第13話 写真の中の男
アリシアの言葉がまだ胸の奥に沈殿している中、ふと視線を横にやった。
部屋の片隅、キャビネットの上に、古びた木枠の写真立てが置かれている。
埃をかぶってはいない。むしろ、時折拭かれているのだろう、硝子は澄んでいた。
そこに映っていたのは、アリシアと——ある男。
中年の男。無精髭を伸ばし、目の奥に何かを背負ったような、暗くも力強い視線をしている。
アリシアはわずかに笑っていて、その距離感は、他人というよりはもっと近い何かを感じさせた。
……どこかで見たことがある。
いや——“どこか”ではない。
息が止まるような感覚とともに、脳裏に嫌な確信が芽生える。
そこに写っている男は、俺だ。
記憶はない。名前も、過去も、何もかも忘れている。
それでも、鏡の中に映る自分の輪郭と、その男の顔が同じだということくらいは分かる。
年の差はある。あの写真の男は、今の俺よりもずっと年を重ねている。
だが、眉の形も、瞳の色も、口元の癖も——違いはなかった。
言葉が出ない。
ただ呆然と写真を見つめる俺の背後で、アリシアの声がした。
「……それが、かつてのお前の姿だ」
振り返ると、アリシアは立ったまま煙草を指先で弄び、視線を写真に注いでいた。
「私たちは夫婦だった。そう言っただろう?」
胸がざわめく。
彼女の声は柔らかいはずなのに、何かを締め付けるような重みがあった。
返す言葉が見つからないまま、もう一度写真に視線を落とす。
過去の俺は、アリシアの肩に軽く手を置き、ほんの僅かに笑っていた。
けれど、その笑みの奥にあるものは、今の俺には読み取れない。
アリシアが低く続ける。
「……お前は、あの日から死んでいる」
背中に冷たいものが走った。
振り向くと、彼女は視線を逸らさずに言葉を重ねる。
「言い方を変えれば……あの日から、お前の時間は止まってしまった」
沈黙の中、その意味を咀嚼しようとする。
だが言葉よりも先に、胸の奥がざわつき始める。
あの日? 俺は、何を——。
アリシアはゆっくりと、しかしはっきりと告げた。
「……そこに、虚禍が関わっているんだ」
その一言が、頭の奥で鈍く響いた。
虚禍——さっきまで話していた、あの災厄の名が、今度は俺自身に直結している。
まるで、写真の中の男が何かを語りかけてくるように、その瞳が離れなかった。
虚禍という言葉が胸の奥で重く響き、部屋の空気はしばらく沈黙に支配された。
アリシアは煙草の火を静かに揉み消し、視線を窓の外へと移す。
ガラス越しに見えるのは、昼の喧騒に賑わう街並み。
言葉の裏側にある暗い空気とは裏腹に街の様子は活気にあふれているが、その下に何が潜んでいるのかは分からない。
「……ユウキ」
名前を呼ばれ、思わず顔を上げる。
その声音には、普段の軽口や皮肉は微塵もなかった。
代わりに、深く沈んだ何かがあった。
「お前がこうしてここにいるのは、偶然じゃない」
短くそう告げると、彼女は机の上に視線を戻す。
そこには、さっき見た黒い結晶の欠片と、俺とアリシアが並んで写る古い写真が並んでいた。
どちらも、時が止まったように静まり返っている。
「この二つ……一見まったく別物に見えるだろう? だが、私にとっては同じ意味を持つ」
その言葉の真意は分からない。だが、胸の奥にざらりとした感覚が残る。
アリシアはしばし沈黙した後、息を吐いた。
「お前が失ったもの……あたしが知りたいもの……それは全部、虚禍に繋がっている」
視線が重なる。
その瞳の奥に、強い光が宿っていた。
迷いや恐れではなく、決して消えない炎のような決意。
そして、アリシアは言った。
「だからあたしは《黒銀の梟》を作った。国や軍じゃなく、自分の手で虚禍を追い、解き明かすために。そして……あんたを取り戻すために」
彼女は続ける。
「あたしはギルドマスターとして、もう何十年も活動を続けてる。魔術研究や他業種の商売も含めてな。と……まあ、お前みたいな珍しい奴の管理も」
「……あれ? 俺、今“珍しい奴”ってカテゴリに入った?」
「ふっ。この世界じゃ人間なんてお前以外に存在しない。だから、さ?」
「さっきまで神妙な話をしてたくせに」
「もう少し気楽に行きたいんだよ。真面目な話ばっかじゃ肩も凝るだろ?」
まあ、言われてみればそうなんだけど……妙にペットの珍獣扱いされてる気がするのは気のせいか?
「建物は4階建てだ。1階は受付と情報集積、2階は作戦部門、3階が宿泊区画。そしてこの4階が管理部門だ。あたしの部屋もここだな」
アリシアは指折り数えながら説明を続けた。
俺の頭の中には、さっき通ってきた賑やかなホールや、廊下に並ぶ依頼掲示板が浮かぶ。そういえば階段の途中で、鎧を着た屈強な男が剣を磨きながら「噂の奴か……」とぼそっと言ってたっけ。あれ、やっぱ俺のことだよな?
「ギルドの主な部門は、傭兵部門、情報部門、魂術部門、技術部門だ。お前の存在は魂術部門と技術部門の管轄でもある」
「ダブル担当……なんか急に面倒くさくなってきたぞ」
「安心しろ。面倒を見るのはあたしじゃない。お前の整備と魔力供給は専門の連中がやる」
アリシアはニヤリと笑った。
その笑い方がどうにも“これから面白い玩具を手に入れた子供”に見えるのは、やっぱり気のせいじゃないだろう。
「まあ、ここにいる限り、命の心配はするな。あたしらは蘇生契約を扱ってる。死んでも復活できる。ただし——」
「ただし?」
「タダじゃない」
「だろうな!」
当たり前だ。死んでタダで生き返れるなら、この世はゾンビだらけだ。
でもまあ、こうして正面から説明してくれるだけ、アリシアは意外と真面目なボスなのかもしれない。……多分。
彼女はグラスの残りを飲み干し、煙草をもう一本取り出した。
「さて……次は主要メンバーを紹介してやる。あいつらにもお前の顔を見せておかないとな」
「いや、もうすでに見られてる気がするんだけど……」
「顔見せと見られるは別だ。前者は歓迎、後者は観察だ」
「なんかその言い方やだな!」
俺はため息をつきながらも、次に何が待っているのか少しだけ楽しみになっている自分に気づいた。
——このギルド、どうやら退屈だけはしなさそうだ。