2.逃げ込んだ先は
両手に縄をかけられて、衛兵に連れられて公爵夫人の屋敷を出る。おそらく行先は、屋敷のすぐ外にある城下町、そのはずれにある牢屋だろう。
公爵夫人は、私が詐欺師なのだと信じ込んでしまっている。私は貴族たちの依頼をこなしてはきたけれど、何の後ろ盾もないただの平民の小娘でしかない。公爵家にたてついてまで私の味方をしてくれるような人間は、どこにもいないに決まっている。
そして公爵夫人は、明らかに怒り狂っていた。どう考えても、私が無罪放免になる未来は見えなかった。良くても数年くらいは投獄されることになりそうだし、最悪処刑されてしまうかもしれない。
怖い。怖くてたまらない。きっと昔の私なら、震えて泣くことしかできなかっただろう。
でも私はこの一年の間に、様々なことをくぐり抜けてきた。母さんが亡くなってひとりぼっちになって、なにもかも無くしてどん底に落ちて、『力』のおかげではい上がって。それらの体験は、良くも悪くも私を強くしてくれていた。
奥歯をかみしめ、顔を上げて宙をにらみつける。貴族たちのご機嫌を取り続けるだけの空虚な生活に嫌気がさしてはいたけれど、身に覚えのない罪で投獄されるのはもっと嫌だ。
ゆっくりと深呼吸しながら、恐怖で震える膝に力を入れる。どうにかして、逃げ出す隙を見つけなくては。頼れるのは自分だけなのだから。
私を連行している衛兵はたった二人。私がか弱い小娘だから、油断しているのだろう。一人は数歩前を歩き、もう一人は私の手首を縛っている縄の端を持って、少し後ろを歩いている。
もうすっかり夜もふけていて、辺りはすっかり寝静まっている。通りにいるのは私たちだけだ。歩きながらちらりと周囲に目を走らせると、細い路地の入口が見えた。がらくたにしか見えないものが雑多に積み上げられている。それも、どうやら路地の奥の方まで。
手首の縄さえどうにかできれば、逃げ出せるかもしれない。この縄を切って、あそこに駆け込めば。あれだけごみごみしていれば、隠れる場所があるかもしれない。そうして朝を待って、人ごみに紛れて城下町を抜け出せば。
縛られた手首を胸元に引き寄せて隠し、意識を集中する。ほのかな青い光が私の手から生じて、縄に吸い込まれて消えた。そっと手を動かし、縄の具合を確認する。口元に浮かびそうになった笑みを、あわてて抑え込んだ。
よろめいたふりをして、横に一歩大きく踏み出す。体重をかけて、手首の縄を思いっきり引っ張った。私の『力』により十年分古くなった縄が、あっさりと千切れて石畳に散らばる。
「おい、待て!」
縄が切れると同時に、路地に向かって走り出す。衛兵たちの声が、一瞬遅れて追いかけてきた。
路地は狭く、しかもそこらじゅうに色々なものが転がされていた。小柄な私はそれらの間をするすると通り抜けられたが、体格が良い衛兵たちはあちこちに引っかかっているようだった。後ろから、がらくたの山が崩れる大きな音が立て続けに聞こえてくる。
細い路地をくねくねと走り続けると、じきに大通りに出た。そのまま横切って、また別の路地に飛び込む。衛兵たちの立てる音は、もう聞こえなくなっていた。
それでも足を止めずに路地を走り、積み上げられた木箱のそばでようやく立ち止まる。必死に走り続けたせいで、もうすっかり息が上がってしまっていた。近くの建物の壁に背をつけてぺたんと座り込み、必死に息を整える。
朝が来るまで、ここに隠れていよう。そして朝一番の乗合馬車に飛び乗って、どこか遠くに逃げよう。
路銀には困らない。服の下、腰の辺りに巻き付けた袋に、お金や宝石をしっかりとしまいこんである。生まれ育った家すら失くし、根無し草のような暮らしをしているせいで、いつも全財産を持ち歩くのが癖になってしまっていたのだ。
安堵のため息をつきかけたまさにその時、大通りの方から衛兵の声が聞こえてきた。夜中だというのに大声で叫んでいる。
「いたか!?」
「まだ見つからない。周囲の路地を、しらみつぶしに当たってみるしかないだろうな。ひとまずは、一番近いここか」
声がする方向から察するに、衛兵たちは私が隠れている路地の両側にそれぞれ立ち、私の逃げ道をふさいでいるようだった。
どうしよう。周囲の家に逃げ込もうか。でもこんな時間だし、きっとどこも鍵がかかっているだろう。衛兵に気づかれずにこっそりと忍び込むのは難しそうだ。
だったら、どこかに隠れて衛兵をやり過ごすしかない。けれど、どこに隠れたらいいのだろう。家の間、置きっぱなしになっている机の下。駄目だ。それではすぐに見つかってしまう。
かたわらの木箱をちらりと見る。この中に隠れることができれば、衛兵もきっと気づかないだろう。そう考えて、大急ぎでもぐり込む。
「あと、少し……」
じょじょに近づいてくる衛兵の足音を聞きながら、小さな木箱に必死に体を押し込む。けれどどうやっても、どこかがはみ出してしまう。あと少し、あと少しなのに。悔しさに歯がみしながら、足音に耳を澄ませた。
衛兵たちの足音が、さらに近づいてくる。時折周囲のものを引っかけて倒しながら、私を捕らえようと迫ってくる。
「こっちにはいないな。そちらはどうだった?」
「いや、こちらにもいなかった。ここははずれみたいだな。次の路地に向かうか」
「早く捕まえないと、奥方様に何と言われるか……」
「とにかく急ぐぞ。夜が明けたら、それこそ見つけづらくなってしまう」
私が隠れている場所のちょうど目の前で、衛兵たちはそんなことを話している。緊張で心臓が口から飛び出しそうなくらい跳ね回っているし、一瞬でも気を抜いたら体が震えてしまいそうだった。
少しでも身動きしたら、見つかってしまう。必死に息を殺しながら、ただじっと待ち続けた。やがて、足音が二つ、ばたばたと立ち去っていく。
辺りが静まり返るのを待って、ゆっくりと木箱から出る。その拍子に服のすそを踏んづけて転び、石畳に両手をついた。小さくて柔らかな子供の手が二つ、私の目の前に並んでいた。
「やっぱり、服が合わないなあ……」
私はとっさに自分に『力』を使い、一気に十年ほど若返らせた。さっきまで十八歳だった私は、八歳くらいの子供になっていた。そうして体を小さくして木箱にひそみ、衛兵の目をすり抜けたのだった。
たった一人、守ってくれる人すらいない状況で年端もいかない子供になることに、ためらいがなかったといったら嘘になる。でもそれよりも、何としても衛兵たちから逃れたいという気持ちが勝ってしまったのだ。ここで捕まってしまえば、何もかも終わりだ。
きょろきょろと周囲に目をやると、衛兵が引っかけて落としたらしい物干し竿が近くに落ちていた。おあつらえ向きに、子供の服が干しっぱなしになっている。
服を一着と、大きな布を一枚くすねる。代金として銀貨を一枚、他の服のポケットに入れておいた。たぶんこの服の持ち主は銀貨を見て目をむくだろうが、銅貨は持ち合わせていないので仕方がない。
大急ぎでくすねた服に着替え、今まで着ていた服を布で包む。靴だけはどうしようもなかったので裸足だが、貧民の子供のふりをすればいいだろう。ちょうど、くすねた服もかなり質の低い、ぼろ布の袋のようなものだったし。
そうして歩き出そうとした時、長い髪が腰にまとわりついた。この年頃の子供が、それも貧民の子供がここまで長い髪をしているのは珍しい。ましてや、それが手入れの行き届いた代物とあっては。髪をこのままにしておいたら、人目を引いてしまうのではないだろうか。
尻の辺りまで伸びている金茶の髪を背中の辺りできっちりと結わえ、持っていた小刀でばっさりと切り落とす。一気に頭が軽くなり、毛先が肩のところでふわふわと踊った。ちょっとだけ寂しいと思ったが、今はとにかく逃げるのが先だ。
切り落とした髪の束も、同じようにして布の包みの中にしまい込む。いつか折を見て処分しよう。こんなものをいつまでも持ち歩いていたら、どこかで怪しまれないとも限らない。
そうして私はさらに大きくなった布包みを抱え、裸足でぺたぺたと歩き出した。衛兵たちが去っていったのと、反対の方向に。
闇に紛れるようにしながら、城下町のすぐ外に広がる草原に足を運んだ。小さくて柔らかい裸足に草がちくちくと当たって、とてもくすぐったい。
この城下町を訪れた者が乗ってきた馬車や、外の町との間を往復する乗合馬車は、みなここに停められることになっているのだ。
この辺りは崖が多く、人が住める土地が限られている。そんなこともあって、町中に馬小屋を作るだけの余裕がなかったらしい。だから外から来た馬と馬車は、まとめてこの草原に留め置かれるのだそうだ。
広い草原を囲う素朴な木の柵をこっそりと越えながら、考えをまとめ直した。
今のこの姿で乗合馬車に乗るのは目立ちすぎる。下手をすると、乗せてもらえないかもしれない。そもそもこんな子供が銀貨を持っているというだけで、そうとうに怪しまれるに違いなかった。
かといって、徒歩でこの町を飛び出すのは自殺行為だ。私は徒歩での旅をしたことがないし、裸足で長距離を歩くのは難しい。
だから、別の方法を考えていた。商人が荷物を運ぶ馬車にもぐり込んで、荷物に紛れてこの町を出るのだ。
公爵夫人から逃げている身としては、貴族にはあまり関わりたくない。かといって農民たちについていったら、行き着く先はどこぞの村だ。身を隠すには向いていない。だったら、あとは商人たちを狙うしかない。
きょろきょろと馬車を物色しながら歩き、やがて一つの馬車に目を留めた。前後が開いているほろ馬車で、中には大きな木箱がぎっしりと積み上げられている。あの木箱の間にもぐり込めば、荷を下ろす時まで見つかることはないだろう。
水も食料もないし、長時間隠れているのは難しい。けれど、丸一日くらいは見つからずにいられるだろう。この馬車が次の町に着いた時を見計らって、そのまま逃げ出せばいい。
周囲を警戒しながら、目をつけたほろ馬車にもぐり込んだ。古びている上にどうにも質素なこの馬車は、きっとあまり裕福ではない商人のものだろう。
木箱と木箱の間のわずかな隙間に腰を落ち着けたとたん、ものすごい疲労感が襲ってきた。とんでもない夜が、ようやく終わる。そう思った拍子に、うっかり泣きそうになってしまった。あわてて口を押さえ、深呼吸して心を落ち着かせる。
自分の呼吸に意識を集中しているうちに、だんだん眠くなってきた。木箱にもたれて、そっと目を閉じた。
「おはよう、お嬢さん?」
そして私は、若い男性の穏やかな声で目を覚ました。