5.新たな生活の始まり
朝、小鳥の声で目覚める。森が近くにあるからなのか、驚くほど鳥が多い。起き上がって窓を開けると、さわやかな風が吹き込んできた。すぐ下の庭で咲いている花の香りが、ふわりと鼻をかすめる。とても気持ちのいい朝だった。
旅の途中、スコットはクラレンスに手紙を送り、私がこの屋敷で暮らせるように部屋を整えさせていた。これからは、ここが私の部屋になるらしい。屋敷の二階、庭に面した南側の部屋だ。
一年前、母さんを亡くすまで、私は地方の町の小ぶりな家で暮らしていた。今はもう誰かの手に渡ってしまったあの家の、住み慣れた部屋を思い出す。狭いけれど、居心地のいい場所だった。
くるりと振り返り、新しい自室を見渡す。私が小さくなってしまったせいか、この部屋はやけに広く感じられた。貴族の屋敷にしてはかなり質素だが、私はこれくらいの方が落ち着ける。
今までにあちこちの屋敷に泊まったけれど、どこもかしこもぎらぎらとしていて、とてもくつろげるような場所ではなかった。どうも私は、基本的に貴族とは趣味が合わないらしい。
その点、スコットは今まで会った他の貴族とは違うように思えた。立ち居ふるまいには気取ったところが全くないし、服も馬車も、質素で機能性重視のものばかりだった。男爵という低い爵位のせいなのか、それとも本人の人柄のせいなのか。
そんなことを考えながら壁際のクローゼットに歩み寄り、扉を開ける。その中には、様々な子供服が並んでいた。これらは、スコットと旅をしている間に彼が買いそろえてくれたものと、あとはクラレンスが用意してくれたものだ。質はいいけれど、過度に華美ではないし、着心地もいい。
自分の家は零細男爵家なのだと、旅の間いつもスコットは言っていた。けれどそれにしては、お金に困っている様子はない。上位の貴族のようにじゃぶじゃぶとお金を使っている気配はないけれど、必要なことにはきちんと出費を惜しまない。今のところの彼の印象は、そんな感じだった。
適当に服を一枚選び、さっさとそれに着替える。かつて貴族の屋敷を渡り歩いていた頃は、メイドたちが着替えを手伝おうとしてくるので閉口したものだ。服くらい、自分一人で着られる。毎回毎回、そう主張して彼女たちを追い払っていたものだ。
そうして着替え終わった頃合いを見計らったかのように、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「パメラお嬢様、お目覚めですか」
「はい。もう着替えも終わりました。ちょうど今、食堂に向かおうと思っていました」
扉を開けると、クラレンスがにこにこと笑いながら一礼した。
「おや、そうでしたか。ならばそちらまで、ご一緒させていただいても?」
彼の頼みを断る理由もないので、素直にうなずく。部屋を出て、クラレンスと二人並んでのんびりと歩き出した。
「ああ、そういえば伝え忘れておりました。この屋敷の中では、ご自由にしてくださって構いません。ただし、奥の庭は立ち入り禁止です、危険ですので。入りたいのであれば、スコット様の許しを得てください」
クラレンスがすらすらと、そんなことを告げてくる。その内容が引っかかって、つい口を挟んでいた。
「あの、自分で言うのも何ですが……いいんですか? 自由に、って」
スコットは私のことを隠し子だと言い張っているが、もちろんそうではない。そのことはクラレンスも理解している。昨日の彼の反応を見ていれば、それは明らかだった。
しかも私は、自分の素性を誰にも明かしていない。つまり彼らにとって、私はただの不審者だ。
そんなものをいきなり自由にさせておくだなんて、どう考えても不用心ではないのか。それはまあ、今の私は八歳の子供でしかないし、彼らは油断しているのかもしれないけれど。
眉をひそめる私に、クラレンスはしれっとそう答えた。
「ええ、あなたはスコット様のご息女、つまり将来はこの屋敷の主人となられるお方ですから。この屋敷のものは、いずれはあなたのものになりますね」
クラレンスの黒に近い青の目は、とても愉快そうに細められている。
「これは余談なのですが、スコット様は昔からほんっとうに女性に興味がなく。十五、六の頃といえば、ひたすらこの屋敷にこもって一人で黙々と研究三昧でしたね」
「……やっぱりそんな感じでしたか」
想像通りの姿に、思わず額を押さえる。スコットには色恋が似合わないにもほどがあるのだ。そもそも、生活感すらない。なんというか、とにもかくにも浮世離れしたところがあるのだ。
「ええ、そんな感じでした。ですからまあ、あの方に隠し子がいただなんて、誰一人として信じないとは思いますよ」
「……ですよね」
「もっとも、しつこく追及してくるのは一部の親戚連中だけですから、その面々さえ黙らせられれば問題はありません。私も協力しますから頑張ってくださいね、お嬢様」
「ありがとうございます」
にこりと笑うクラレンスに、ため息交じりに答える。彼は足を止めると、何やら考え込んでいるような顔で私をじっと見た。
「一つ、私の方から尋ねてもよろしいでしょうか」
こくんとうなずくと、クラレンスは素早く周囲に目を走らせた。そのまま私のそばにかがみこみ、耳打ちしてくる。
「パメラ様は今、おいくつなのでしょうか」
「あ、えっと、八歳、です……」
十八歳、と言いかけてあわててごまかす。力を目一杯使って小さくなったのだから、たぶん私は十年若返っている。だから、八歳で合っているはずだ。
「八歳、ですか。ふむふむ」
クラレンスの目が、きらりと怪しく光る。全く納得していない顔だ。
「しかしこうして話している分には、そうですね、十二……いえ、少なくとも十五くらいには感じます。あるいは、もっと上でしょうか。落ち着きも知性も、子供のものとは思えません」
どう返事をしたものだろうか。言葉だけなら、褒めているようにも聞こえる。けれど彼の目は、まるで値踏みするようにこちらを見つめているのだ。
「ああ、お嬢様にも何か事情があるのでしょう。スコット様が訳ありの人間を拾ってくるのは、別にあなたが初めてではありませんから」
クラレンスは小さくにこりと笑うと、指を一本立てた。
「あなたはスコット様の隠し子で、今ではスコット様の娘としてここにいる。そのことさえ貫き通していただければ、私から申し上げることは何もありません」
「……頑張ります」
神妙に頭を下げる。私としても、今ここを追い出される訳にはいかなかった。そうなったらもう、あとは路上で暮らすか、孤児院に保護されるしかない。
以前稼いだ金貨や宝石はまだ持っているけれど、子供がそんなものを持っていることが悪い人間に知られたら、あっというまに奪われてしまいかねない。今の私にとってあの金品は、使いたくても使うことのできない、そんなものになってしまっていた。少なくともあと数年は、隠しておくほかない。
そんなことを考えていると、クラレンスは茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせた。
「ええ、よろしくお願いいたします、パメラお嬢様。……あなたとは、案外うまくやれそうな気がしていますよ」
そんなことを堂々と言ってのけるとは、クラレンスもかなりのくせ者のようだった。彼のそんな態度に戸惑いはあるものの、不快感は抱かなかった。スコットもクラレンスも、変わってはいるがさっぱりした人物のように思えていたのだ。
軽やかに歩き出すクラレンスの背中を見ながら、すっかり小さくなった手で胸をそっと押さえた。私は本当に、彼らとうまくやっていけるのだろうか。
この一年、人間の醜いところは山ほど見てきた。嫌というほど苦しい目にあってきた。そんな経験が、手放しに彼らを信じることを邪魔していた。
「おや、どうされましたお嬢様?」
「あっ、なんでもないです」
振り返るクラレンスにそう答えて、また歩き出した。小さくなった足を、精いっぱい動かして。