アルバム”には、空と地面と汗の染みたシャツしか保存されてねぇ!
あーだこーだと喚いていると、俺の耳に不意にピトッと冷たい感触が触れた。
「……ん?」
頬に当たる、氷みたいに冷えた何か。
反射的に目を向けると、そこには銀色に近い淡い青毛の獣耳がピンと立った女性が立っていた。
彼女の毛色は、透き通るような薄い青。陽光を浴びて輝く毛並みは、どこか氷雪を思わせる気高さを漂わせている。年齢は……見た目だけで言えば俺と同じくらいか、少し若いくらい。
そして、手にはキンキンに冷えたドリンク。
それを俺の頬に押し当ててきたのだ。
「……だらしないな」
低めの、しかし澄んだ声。狼のように鋭い眼差し。
だけど、声色にはどこか呆れと……ほんの少しの優しさが混じっていた。
「だ、だらしないって……! 俺、初日からフルマラソンさせられたんですけど!? 心肺機能バグってるんですけど!? これでも精一杯なんですけど!?」
俺の必死の抗議もどこ吹く風。彼女は冷えたドリンクをコトリと俺の胸元に置き、腕を組んだ。
「虚禍と戦うなら、こんなことでへばっていては話にならない」
グラドと同じこと言ってるゥゥゥゥゥゥ!?
なんでここの人たちは全員“虚禍討伐”基準で物事考えてんだよ!? 俺、もっとこう……図書室の本並べるとか、伝票整理とか、そういう仕事から始めたいんですけど!?
グラドはゲラゲラ笑いながら彼女の肩をバンと叩いた。
「いいだろうユウキ! こいつも武力部門の仲間だ! 狼の娘、ライラだ!」
「ライラ……」
俺はその名を繰り返した。
冷たい雰囲気なのに、どこか清らかで、透き通るような存在感。まさに“氷狼”って感じの人だ。
でも俺に向ける視線は、完全に「お前ほんとに大丈夫か?」という冷え冷えオーラ全開。
いや、だから俺も大丈夫じゃないって何度も言ってるんですけど!?
「……ふん」
ライラは俺を一瞥して、耳をピクリと揺らした。
「アリシア様が選んだなら、それなりに理由があるのだろう。だが——今のままでは足手まといだ」
「わかってますよぉぉぉぉ!!!」
もうやめてくれ、心臓がこれ以上持たない。
俺は冷えたドリンクを握りしめながら、石畳の上で魂が抜けかけていた。