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8.親子の距離

 母さんが編み出して、私に教えてくれた料理のおかげで、スコットの偏食もどうにかなりそうだった。母さんを亡くして一人になってから、初めてこの知識がきちんと役に立った気がする。そのことが、とても嬉しかった。


 となると、次はスコットが寝る時間の管理だ。今朝方はクラレンスと二人がかりで叩き起こしたが、毎朝これをやるのは辛い。ならば、スコットが自力で起きられるように、早く寝かせる。それしかないだろう。


 そう意気込んで、足音を忍ばせてスコットの部屋に向かった。既に夜遅く、真夜中までもう間もない時間帯だった。こんな時間に若い男性の部屋を訪ねるということにはちょっと抵抗もあるし、恥ずかしくもある。


 しかし今の私は八歳の子供だ。娘が父の部屋を訪ねていくことに、何の問題があろうか。たとえ、真夜中であっても。そう腹をくくって、スコットの部屋の扉を叩いた。


「……お父様、起きておられますか」


「ああ、起きているよ。何か用かな? そのまま入ってくれ」


 思ったよりもずっと元気な声が返ってきた。言われた通りに中に入ると、机に向かって何かを読んでいるらしいスコットの背中が見えた。彼はくるりと振り返ると、のんびりと尋ねてくる。


「どうしたのかな、パメラ。こんな時間に。子供はもう寝る時間だろう」


「大人ももう寝る時間です、お父様」


 よく見ると、スコットは寝間着に着替えてすらいない。上着を脱いでガウンを羽織ってはいるが、その下は普段着のままだ。


「……着替えもまだだなんて、クラレンスさんを呼んできたほうがよさそうですね」


 精いっぱい低い声でそう言うと、やっとスコットがあせりを見せた。


「それはやめてもらえるとありがたいね。そもそも、君は何をしに来たのかな」


「お父様が早寝早起きをできるように、見張りに来ました」


「見張り……って、私は子供ではないよ」


「子供のほうがずっと、規則正しく健康的な生活をしています」


 そう言い切る私に、スコットは困った顔で小首をかしげていた。


「私が不健康でも、別に問題はないような……」


「あります。あなたは私の養父なんですから、元気に長生きしてくれないと困ります」


「ああ、君の行く先のことを心配しているのか。だったら、今のうちに一筆書いておこうか。私に何かあったら、問答無用で君を次の当主にすると」


 スコットはなんのためらいもなく、いたって真顔でそう言った。驚きのあまり、言葉に詰まる。確かにそれなら、スコットがどれだけ不健康でも、問題にならない。もれなくこの家を継がなくてはならないのが難点だが、少なくとも私が生活に困るようなことはない。


 こんなところまであの公爵夫人が追いかけてくることもないだろうし、私は一生を安心して過ごすことができる。そう納得しかけた時、別の考えがわき上がってきた。


 でも。彼が病を得たり、いなくなってしまうのは嫌だ。


 母さんを亡くしてから一年、人間の嫌なところはたくさん見てきた。正直、人間不信になりそうなくらいに。そのせいか今でも私は、スコットやクラレンスとの距離を測り損ねている。彼らにどれくらい気を許していいのか、分からないのだ。


 それなのに、スコットには元気でいてもらいたいと、素直にそう思っていた。彼がいなかったら、きっと今の居場所はもっと味気ないものになってしまうのだろうと、そう思った。


「……縁起でもないことを、言わないでください。とにかく、今日はもう寝てください」


 思ったよりもずっと、悲痛な声が出てしまった。驚いて口をつぐみ、視線をそらす。スコットも今の声音に気づいただろうに、相変わらずのおっとりとした調子で口答えを続けていた。


「それを言うなら、君こそもう寝ないといけないだろう」


「お父様が寝たら、私も寝ます」


 なおも懸命に言いつのると、スコットは大げさに肩をすくめて立ち上がった。


「分かった、分かった。降参するよ。着替えるから、もう帰ってくれるかな」


 その言葉に、仕方なくうなずいて部屋を出る。本当にスコットは、きちんと寝てくれるだろうか。もしかしたら、口うるさい私を部屋から追い出すための方便だったのかもしれない。


 気にはなるけれど、それを確かめに行く訳にもいかない。ここで戻ったら、スコットのことを信用していないと思われてしまう。


 いや、彼のことを信用していないのは事実だ。彼の今までのふるまいを考えれば、口うるさい私がいなくなったのをいいことに、また読書に戻ってしまっている可能性のほうが高い。


 小さくため息をつきながら、自室に戻る。スコットのことは気になったけれど、私はそこまで踏み込むべきではない。既に、かなり出過ぎた真似をしているという自覚はあった。


 もし彼が実の父だったら、こんな風に引かなくても済んだのだろうか。そんなことを考えた拍子に、胸がちくりと痛んだ。




 次の日の朝、またスコットの部屋を訪ねていくと、彼は既に起きていた。しかも、きちんと寝間着から部屋着に着替えていた。


 朝から大騒ぎをして疲れるくらいなら、ちょっと無理をしてでもさっさと起きたほうがいいと思ったんだ。彼はまだ少し眠そうな顔で、そう言った。


 そして朝食も、つつがなく済んだ。また一品だけ、母さんに教わった料理を加えてもらったのだ。今度は魚だった。大きな骨をとって包丁でよく叩き、香味の強い野菜のみじん切りと混ぜて団子にしたものを煮込んだ、あっさりとしたスープだ。


「肉……にしては、なんだか舌触りが違うような?」


 スコットは小首をかしげながらも、きれいにたいらげていた。クラレンスとこっそり顔を見かわして、無言で笑う。


「なんだか二人とも、機嫌が良さそうだね?」


「ええ。全部お嬢様のおかげなのだなと、そのことをひしひしとかみしめているところですよ」


 少し大げさに笑ってみせるクラレンスと、首をかしげ続けているスコット。私は行儀良く、黙々と食事をとっていた。


 私は、立場上は彼らととても近いところにいる。けれど私は、まだ彼らの間に踏み込むほど親しくはない。そのことが、少しばかり寂しく思えていた。


 朝食後はいつものように、スコットに借りた本を抱えて西の離れの二階に向かう。最近では私もそれなりに専門用語を覚えたので、スコットに質問することもめっきりと減っていた。机に向かって何やら書き物をしている彼を横目に見ながら、ただ黙々と本を読む。


 ふいに、スコットが立ち上がった。おそらく庭に出るのだろう。けれど私は何も言わず、おとなしく座っていた。


 もし私が本当に子供だったら、無邪気に問いかけたかもしれない。お父様、どこに行くのですか、と。そしてそのまま、彼の後を追いかけていったかもしれない。でも私の中身は、もう一人前の大人だ。そんな余計な分別が、彼の後を追うことをためらわせていた。


 実のところ、私は屋敷の中を自由に歩き回ってもいいらしい。それでも、あまり勝手に動き回る気にはならなかったのだ。私にとって、ここはあくまでも他人の家でしかなかったから。


 下り階段に向かっていくスコットの後姿をちらりと見てから、また手元の本に目を落とす。


 今読んでいるのは、初心者向けの植物図鑑だ。色々な植物の名前や分類に加えて、分かりやすい説明が載っているので読んでいて楽しい。


 上質の紙に、黒のインクで文字と絵が刷られ、さらにその上から手描きで色が乗せられている。こんな田舎の男爵家にはまったく似つかわしくない、高級なものだ。


 この屋敷にはうなるほど本がある。この離れの二階の壁は本棚で埋めつくされているし、母屋にも本で埋まった部屋がいくつもある。


 そして恐ろしいことに、どうやらスコットはそれらの本を全て読み終えているようなのだ。いったいいつから読み始めたのか、どんな速度で読んでいるのか。


 そんなことを考えながら読み進めるうちに、いつの間にか本に没頭してしまっていたらしい。目の前にいきなり差し出された赤くかぐわしい何かに、驚いて声を上げる。


「……イチゴ?」


 うっとりするような甘酸っぱい香りを放っているイチゴをつかんでいる大きな手。手首からひじへ、肩へと順に視線を移していくと、困ったように笑うスコットと目が合った。


「庭になっていたのが、やっといい感じに赤くなっていたのを思い出したんだ。その、子供はこういうものが好きだろう? ほら、手を出して」


 そう言って、彼はさらにイチゴを近づけてくる。おずおずと差し出した私の小さな手のひらに、みずみずしいイチゴが一つ、乗せられた。


「二つ摘んできたから、一つずつだよ」


 そう言うと、スコットはもう一つのイチゴを自分の口に放り込んだ。戸惑いながらも、手にしたイチゴに大きく口を開けてかぶりつく。


「……!!」


「はは、これは」


 イチゴはびっくりするくらい酸っぱかった。思わず身震いする私と、笑い出すスコット。


「実は、庭のイチゴを食べるのは私も初めてなんだ。いきなりはずれをつかませてしまって、悪かったね」


 どうやら彼は、私のためにわざわざイチゴを持ってきてくれたらしい。そのことが嬉しくて、つい笑みが漏れる。そんな私を見て、スコットは晴れやかに笑った。


 甘酸っぱい香りが漂う中、私たちはそうやって笑顔を向け合っていた。ほんのちょっとだけ彼との距離が近づいたような、そんな気がした。

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