3.変わり者の男爵
私の目の前には、気が抜けるほどのんびりと笑っている若い男性の顔があった。吸い込まれそうなほど深い緑色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。つややかな灰色の髪は、あちこちがぴょこぴょこ跳ねていた。たぶん、寝ぐせだろう。
顔立ち自体は割と整っているのに、美形にありがちな迫力に欠けている。しかしそれでいて、不思議なくらいに引きつけられるものを感じさせる、ほっとする雰囲気の男性だった。
考えるより先に、彼に手を伸ばしていた。その拍子に、すっかり小さくなってしまった自分の手が視界に飛び込んでくる。
ああ、そうだった。私は公爵夫人の追っ手から逃れようとして力を使い、子供の姿になって適当な馬車にもぐりこんだ。そうしてすぐに、眠り込んでしまったのだ。
「お嬢さん、ぼんやりしてどうしたのかな」
男性は私のことを興味津々といった顔で見ている。一瞬、幼女趣味の変態かと思ったが、どうやら違うらしい。彼の目には、そういった不穏な色は浮かんでいなかった。
ずっとあちこちの貴族のもとをたった一人で渡り歩いていたせいで、そういった視線には敏感になっていた。そんな私の直感は、目の前の男性は危険ではないと告げていた。
「ごめんなさい、少し夜露をしのぐつもりが、つい眠り込んでしまいました」
男性が出入口をふさいでいるせいで、馬車が今どこにいるのかは分からない。けれどこうして見つかってしまったからには、速やかに馬車から降りて、この場を離れるべきだろう。ここが元の城下町以外の場所であればいいのだけれど、などと思いながらぺこりと頭を下げる。
「それでは、失礼します」
そう言って男性の顔をまっすぐに見る。ここを立ち去りたいから、そこをどいて欲しいという思いをこめて。私の周りには山のように木箱が積み上がっているので、彼が道を空けてくれないと馬車から出られない。
ところが男性は身じろぎすらせずに、穏やかな笑みを浮かべたまま私をじっと観察していた。悪意は感じないのだが、どうにも居心地が悪い。
「粗末な服とは不釣り合いに清潔で、傷一つない手足。宿すらない一人きりの子供とは思えないほど、礼儀正しくて落ち着いた態度。不思議だね」
やけに楽しそうな顔で、男性がそんなことをつぶやき始めた。まるで広場の鳩でも数えているかのようなのんびりとした口調だったが、その内容からすると、どうも彼は私のことを怪しんでいるようだった。
まずいことになったと身をすくめながら、じっと彼の出方をうかがう。彼は首をかしげて考え込みながら、丁寧な口調で尋ねてきた。
「……お嬢さん、君はもしかして行く当てがなかったりするのかな?」
適当に言い逃れてしまおうかと思ったが、どうも彼の表情を見る限りそれも難しそうだった。おそらく彼は、私がごく普通の子供ではないことを見抜いてしまっている。
仕方なく、無言のまま小さくうなずいた。一人きりで心細い思いをしている子供のように見えて欲しいと、そんなことを願いつつ。
「だったらちょうどいいね。良かったら、私の話を聞いてもらえないかな」
突然、男性がそんなことを言い出した。なんだか面倒なことに巻き込まれつつあるような気がする。
けれど今の私に、拒否するという選択肢はないようだった。うかつに騒ぎ立ててうっかり目立ちでもしたら、大変なことになるかもしれない。とにかく今は、穏便にこの場をやり過ごすしかない。
もう一度、こくりとうなずく。男性は楽しげに微笑むと、こちらに手を差し出してきた。
「それじゃあ、いったん外に出よう。ここは狭くて、話をするには向かないからね。ああそうだ、私はスコット。この馬車の持ち主だよ」
「……パメラ、です」
「パメラか、いい名前だね」
警戒しながら、彼の手を取った。そのまま彼と一緒に馬車の外に出る。まぶしい光に、目を細めた。
彼の手は力仕事をしている者の手ではなかったが、それにしては妙に手の皮が固い。身なりも悪くはないがやけに古めかしいし、どうにも質素だ。彼がいったいどういう身分のものなのか、いまいちつかみづらい。
辺りは草原が広がっていて、その中を細い街道が一本だけ走っているのが見えた。私がもぐりこんでいた馬車の隣にさらに二台の馬車が停まっていて、御者らしき人影が近くに立っている。
耳を澄ませてみたが、どうやら他に人の気配はないようだった。そのことに、ほっと胸をなでおろす。草原のど真ん中というのはあまり嬉しくないが、ひとまず城下町を離れることはできたし、追っ手をまくこともできた。
スコットは、すぐ隣のほろ馬車に私を連れていった。こちらの馬車にはほとんど荷物が積まれておらず、代わりにクッションがいくつか置かれていた。
おそらく、彼はこっちの馬車に乗っていたのだろう。たまたま休憩か何かの際に他の馬車を見回って、偶然私を見つけたに違いない。
彼に手を引かれて、そちらの馬車に乗り込む。向かい合うようにして、木の床に座り込んだ。スコットは気楽に片膝を立てて、私はきちんと膝を揃えて。
「さて、パメラ。君は秘密を守るのは得意かな?」
「……口は堅い方だと思います」
どうしてそんなことを聞くのだろうか。やはり彼は、私を良からぬことに巻き込もうとしているのではなかろうか。そう思いつつ、正直に答える。
「ああ、それはいいね。だったら一つ、頼みごとを聞いてもらいたいんだ。君にとっても悪い話ではないと思うよ」
甘い話には裏があるに決まっている。私はさらに警戒しながら、スコットの次の言葉を待つ。彼はいたずらっぽく笑うと、突然声をひそめた。ちょうど、内緒話をする時のように。
「君に、私の子供になってもらいたいんだ」
叫ばなかった自分を褒めてやりたい。そんなことを考えてしまうくらいに、彼の申し出は馬鹿げていた。あまりのことに何も言えないでいる私に、彼はさらにぽんぽんと言葉を投げかけてくる。
「実は私は男爵家の当主でね。といっても、私の領地は野と山だらけの田舎なのだけれど」
ぽかんと口を開けたまま、彼の話に耳を傾ける。平民のものにしては上等で、貴族のものにしてはやけに質素な彼の身なりがずっと気になっていたのだけれど、田舎の男爵というのなら納得がいく。
「それでね、最近親戚の連中がうるさいんだよ。早く妻をめとって、跡継ぎを作れって。別に私の代で絶えたって困るような家じゃないのにね」
心底うんざりしたような顔で、スコットは肩をすくめている。見たところ彼は二十代半ばといったところだろうか。ならば、周囲がそう言うのもうなずける。
「面倒だから彼らの説教を聞き流していたら、今度は養子をとらせるぞって話になった」
それはそうだろう。普通の人間ならそう考える。それも、貴族であればなおさら。
「でも私は、子供は苦手なんだよ。うるさいし、予想もつかない行動に出るし。苦手というなら、女性もなんだけどね。変に繊細で、気を遣うし」
改めて、スコットをじっくりと観察する。目尻の下がったおっとりとした顔立ちは中々の男前だし、物腰も穏やかだ。彼がその気になれば、嫁などいくらでも見つかるだろう。それなのに子供嫌いで女嫌いとは、なんとも気の毒なことだ。
そう思いつつ、そっと言葉を返す。
「……私も、子供ですが」
「そうだね。でも君は年の割に聡明なようだし、とても落ち着いている。君のような子供だったら、そばにいてもぎりぎり耐えられるかなって、そう思うんだ」
ぎりぎりなのか。子供相手とはいえ、それを正直に口に出してしまうというのはいかがなものか。
「それに、君には行く当てがないのだろう? 私の屋敷は田舎だけれど、その分静かでいいところなんだ。下手に孤児院なんかで暮らすより、ずっといいと思うよ。ほら、ここだ」
スコットは馬車の床に置かれていた荷物から地図を引っ張り出し、自分の屋敷がある位置を指し示した。その地図を見て、思わず目を見開く。
ここは、隣の国だ。馬車にもぐりこんだまま、私は国境を越えていたのだ。しかも彼の屋敷は、国境からかなり離れている。彼の申し出を受ければ、あの公爵夫人の追っ手から逃げ切れる可能性はぐんと上がるはずだ。
私の気持ちが揺らいだのを見透かしたように、スコットが静かに微笑む。
「君はそのまま私の家を継いでくれてもいいし、年頃になったらどこかよそに嫁いでくれても構わない。私はうるさい親戚連中を黙らせたいだけであって、家の存続なんてどうでもいいのだから」
「だからって、こんな見ず知らずの子供を……」
「今のところ、君に来てもらうのが一番いい解決法なんだよ。私の知る女性や子供の中で、君が一番、うまくやっていけそうなんだ」
どうやら私は、すっかり彼に見込まれてしまっているらしい。少しだけ考えた後、ため息をついて首を縦に振った。スコットが嬉しそうに大きく笑う。
「ありがとう、パメラ。これからよろしく」
「……よろしくお願いします」
まさか私が、男爵の養子になるなんて。この先どうなるかは全く見当もつかなかったが、あの公爵夫人に捕まるよりは何百倍も、何千倍もましだ。
そう自分に言い聞かせて、スコットが差し出した手を取り、握手する。驚くほど小さくて柔らかな私の手は、彼の大きくて固い手にすっぽりと包まれてしまった。