表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/30

第10話 港町の入り口にて



風が、顔を切り裂くように吹き抜けた。

息を吸うたび、肺の奥まで冷たさが染み込んでくる。

――いや、冷たいというより、むしろ澄んでいる。こんな空気を吸うのは生まれて初めてだった。


竜の背の鱗は、岩のように固く、陽を受けて黒銀色にきらめいていた。

その鱗の段差に足を踏ん張り、必死に前方のアリシアの腰へしがみつく。落ちたら即死。いや、竜の飛ぶ速度を考えれば、落ちる前に風圧で粉々になりそうだ。


「……なあ、俺たち、どこに行くんだ?」

「決まってるだろ。あたしの街さ」

振り返ったアリシアの唇が、ほんのわずかに笑みを形づくる。

「レスタルム。ここから数百キロ先だ」


数百キロ。

その距離の感覚なんて、この世界の地理も単位も知らない俺にはわからない。ただ、歩くのは絶対ごめんだと思えるくらいには、遠い響きだった。


「まあ、ヴァルゼルならあっという間だ」

アリシアが軽く手綱を引くと、ヴァルゼルは喉の奥で低く鳴いた。

次の瞬間、巨大な翼が全開になり、視界の全てが風と光に変わった。



世界が爆発する。



空気が耳元で破裂音を立て、景色が一瞬で後方へ流れ去っていく。

眼下の大地はみるみる縮んでいき、森は緑色の絨毯に、川は銀色の糸に変わった。


「うおおおおおっ……!」

思わず声が出る。叫ばなきゃ、肺が潰れそうなほどの風圧だった。

アリシアの背中越しに遠くの地平線が見える。そこには、青緑色の山脈が果てしなく連なっていた。


山肌には、宝石みたいな光の粒が点々と散らばっていた。

「あれ……光ってる?」

「ミスリルと黒銀の鉱脈だよ。掘りに行ったきり帰らない者もいる」

彼女の声は風に削られながらもはっきり耳に届いた。命をかける価値がある資源――それが、この世界では当たり前らしい。


山々を越えると、広大な草原が広がった。

まるで絵筆で塗り重ねたような緑の濃淡が、風に揺れて波打っている。その間を縫うように、一本の川が煌めきながら流れていた。

やがて川は巨大な湖に注ぎ、風が吹くたびに銀色のさざ波を散らしている。時折黒い影が、水面近くをゆっくりと横切った。


「あれは?」

「湖の守り神 《ルーンフィッシュ》。湖の守り神さ。船くらいならひっくり返せる」

……頼むから、笑いながら言わないでくれ。


さらに高度を下げると、地平線の向こうに青い輝きが広がった。

「見えるか、あれが蒼湾だ」

陽光を反射する海が限りなく広がっている。潮の匂いが、風に混じってここまで届いてくるような気がした。


その湾の奥――

無数の帆船が停泊する港と、白い石造りの塔、そして丘の斜面に折り重なるように広がる街並みが見えた。屋根の色は赤や青、そして灰色。煙突から上がる煙が、朝の光の中で細くたなびいている。


「……あれが」

「港湾都市レスタルム。交易と鉱山の街さ」

彼女の声には、故郷を語る者の確かな響きがあった。


胸の奥がざわめいた。

俺には、生まれた場所の記憶も、過ごした時間の断片もない。

それでもこの街の光景は、――不思議と懐かしさを呼び起こす。まるで遠い昔にどこかで見た夢の続きを、空の上から覗き込んでいるようだった。


ヴァルゼルが旋回しながら高度を落とす。

港から響く人々の声や、金属を打つ音、波の砕ける音が少しずつ近づいてくる。

「さあ、行くぞ」

アリシアがそう言った瞬間、ヴァルゼルの翼が大きくしなり、俺たちは港の方へ急降下した。



大地が、迫ってくる。

……いや、正確には俺たちが迫ってるんだけど、それを冷静に実況できる余裕は今の俺にはない。

 

「うおおおおおおあああああ!!!」


腹の底から絞り出した声は、風と一緒に千切れてどこかへ飛んでいった。


ヴァルゼルの巨大な影が地面に落ち、瞬く間に大きくなる。

翼が最後にひとしなりして、ふわりと浮遊感――かと思えば、ドスンッという衝撃。

俺は反射的にアリシアの腰にしがみつき、そのまま数秒間、固まっていた。


……生きてる。

俺、生きてるぞ!

足元の鱗を握りしめた手をゆっくり外すと、ヴァルゼルは鼻息をひとつ吐き、のっそりと前脚を折ってしゃがみこんだ。

「降りるぞ、ユウキ」

「あ、ああ……」


足を地面に下ろした瞬間――ぐらり、と視界が揺れた。

いや、揺れてるのは視界じゃなくて俺の足。空の上で踏ん張っていたせいか、膝が完全にガクついている。

俺はふらつきながら、なんとか立ち上がった。


そこはレスタルムの外縁、街から少し離れた原野だった。

足元には、短く刈られた草が風に揺れ、遠くまでなだらかな丘陵が続いている。

丘の向こうには青い海がきらめき、潮風が鼻をかすめていった。

塩の匂い。湿った空気。けれど、不快さはまるでない。むしろ、肺の奥まで新鮮な空気が染み渡っていくようだった。


「……すげえ」

思わず呟く。

原野の緑、海の青、そして空の白。三色が重なって、絵画みたいな風景を作っている。


そして、その向こうに――


レスタルムがあった。

港を抱き込むように広がる街並みは、遠目からでも“美しい”とわかる。

蒼湾を背景に、白い石造りの建物が段々畑みたいに丘に沿って積み重なっている。屋根は赤や青、灰色が混じり合い、まるで色とりどりの貝殻を並べたようだ。

港には大小さまざまな船が停泊し、海面にゆらめく帆が風をはらんで揺れていた。

上空をかすめるカモメの声と遠くから聞こえる鐘の音が、不思議な調和を奏でている。


「……これが、あんたの街か」

「そうだ」

アリシアは短く答え、街を見つめた。その目に、わずかな誇りが宿っているように見えた。


ヴァルゼルは、その場でゆっくり身を翻すと、鼻先を軽く地面に押しつけ、まるで「行ってこい」と言っているようだった。

「ここで別れだ。ヴァルゼルは街には入らない」

「そりゃまあ……こんなでかいのが入ったら、市場がパニックだよな」

俺が苦笑すると、ヴァルゼルは片方の目を細めて俺を見た。なんだその“お前も気をつけろよ”みたいな視線は。


アリシアと並んで丘を下る。

道は固い土で踏み固められ、ところどころに野の花が咲いていた。黄色い花弁が潮風に揺れるたび、ふわっと甘い香りが漂ってくる。

丘を降りるにつれ、街の音が少しずつ近づいてくる。遠くで鍛冶の槌音がカンカンと響き、どこかの商人が威勢のいい声を張り上げているのが聞こえた。


やがて街の外壁が見えてきた。

外壁は白い石を積み上げたもので高さはそれほどないが、丁寧に整えられたアーチ型の門がある。門の上には海鳥の意匠が刻まれ、その翼が港へと伸びているように見えた。

門前には人と荷車が行き交い、商人らしき男が積荷の帳簿を確認している。見たことのない果物、木箱、樽があふれ、鼻腔を刺激する香辛料の匂いが混ざっていた。


「ようこそ、港湾都市レスタルムへ」

アリシアがそう言った瞬間、なんだか映画のワンシーンみたいに感じた。

――いや、映画を見た記憶なんてないはずなんだけど。


胸の奥で、妙なざわめきが広がっていた。

この街で、俺は何を見て、何を知るんだろう――そんな予感が潮風と一緒に、静かに心に降り積もっていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ