第12話 ボスの帰還
◇
港町レスタルムの丘陵地帯、その中央通りにひときわ目立つ黒い外壁の建物がある。
鋭い三角屋根と、壁に刻まれた銀色の梟の紋章——そう、ここがアリシア・ヴェルネス率いるギルド《黒銀の梟》だ。
その扉を押し開けた瞬間、ユウキは空気の変化を肌で感じていた。
外の港風とは違う、妙に濃くて重い、しかしどこか温かい空気。
そして——
「……おかえりなさい、ボス!」
「ギルドマスター帰還!」
受付カウンターに立っていた若い獣人の少女が耳をぴんと立て、奥の廊下からもぞろぞろと人影が現れる。
武骨な鎧を着た傭兵、羽ペンを片手に書類を抱えた事務員、でっぷりした料理人……あらゆる種族の面々が一斉に立ち止まり、アリシアへ視線を向ける。
アリシアはというと、まるで舞台役者のように堂々とした足取りで歩を進めていた。
片手を腰に添え、片眉をわずかに上げ、口元には余裕の笑み。
背後のロングコートが翻るたび、廊下の空気すら巻き込んでいくようだった。
——これぞボスの帰還。威厳とはこういうものか、とユウキは妙に納得してしまう。
「……あれが噂の……?」
「そうらしいぜ。地球とかいう星から来た異邦人だって話だ」
「へぇ〜……思ったより普通?」
「おい、聞こえるぞ」
ユウキは耳ざとく周囲のひそひそ話を拾い、思わず肩をすくめた。
どうやら《黒銀の梟》の中でも、彼の存在はすでに有名らしい。
だが実際に生身で会うのは初めての者が多く、その視線は好奇と驚きが入り混じっていた。
受付ホールを抜け、階段へ向かう。
その途中、ユウキはあっちを見たりこっちを見たり、完全におのぼりさん状態だった。
壁には古びた地図や討伐依頼の張り紙が並び、天井からは青白い光を放つ魔導ランプが吊り下げられている。
廊下を通るたびに部屋の奥から武器を磨く金属音や、誰かが笑いながらカードを切る音が漏れ聞こえてきた。
「おい、置いていくぞ」
「は、はいっ!」
アリシアは振り返らず、まっすぐ階段を上がっていく。
ユウキは慌ててその背中を追った。
螺旋階段を4階まで駆け上がると、そこは受付や訓練場の喧騒とは打って変わって静まり返っている。
重厚な扉がずらりと並び、壁には銀細工のランプと装飾品が整然と飾られていた。
「ここだ」
アリシアが立ち止まったのは、最奥にある両開きの黒い扉の前だった。
取っ手に触れた瞬間、微かに魔力が走る。扉が低い音を立てて開き、ユウキはその向こうの光景に思わず息をのんだ。
——広い。
部屋の中央には大きな黒革のソファとガラスのテーブル、その奥には書棚と魔術道具が並び、壁際には高位召喚陣らしき紋様が刻まれている。
天井近くまで届く窓からは港町と海が一望でき、風がレースのカーテンを揺らしていた。
アリシアは部屋に入るなり机の上の木箱を開け、細長い煙草を一本取り出す。
魔石ライターの青い炎で火をつけ、ふぅ、と紫煙を吐く。
その一連の動作が、やけに様になっている。
次の瞬間、彼女はドカッとソファに腰を下ろした。
片足を組み背もたれに体を預け、煙を吐きながら片目だけこちらを向ける。
「……で、どうだ。うちのギルドは」
まるで映画に出てくる裏社会のボスだ。
威圧感と余裕が同居し、何を考えているのか全く読めない。
ユウキは呆気にとられたまま、なんとか言葉を絞り出す。
「……えっと……すごい……」
その情けない返答に、アリシアは鼻で笑った。
窓の外からは、遠く港の鐘の音が響いてくる。
この部屋に足を踏み入れた瞬間から、ユウキは否応なく悟った。
——ここはただの建物じゃない。黒銀の梟の“心臓”だ。
と。
***
正直、ソファに座るのにも勇気がいった。
何せこのソファ、ただの家具じゃない。見た目は高級感たっぷりの黒革で、座面はやたらと沈み込みそうだし、何より——そこに座っていたアリシアがあまりに“ボス感”を放っていたせいで、軽い気持ちで腰を下ろすと後ろから部下に撃たれそうな気すらする。
俺はそろりそろりと腰を下ろし、猫背気味に落ち着く。
「あー……で、ここって……何するところなんだ?」
とりあえず聞いてみた。質問しないと空気が重すぎて俺の精神が先に潰れそうだったからだ。
アリシアは煙草をくわえたまま、低い笑い声を漏らす。
「何するところ、ね……ふむ。先にこれを片付けるか」
そう言って立ち上がると、部屋の隅に置かれたキャビネットを開けた。中から出てきたのは——でかい瓶。
透明な液体がたっぷり入っていて、ラベルには何やら竜の絵と異国文字が書かれている。見ただけで胃が焼けそうだ。
「お前も飲むか?」
グラスを二つ取り出しながら、アリシアがこっちを見る。
「いや、結構です! 絶対きついやつでしょ、それ!」
「飲めば目が冴えるぞ」
「もう冴えてます! 冴えすぎて頭痛いぐらいです!」
結局彼女は一人で琥珀色の液体を注ぎ、グラスを軽く回してから一口あおった。
その動作が妙に板についていて、俺は内心「映画で見るマフィアのボスかよ」とツッコミを入れる。
「ふぅ……さて」
グラスを置いたアリシアは、ようやく本題に入った。
「うちは《黒銀の梟》——港町レスタルムを拠点にしたギルドだ。傭兵、虚禍対策、古代遺構の探索……その他諸々、危険で金になることならだいたいやってる」
「“諸々”って便利な言葉だよな……」
「便利でいいじゃないか。依頼は民間からも国からも来る。中には公には出せないような“裏”の仕事もな」
アリシアは淡々と説明するが、その内容は軽く聞き流せるほど生易しくない。
傭兵業務、虚禍討伐、魂術サービス、外交的依頼の裏対応……どれも聞きなれない言葉たちだ。
「……なあ、ちょっと待て」
俺は思わず口を挟んだ。
「その……こ、こか? だっけ。なんだよそれ」
アリシアは片眉をわずかに上げたが、すぐには答えなかった。
グラスの中で琥珀色の液体がゆらゆらと揺れる。彼女はそれを一口飲み、煙草をくわえ直す。
沈黙がやけに重く感じる。
「知らない方が、夜ぐっすり眠れるぞ」
そう言いながら、アリシアはキャビネットの引き出しを開けた。
中から取り出したのは、金属の板だった。表面には黒い結晶のようなものがこびりつき、光を吸い込むように鈍く光っている。
俺は条件反射で少し身を引いた。
「……な、何だそれ。気持ち悪い」
「虚禍の心臓のかけらだ」
短くそう言ったあと、アリシアは煙を吐き出す。
「正式には統合認知核(CK)。…ま、呼び方は様々あるがな」
心臓? 生きてる? 死なない? 頭の中に疑問符が乱舞する。
「ちょっと待て。まず“虚禍”って何なんだよ」
俺の問いに、アリシアはようやく視線を上げた。
「コイツは、端的に言やぁ“魔物”だ。…定義は人によって異なるがな」
「…魔物?」
「ああ。だが、形はない。意思もあるかないかすら曖昧だ。けど、触れたものを壊し、飲み込み、自分に作り替える……寄生と増殖だけで出来た災厄だ」
「……生き物……なのか?」
「生き物と呼ぶには、あまりにも無秩序だ。獣にも、虫にも、菌にも似ているが、どれとも違う」
アリシアは指で黒い結晶を軽く弾いた。
「こいつらは物質を選ばない。肉でも、木でも、鉄でも、石でも……全部、自分の一部に変える。港の倉庫がそのまま怪物になったこともあった」
言葉だけで背筋が寒くなる。目の前にある欠片から、何か粘つくような嫌悪感が漂ってくる気がした。
「昔……いや、数百年前、——数万年も前の星間戦争で、虚禍は何十もの世界を食いつぶした」
淡々と語られるその過去に、俺は呼吸が浅くなるのを感じた。
星間戦争——その言葉が胸の奥でざらつくような違和感を残す。
丘の上で見た、あの苔むした巨人——鉄でできたはずなのに、皮膚のような質感に変わりかけていた肩部、ひび割れた装甲の間から覗く黒い結晶の筋——その姿が脳裏によみがえる。
あれも虚禍に侵食されたのだろうか。いや、アリシアの言い方では、もっと前から……あれは戦争の残骸だ。
——星間戦争
言葉にした瞬間、胸の奥がざわつく。記憶の底で何かがぼんやりと浮かび上がっては霧散していく。
アリシアから断片的に聞かされた話——想像と混じったその映像が、頭の中で勝手に広がっていく。
空ではなく、黒い虚空を渡る光の道。船というより生き物のような巨大な影が、星から星へと泳ぐように進む。
そしてその軌跡の先に広がるのは、燃え落ちる大地、砕けた月、軌道上を漂う瓦礫の群れ。
虚禍の群れが波のように押し寄せ、飲み込み、星を丸ごと沈めていく——。
光の道は、静かな闇を切り裂いていた。
かつて“静かな海”と呼ばれた宇宙には、数えきれぬ星々が揺らぎ、淡い色彩で互いを照らし合っていた。
その海を渡るのは、鋼と魔力でできた船——いや、船というよりは、意思を持つ巨大な生き物だった。
星々を繋ぐ光の川を泳ぎ、交易を運び、文化を交わらせ、歌や物語を渡す――本来はそういう時代だったのだと、アリシアは言った。
けれど、その川に“影”が落ちた。
最初は遠い星でのひとつの噂に過ぎなかった。黒い結晶が港を覆い、街が丸ごと沈黙した、と。
やがて影は川を遡り、星から星へと移り、言葉も文化も隔てなく飲み込んだ。
虚禍は、戦争すら戦いと呼べないほどの速度で拡がった。そこに交渉も停戦もなかった。
アリシアの言葉の中で、俺の想像は勝手に動き出す。
燃え盛る大地の向こうで、空が裂ける。
破片となった月が軌道を外れ、ゆっくりと光を失いながら落ちていく。
都市は根こそぎ剥がされ、基礎ごと宙へと漂い、そこに黒い筋が走る。
それは血管にも樹の根にも似ていた。星の命そのものを吸い上げるように。
虚禍の群れは、潮のように押し寄せては引き、また寄せてくる。
波打つのは水ではなく、肉と金属と結晶が混ざり合った異形の塊。
その波間を、同じように異形と化した船が泳いでいた。
かつて旅人を乗せたはずの船が、今は無数の牙と触手を備えた捕食者となり、虚禍の群れと一体化している。
アリシアは、それを「戦争」と呼んだ。
だが、俺の胸に浮かんだのは、もっと別の言葉だった。
——喪失。
それは勝ち負けも、征服も、奪還もない。ただ、失うだけの出来事。
光の川はやがて途絶え、星は孤立し、静かな海は無音の墓場に変わった。
アリシアは俺をまっすぐ見た。
「……虚禍は、はるか昔の時代から存在していた。この星が存在する以前から。そして、お前の命を奪ったのも…」
一瞬、部屋の空気が冷たくなった気がした。
知らないはずなのに、心臓の奥が妙に強く脈打つ。記憶の底で何か黒い影のようなものが蠢く。
アリシアは視線を逸らし、短く煙を吐いた。
その吐息の向こうで、瞳がわずかに揺れているのがわかる。
「……お前と虚禍は、切っても切れない縁がある」
その声は淡々としていたが、どこかで慎重に言葉を選んでいる気配があった。
「縁?」
俺は眉をひそめる。
アリシアはグラスを手に取り、琥珀色の液体をもう一口含んだ。
しばらく沈黙のまま味を転がしそれをゆっくり喉を通すと、ようやく続けた。
「……昔、お前は虚禍と……深く関わる立場にあった」
「関わる?」
「戦場のただ中で、虚禍を相手に戦えるだけの存在は限られていた。お前は、その数少ない一人だった」
言葉尻が妙に重い。
だが、それ以上の詳細は口にしない。
まるで、その先に踏み込ませまいとするように。
「それって……」
問いかけかけた瞬間、アリシアが短く首を振った。
「今はまだ、全部は話せない」
煙草の先が小さく赤く光り、灰がぽとりと灰皿に落ちる。
「ただ一つ言えるのは——お前の身体には、虚禍の痕跡があるってことだ」
胸の奥で何かがずしんと沈む。
痕跡……?
アリシアは俺を見据えたまま、淡々と告げた。
「その力は、いずれ目を覚ます。善い形でか、悪い形でかは……お前次第だがな」
沈黙が落ちる。
琥珀色の液面に映る自分の顔は、ひどく他人のように見えた。
「……全部、わかる時が来るさ」
アリシアはそう言って、また視線をグラスへ落とした。
その横顔は、何かを必死に隠すように静かだった。