43.リューの一日
東の空が少しずつ明るくなり、優しい朝日が花畑を照らす。夜の間閉じていた花が、ゆっくりと開いていく。ここはかつてパメラが、スコットと一緒に作った春の花畑だった。
色とりどりの春の花、その中からひょっこりと灰緑の毛玉が起き上がった。ふわふわの毛に埋もれた小さな口が、ぱかりとあくびの形に開かれる。
むあああ、と小声で鳴いて、リューはのろのろと近くの花に顔を突っ込んだ。もう花の盛りを過ぎているからなのか、蜜の量は少ない。
リューは次から次へと花に顔を突っ込んでは、せっせと蜜をなめ続ける。花粉で汚れてしまった顔をくしくしと手でこすってきれいにし、むくりと立ち上がった。
それからリューは、ぽいんと跳ねる。花畑の北側には、大きさも種類もばらばらな、一風変わった不思議な森が広がっている。スコットが丹精込めて育てている奥の庭、その端っこだ。
その森を目指して、リューはぽんぽんと跳ねながら進んでいった。
森を抜けると、色とりどりの庭のようなものが広がっていた。決して自然のままの姿ではない、かといって庭園と言い切るにはあまりにも雑多な、生命力にあふれた風景の中を、リューは迷うことなく跳ねていく。
去り行く春の名残を惜しむかのように精いっぱい咲く花と、夏の予感にうきうきしているような花。それらの香りに包まれながら、リューは北東を目指していった。
この奥の庭には、道らしい道はない。スコットやパメラは、いつも草木の合間をぬうようにして歩いていた。くねくねと、小刻みに曲がりながら。
けれど体の小さいリューには、道など必要ない。ひたすらまっすぐに、ぽんぽんと跳ね続ける。そうやって進むうちに、やがて目的の建物にたどり着く。
石の土台の上に建てられた、二階建ての小さく素朴な建物。二階の窓は開けられていて、中からは人の気配がしている。
むぅ、と小さく鳴くと、リューはひとっとびで二階の窓から室内へ飛び込んでいった。そのままじゅうたんの上をころころと転がって、机の脚にぶつかって止まる。
「ん、なんだリューか。また蜂蜜をたかりにきたのか?」
おかしそうに笑いながら、ダフネが机の下をのぞき込む。以前の彼はひらひらとした女物の服をまとっていたが、最近の彼はいつも男のなりだった。もっとも、ダフネがどんな格好をしていようが、リューにとってはどうでもいいことだったが。
むあーんと甘えるように鳴きながら、リューはダフネの足元まで転がっていく。ダフネはリューをつまみあげると、軽くほこりをはたいて机の上に乗せた。
「今準備するから、ちょっと待ってろ」
リューは数日に一度、こうやってダフネが暮らす東の離れに、蜂蜜をもらいにきているのだ。実のところ、リューが一日に必要とする蜜の量はそう多くない。いつも様々な花が咲き乱れている庭をほんの少しうろつけば、十分な蜜を手に入れることはできるのだ。
だからリューがこうしてやってくるのは、単にダフネに甘えているだけなのだった。ダフネのほうもリューの来訪を楽しんでいるらしく、仕方ないな、などとつぶやきながらも、いそいそと小皿に蜂蜜を垂らしている。
「ほら、できたぞ……って、それが気になるのか?」
リューは蜂蜜に目もくれず、机に広げられた布の端に座り込んでいた。その布の上には、まだ朝露に濡れた草花が、間隔を空けて並べられている。
「逆さにつるして干してから、花の髪飾りを作ろうと思ってるんだよ。ああ、このことは内緒だぞ」
しなやかな指でそっと草花に触れながら、ダフネが優しい声で語る。
「パメラにさ、贈ろうと思うんだ。ほら、僕は一応彼女の婚約者なんだし」
むあー、とリューが嬉しそうに鳴く。ダフネは小さく笑い、言葉を続けた。
「……はたから見たら、おかしな取り合わせかもしれないな。成人の僕と、年端もいかない彼女が婚約だなんて」
その言葉に、リューはこてんと横倒しになった。小首をかしげようとして、ころげてしまったらしい。
「彼女は子供だ。でもそれは、見た目だけだ。彼女の心は、間違いなく僕と同世代の、一人前の女性だよ。僕はちゃんと、そのことを分かってる」
リューを助け起こしながら、ダフネは苦笑した。
「スコットのほうは、どうも時々忘れてるみたいだけどな。ちょうどいい高さに彼女の頭があるから、つい頭をなでたくなるのも分からなくもないが」
そうつぶやいてから、彼はふと真剣な目をする。女性とみまごうほど美しくあでやかな彼の顔が、りりしく引き締められた。
「僕はさ、パメラと一緒にいたいんだ。彼女といるととても楽しい。この思いが何なのかはまだ分からないが、というか今ははっきりさせないほうがいいと思うが」
リューは身動き一つせずに、じっとダフネを見つめている。ふわふわの毛に半ば隠れたつぶらな目が、きらきらと輝いていた。
「月日が経って、彼女が見た目も一人前になったら、僕は改めて彼女に求婚するんだろうな。それはもう、情熱的に。賭けてもいいぞ」
朗らかにそう言うと、ダフネは指を一本立て、形のいい唇に当てた。
「だからそれまでは、このことは内緒にしておいてくれよな。パメラを驚かせてやりたいから」
もちろん分かってる、と言わんばかりに、リューが力強く鳴く。
「ははっ、信じてるぞ。口止め料代わりに、いつでも蜂蜜を食べに来るといいさ」
その言葉に、はしゃいだようにリューが机の上で跳ねる。ダフネはくすくすと笑いながら、リューを温かい目で見守っていた。
昼すぎ、リューは屋敷のすぐ外を跳ねていた。普段リューが過ごしている奥の庭とは打って変わって綺麗に整えられた手前の庭を、リューは散歩していたのだった。
「おや、リュー。こんなところで散歩ですか」
通りがかったクラレンスが、すっと手のひらを上に向け、そのまま手をリューに差し出した。すかさずその手に飛び乗ったリューを、クラレンスはゆったりとなで始める。
まるで猫のようにのどを鳴らしながらだらりと伸びるリューを見て、クラレンスが暗い青の目を細めた。
「本当に、あなたは可愛らしいですね。……いきなり大きな鹿になった時は、目を疑いました。案外、夢を見ていたのかもしれませんね」
うっとりとしたままそうつぶやいたクラレンスに、リューがむあ、と抗議の声を上げる。
「おや、これは失礼いたしました。そうですね、確かにあの時私たちを救ってくださったのは、あなたでした。恩人に対して失礼でしたね。しかしあなたは、スコット様がおっしゃる通りの、森の精なのでしょうか?」
律儀に問いかけたクラレンスに、今度は嬉しそうにリューが鳴く。クラレンスは軽く目を見張ると、小さな声でつぶやいた。
「……まったく、スコット様の周りには面白い方ばかり集まりますね」
クラレンスが、不意に微笑んだ。普段あまり見せることのない、とても柔らかな、穏やかな笑みだった。
「私がスコット様に仕えるようになったのは、言わば腐れ縁のようなもの。こんな田舎に来ることになった時は、少しだけ頭を抱えたものですよ」
リューのあごとおぼしき辺りを人差し指でくすぐりながら、クラレンスは優しい声で続ける。
「ですが、近頃特にこう思うのです。スコット様にお仕えできて、良かったと。ここはおかしな庭以外何もない田舎ですが、毎日が驚くくらい刺激的です」
くすぐったそうに身を震わせているリューに向かって、クラレンスは話し続ける。まるで、リューが自分の言葉を理解しているのだと、そう確信しているような表情だった。
「お嬢様が突然やってきて、ダフネさんと婚約してしまって。旦那様と奥方様がおっしゃっていたように、いつかお嬢様とダフネさんとの間に子供が生まれるかもしれませんね。この屋敷がこんなにも騒がしくなるなんて、思いもしませんでした」
ひどく愛おしそうにそう言ってから、ふとクラレンスは口をつぐむ。その表情は、もうすっかりいつもの彼のものに戻っていた。
「ああ、今の言葉は内緒にしてくださいね。がらじゃありませんから」
その言葉にこたえるように、リューは小さな手を上げて一声鳴いた。
クラレンスと別れたリューは、そのまま西の離れに転がり込んでいった。まだお茶の時間には早いということもあって、そこではスコット一人がのんびりと書き物をしていた。
「おや、リュー。遊びにきたのかい」
リューはむにゃっと一声鳴いて、机の上に飛び乗る。スコットの手元ににじり寄って、のぞき込むような動きをした。
「これが気になるのかな。これはね……」
スコットは嬉々として、紙に書かれた内容を語りだす。一から十まで植物のことばかりで、しかもたいそう難解な内容に、リューはじっと聞きいっているようだった。
「……とまあ、こんな状況なんだよ。君のおかげで試したいことがたくさんできて、毎日充実しているよ。ありがとう、リュー」
彼とパメラが青いバラを作ろうとしたあの時、リューが持ってきた二つの宝石。あれをきっかけとして、スコットの研究は一気に進むことになったのだ。
「前から気になっていたのだけれどね、君はもしかしてとても賢いんじゃないかな。私たちの言葉を理解しているように思えるし、私の研究を手伝ってくれたし」
そう言ってリューの顔をのぞき込むスコット。リューはその視線をかわそうとしたのかぐりんと横を向き、その勢いでころころと転がり始めた。
机から落ちそうになったリューを素早く受け止め、スコットは笑う。
「はは、やっぱり言葉が通じているようだね。君と話せたら、きっと楽しいだろうな」
スコットの手の中で、リューは必死にそっぽを向いている。その姿に、スコットは微笑んでいたが、やがてすっと真顔になった。
「リュー。君が本当は何者なのか、どんな存在なのか、気にならないといったら嘘になる。けれど君は、そうやってせんさくされることはきっと嫌がるだろう? うかつに探りを入れたら、姿を消してしまうかもしれない」
机の上にリューを置き、スコットは真正面からリューを見つめる。
「だから私は、気にしないことにする。知りたいという欲を抑え込むのは大変だけれどね、今の平和な日々を守るためだから我慢するよ」
そう言って、スコットは頭を下げた。彼の片手に収まってしまうほど小さいリューに、とても礼儀正しく。
「どうかこれからも、ここに留まってくれると嬉しい。君がいなくなったら、パメラが悲しむから」
頭を上げたスコットの深緑の目には、とても優しい光が宿っていた。
「……私はもとより、あまり情に厚いほうではない。実の親ですら、私のことを変わり者扱いするくらいにね。人間よりも研究、植物のほうに心を奪われがちなんだ」
ほんの少し自嘲するように、そして同時にどこか誇らしげに、スコットはささやく。
「そんな私が、パメラのことを幸せにしたいと、そう思っているんだよ。どうやら私は、すっかり彼女の父親になってしまったみたいだ。不思議だね」
リューがじっと見つめる中、スコットは小さく頭を振った。相変わらず寝ぐせのついた灰色の髪が揺れる。
「ああ、少し喋り過ぎてしまったかな。照れくさいから、今のことは黙っておいてもらえると嬉しいよ」
今日はやたらと打ち明け話をされているリューは、元気良く一声鳴いてこたえた。
その日の夜、母屋の二階の窓辺に、寝間着をまとったパメラの姿があった。彼女は窓辺に大きな椅子を持ってきて、そこに腰かけて外を眺めていたのだ。生き生きとした緑の匂いがする初夏の風に目を細め、小さな足をぶらぶらさせながら。
「あら、リュー。こんばんは」
彼女が座っている大きな椅子、その座面の空いたところに、いきなりリューが飛び乗ってきた。庭からぽんと大きく跳ねて窓から飛び込み、そのまま椅子の柔らかな座面に転がり込んだのだ。
「遊びに来たの? でも、私はそろそろ寝る時間なのよ」
父親であるスコットに早寝早起きを強制しているのだから、自分だけ夜更かしするのは悪い。ましてや、今の自分は小さな子供なのだから、さっさと寝るべきだ。彼女は律義にも、そう考えていたのだ。
パメラの言葉を聞くと、リューは張り切った様子でまた跳ねていき、そのまま彼女の寝台に飛び乗った。むあむあ鳴きながら、寝台のど真ん中で跳ね回っている。
「リューも泊まっていくの? いいわよ」
くすりと笑うと、パメラは大きな椅子を引きずるようにして元の位置に戻し、寝台に上がり込む。座った彼女のひざの上に、リューがぴょんと飛び乗った。
「……私ね、毎晩寝る時に思うことがあるの」
小さな手でリューをなでながら、パメラがしみじみとつぶやく。
「私、ちっちゃくなっちゃったなあって。小さいはずのこの寝台が、すごく大きく思えるのよ」
彼女が使っている寝台は、貴族の屋敷にあるものとしてはとても質素で、小ぶりなものだ。かつてあちこちの貴族たちの屋敷を転々としていた彼女には、そのことはよく分かっていた。けれど今の彼女にとってこの寝台は、驚くほど広々としたものに感じられていたのだ。
「でも、小さくなったおかげでスコットお父様の娘になることができた。ほんと、何がどうなるかなんて、分からないものね」
パメラの手が止まる。彼女はどこか遠くを見るような目で、つぶやいた。
「私は、まだお父様の小さなパメラでいたい。……お父様は変わってるけど、あったかくて、優しくて……今、幸せなんだ」
そう言ってから、彼女は自分の両手をじっと見つめた。小さくて柔らかい、ふっくらとした子供の手を。
「でも、早く大きくなりたいなあって思うこともあるの。だって私、ダフネのことを待たせてしまっているんだし」
言葉を切って、パメラは視線をそらす。その小さな手が、ぎゅっと強くにぎられた。
「……お父様に頼んで『力』を使ってもらえば、私はまた元の大きさになれるかもしれない」
彼女がそう口にしたとたん、リューがむうー、と鋭く鳴いて毛を逆立てた。それを見て、パメラが苦笑する。
「そっか、リューも反対なのね。……そうよね、十年経てば、嫌でも元の姿に戻るんだもんね」
パメラはくすりと笑って、肩の力を抜く。そのまま背をそらして、ぱたりと後ろ向きに倒れこんだ。
「十年か……十年経っても、きっとダフネは綺麗なんだろうな」
彼女はそう言って、ため息をもらす。感嘆のため息のようだったが、そこにはほんの少しの憂いが混ざり込んでいた。
「実はずっと、悩んでて……誰にも言えなくて、困ってたの。聞いてもらっていいかなあ」
あおむけに寝転がったまま、パメラはぽつりとつぶやく。
「今は子供だから、まだいいけど……大きくなった私がダフネの婚約者として隣に並んだら、見劣りしないかな、って……」
その声がどんどん弱々しくなっていく。リューはむむむ、と楽しげに鳴いて、パメラの腹にぽんと飛び乗った。まるで笑っているかのように、体を小刻みにゆすっている。
「あっ、笑ったわね! だってダフネって、すっごく綺麗じゃない! 私だってそれなりだとは思うけど、彼につり合うとはとても思えなくて。彼のことは……たぶん好きだけど、ちょっと憂鬱」
勢いよく跳ね起きて、そのままうつむくパメラ。リューは一瞬考えこむようなそぶりを見せたが、すぐにぽんと跳ねて、窓から飛び出していく。
パメラが窓の方をぼんやりと見つめていると、じきにリューはまた戻ってきた。小さな手に、二輪の花をしっかりとつかんで。リューは寝台に上がり込み、パメラに花を差し出した。
「白いバラと、桃色のポピー? くれるの、ありがとう」
目を丸くしながら花を受け取ると、パメラは寝台を下りた。手際良く花瓶を引っ張り出して、花を生けていく。
豪華で気品のある白い花と、素朴で繊細な桃色の花。まるで雰囲気の違う、けれどそれぞれに美しい花たち。
その花たちを見ていたパメラの表情が、少しずつ変わっていった。戸惑いから気づきへ、そして笑顔へ。
「……そっか。はげましてくれたんだね。私はダフネみたいなあでやかな美しさは持ってないけど、だからといって引け目を感じることもない。そう言いたいのね?」
パメラの言葉に、リューは鼻息も荒く胸をそらす。パメラは小さく声を上げて笑い、リューをそっと両手で抱き上げた。
「ありがとう、リュー。さあ、そろそろ寝よう」
パメラがそう言って、リューを連れてまた寝台にもぐり込む。横たわって毛布をかぶった彼女の枕元で、リューはくるりと丸くなった。
やがて、パメラの小さな寝息が聞こえてきた。リューもうとうとしたまま、満足げに小さく鳴いた。
開けっ放しの窓からは、温かな風が吹き込んでいる。明日も、いい天気になりそうだった。
ここで一応完結です。
また時間を見つけて続きを書きたいな、と思っていますので、もし再開しましたらその時はよろしくお願いします。
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