第2話 誕生日② —刹那の不安—
水族館を出たころには、夕陽が街をオレンジ色に染め始めていた。
柔らかな風が頬を撫でる中、私たちはゆっくりと近くの公園を散策していた。
並んで歩く澪の手を、存在を確かめるようにそっと握り直す。
(……こんな時間が、ずっと続けばいいのに)
そんなふうに思った瞬間、胸の奥に、小さな不安がよぎる。
(でも、いつかこの手が離れてしまったら——?)
ふと、澪の穏やかな横顔を見上げた。
その気配に気づいたのか、彼がこちらを向いた。
「どうした?」
「な、なんでもないわよ。……ただちょっと、ぼーっとしてただけ」
誤魔化すように首を横に振ってみせるけど、心の中では言葉が喉元までこみ上げていた。
「——夏希」
澪の優しい声が、耳に溶けていく。
私は自然とそちらを向いていた。
「光恵さんにも、椎名先輩にも言われただろ。不安とか、ちゃんと伝え合うことが大事だって。……何かあるなら、話してほしい」
まっすぐな目に見つめられて、私はもう、逃げることができなかった。
「……もし、澪が私を好きじゃなくなったらって……ちょっとだけ、怖くなったの。そんなの、考えても仕方ないってわかってるのに」
言葉にしてしまうと、なぜか涙が出そうだった。
そんな私に、澪は一歩、歩み寄る。
「ごめん」
その一言のあと、私はやさしく抱きしめられていた。
「きゃっ……⁉︎」
思わず悲鳴のような声が漏れる。
けれど、澪の腕はただ優しく、柔らかい布のように包み込んでくれた。
「れ、澪……っ?」
「そこまで考えてくれて、嬉しいよ」
耳元に落とされる声は、まっすぐで温かい。
「確かに、この先のことなんて誰にもわからない。でもさ、あのとき言っただろ? 『幸せにする』って」
「あっ……」
初めてを捧げたあと、澪はそう誓ってくれた。
「その場の勢いじゃないよ。本気だから」
澪はあのときと同じように、ほんのりと頬を染め、それでもまっすぐに私を見つめていた。
熱のこもった瞳に射抜かれ、全身が熱くなってしまう。
(バカ……そんなの、ずるいじゃない……)
涙がにじみそうになるのを、ぐっと堪えて。
私は彼の胸元をぎゅっと掴んだ。
「……幸せにするって……澪も、だから」
一緒に、幸せになりたい——。
それが、私の偽らざる想いだった。
澪は目を見開いたあと、嬉しそうに表情を綻ばせた。
「——そうだな。絶対、二人で幸せになろう」
静かに手を伸ばし、私の涙を指先で拭う。
そこから伝わってくる熱が、やけにくすぐったい。
「なによ、その余裕……澪のくせに」
気づけば、そんな文句めいた言葉を口にしていた。
隣から、やわらかな笑い声が返ってくる。
「夏希が、そうしてほしいって言ったんだろ?」
「う、うるさいわね」
口ではそういうけど、怒る気なんてさらさらない。
顔を背けるふりをして、私はくすくすと笑った。
(——ほんと、澪って、ずるい)
ぎゅっと握り返した手に、そっと指を絡める。
「……ありがと、澪」
声に出すのは、照れくさかった。
だから、内緒話をするように囁いた。
澪はきっと、全部聞こえていたはずだ。
ちらりと横を見ると、彼は何も言わずに、ただ嬉しそうに目を細めていた。
(これからも、きっと。こんなふうに隣で、笑ってくれますように——)
夕暮れの光に包まれながら、私たちはもう一度、強く手を繋ぎ直した。
「——あっ」
並んでベンチに腰掛けていると、澪がふと、腕時計に視線を落とした。
「そろそろ時間かも。行こうか」
「うん」
どこか緊張した面持ちのまま、私は彼の隣を歩く。
夕暮れの空に照らされながら、数分もしないうちに、澪が足を止めて前を指差した。
「あそこだよ」
その指の先には、落ち着いた木目の看板に、控えめなロゴがついたお店。
中が見えない曇りガラスのドアの向こうに、やわらかな光がもれている。
「……えっ、ここ?」
思わず、変な声が出てしまった。
(思ったより、ずっと大人っぽい……!)
急に服装が気になってしまう。オシャレしてきたつもりだけど、ちょっとカジュアルすぎたかも。
(……こんなところに来るなんて、聞いてないんだけど……っ)
私の動揺を見て、澪が少しだけ笑った。
「大丈夫。そんなに高くないし、雰囲気だけちょっと大人なだけだから」
「そ、そう……ならいいけど」
緊張は消えないまま、彼の後ろをついていく。
扉を開けると、ジャズが流れる、落ち着いた空間が広がっていた。
「白石様ですね。お待ちしておりました」
店員さんに案内されながら、私は澪の横顔をチラチラと盗み見た。
いつもより背筋が伸びていて、視線もキョロキョロと動いている。
(澪も、緊張してるんだ……)
自分だけじゃないとわかると、少しだけ安心できた。
案内されたのは、壁に囲まれた半個室のような席だった。
「ごゆっくりどうぞ」
店員さんが一礼をして去っていくと、自然と二人きりの空間ができあがる。
(……よかった。ここなら落ち着いて話せそう)
私は心の中で、張り詰めていた糸がほどけるのを感じた。
「やっぱり、こういうところって緊張するな」
澪が照れたように笑う。
「そうね。でも、いい雰囲気じゃない」
「こういう感じ、嫌いじゃないか?」
「えぇ。ちょっと慣れないけど……でも、落ち着くわ」
「そうか……良かった」
澪がホッと肩の力を抜き、くすぐったそうに微笑んだ。
「っ……」
意思とは関係なしに、心臓が跳ねる。
あと何回耐えられるかのか、そろそろ心配になってくるころだ。
そんなバカらしいことを考えていると、澪がメニューをこちらに向けてくれる。
「何か食べたいもの、あるか?」
「うーん、特にこれっていうのは……」
私が言葉を濁すと、澪はにこりと笑ってメニューの一角を指差した。
「じゃあ、これなんてどうだ? 夏希、好きだろ?」
「あっ……」
(覚えてて、くれたんだ)
そんな些細なことが、どうしようもなく嬉しくて。
「せっかくだし、それにするわ」
気がつくと、私は微笑んでいた。
間もなくして、料理が運ばれてくると、澪がジュースのグラスを持ち上げた。
「ジュースだと締まらないけど……夏希。改めて、誕生日おめでとう」
「っ、なによ、急に……」
そう言いながらも、私もグラスを取り、澪のそれに合わせた。
カチン、と小さく澄んだ音が響く。
「……ありがと」
視線を合わせるのが恥ずかしくて、それでも——嬉しくて、胸がぎゅっとなった。
その後は、二人で和やかに食事を楽しんだ。
特別な話題があるわけではないけれど、穏やかな時間が流れていく。
やがて、デザートが運ばれてくる。
「……今日は、本当にありがとう」
甘い香りのケーキを前にして、私は照れくささを押し殺しながら口を開いた。
「水族館も、公園も、それにこのお店も。……どれもすごく嬉しかったわ。奢ってもらってばかりで申し訳ないけど」
少し肩をすくめて言うと、澪がふっと笑った。
「誕生日なんだから、当然だろ。それに——まだ『今日』は終わってないしな」
「えっ……?」
その言葉に、私はきょとんとする。
時間的な意味だと思いつつも、澪の表情がわずかにこわばっているように見えて、胸の奥がドキッと跳ねた。
(……もしかして?)
そんな期待を胸に、私は澪の顔を控えめに見つめた。
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