第10話 港町の入り口にて
風が、顔を切り裂くように吹き抜けた。
息を吸うたび、肺の奥まで冷たさが染み込んでくる。
――いや、冷たいというより、むしろ澄んでいる。こんな空気を吸うのは生まれて初めてだった。
竜の背の鱗は、岩のように固く、陽を受けて黒銀色にきらめいていた。
その鱗の段差に足を踏ん張り、必死に前方のアリシアの腰へしがみつく。落ちたら即死。いや、竜の飛ぶ速度を考えれば、落ちる前に風圧で粉々になりそうだ。
「……なあ、俺たち、どこに行くんだ?」
「決まってるだろ。あたしの街さ」
振り返ったアリシアの唇が、ほんのわずかに笑みを形づくる。
「レスタルム。ここから数百キロ先だ」
数百キロ。
その距離の感覚なんて、この世界の地理も単位も知らない俺にはわからない。ただ、歩くのは絶対ごめんだと思えるくらいには、遠い響きだった。
「まあ、ヴァルゼルならあっという間だ」
アリシアが軽く手綱を引くと、ヴァルゼルは喉の奥で低く鳴いた。
次の瞬間、巨大な翼が全開になり、視界の全てが風と光に変わった。
世界が爆発する。
空気が耳元で破裂音を立て、景色が一瞬で後方へ流れ去っていく。
眼下の大地はみるみる縮んでいき、森は緑色の絨毯に、川は銀色の糸に変わった。
「うおおおおおっ……!」
思わず声が出る。叫ばなきゃ、肺が潰れそうなほどの風圧だった。
アリシアの背中越しに遠くの地平線が見える。そこには、青緑色の山脈が果てしなく連なっていた。
山肌には、宝石みたいな光の粒が点々と散らばっていた。
「あれ……光ってる?」
「ミスリルと黒銀の鉱脈だよ。掘りに行ったきり帰らない者もいる」
彼女の声は風に削られながらもはっきり耳に届いた。命をかける価値がある資源――それが、この世界では当たり前らしい。
山々を越えると、広大な草原が広がった。
まるで絵筆で塗り重ねたような緑の濃淡が、風に揺れて波打っている。その間を縫うように、一本の川が煌めきながら流れていた。
やがて川は巨大な湖に注ぎ、風が吹くたびに銀色のさざ波を散らしている。時折黒い影が、水面近くをゆっくりと横切った。
「あれは?」
「湖の守り神 《ルーンフィッシュ》。湖の守り神さ。船くらいならひっくり返せる」
……頼むから、笑いながら言わないでくれ。
さらに高度を下げると、地平線の向こうに青い輝きが広がった。
「見えるか、あれが蒼湾だ」
陽光を反射する海が限りなく広がっている。潮の匂いが、風に混じってここまで届いてくるような気がした。
その湾の奥――
無数の帆船が停泊する港と、白い石造りの塔、そして丘の斜面に折り重なるように広がる街並みが見えた。屋根の色は赤や青、そして灰色。煙突から上がる煙が、朝の光の中で細くたなびいている。
「……あれが」
「港湾都市レスタルム。交易と鉱山の街さ」
彼女の声には、故郷を語る者の確かな響きがあった。
胸の奥がざわめいた。
俺には、生まれた場所の記憶も、過ごした時間の断片もない。
それでもこの街の光景は、――不思議と懐かしさを呼び起こす。まるで遠い昔にどこかで見た夢の続きを、空の上から覗き込んでいるようだった。
ヴァルゼルが旋回しながら高度を落とす。
港から響く人々の声や、金属を打つ音、波の砕ける音が少しずつ近づいてくる。
「さあ、行くぞ」
アリシアがそう言った瞬間、ヴァルゼルの翼が大きくしなり、俺たちは港の方へ急降下した。
大地が、迫ってくる。
……いや、正確には俺たちが迫ってるんだけど、それを冷静に実況できる余裕は今の俺にはない。
「うおおおおおおあああああ!!!」
腹の底から絞り出した声は、風と一緒に千切れてどこかへ飛んでいった。
ヴァルゼルの巨大な影が地面に落ち、瞬く間に大きくなる。
翼が最後にひとしなりして、ふわりと浮遊感――かと思えば、ドスンッという衝撃。
俺は反射的にアリシアの腰にしがみつき、そのまま数秒間、固まっていた。
……生きてる。
俺、生きてるぞ!
足元の鱗を握りしめた手をゆっくり外すと、ヴァルゼルは鼻息をひとつ吐き、のっそりと前脚を折ってしゃがみこんだ。
「降りるぞ、ユウキ」
「あ、ああ……」
足を地面に下ろした瞬間――ぐらり、と視界が揺れた。
いや、揺れてるのは視界じゃなくて俺の足。空の上で踏ん張っていたせいか、膝が完全にガクついている。
俺はふらつきながら、なんとか立ち上がった。
そこはレスタルムの外縁、街から少し離れた原野だった。
足元には、短く刈られた草が風に揺れ、遠くまでなだらかな丘陵が続いている。
丘の向こうには青い海がきらめき、潮風が鼻をかすめていった。
塩の匂い。湿った空気。けれど、不快さはまるでない。むしろ、肺の奥まで新鮮な空気が染み渡っていくようだった。
「……すげえ」
思わず呟く。
原野の緑、海の青、そして空の白。三色が重なって、絵画みたいな風景を作っている。
そして、その向こうに――
レスタルムがあった。
港を抱き込むように広がる街並みは、遠目からでも“美しい”とわかる。
蒼湾を背景に、白い石造りの建物が段々畑みたいに丘に沿って積み重なっている。屋根は赤や青、灰色が混じり合い、まるで色とりどりの貝殻を並べたようだ。
港には大小さまざまな船が停泊し、海面にゆらめく帆が風をはらんで揺れていた。
上空をかすめるカモメの声と遠くから聞こえる鐘の音が、不思議な調和を奏でている。
「……これが、あんたの街か」
「そうだ」
アリシアは短く答え、街を見つめた。その目に、わずかな誇りが宿っているように見えた。
ヴァルゼルは、その場でゆっくり身を翻すと、鼻先を軽く地面に押しつけ、まるで「行ってこい」と言っているようだった。
「ここで別れだ。ヴァルゼルは街には入らない」
「そりゃまあ……こんなでかいのが入ったら、市場がパニックだよな」
俺が苦笑すると、ヴァルゼルは片方の目を細めて俺を見た。なんだその“お前も気をつけろよ”みたいな視線は。
アリシアと並んで丘を下る。
道は固い土で踏み固められ、ところどころに野の花が咲いていた。黄色い花弁が潮風に揺れるたび、ふわっと甘い香りが漂ってくる。
丘を降りるにつれ、街の音が少しずつ近づいてくる。遠くで鍛冶の槌音がカンカンと響き、どこかの商人が威勢のいい声を張り上げているのが聞こえた。
やがて街の外壁が見えてきた。
外壁は白い石を積み上げたもので高さはそれほどないが、丁寧に整えられたアーチ型の門がある。門の上には海鳥の意匠が刻まれ、その翼が港へと伸びているように見えた。
門前には人と荷車が行き交い、商人らしき男が積荷の帳簿を確認している。見たことのない果物、木箱、樽があふれ、鼻腔を刺激する香辛料の匂いが混ざっていた。
「ようこそ、港湾都市レスタルムへ」
アリシアがそう言った瞬間、なんだか映画のワンシーンみたいに感じた。
――いや、映画を見た記憶なんてないはずなんだけど。
胸の奥で、妙なざわめきが広がっていた。
この街で、俺は何を見て、何を知るんだろう――そんな予感が潮風と一緒に、静かに心に降り積もっていった。