第3話
気付いた時には病院のベッドの上にいた。妻と子供が不安げに私の顔を覗き込んでいる。
「やっと起きた。大丈夫?」
妻が私の様子に気付き、声を掛けて来る。
「俺は……?」
私はこの場にいる理由が呑み込めず、三人の顔を見回して尋ねた。
「お兄ちゃんが公園で倒れているのを見付けて、教えてくれたのよ。一体どうしたの?」
ダニィに殴られた末、意識が遠のく中、私は長男の顔を見た気がする。あれは彼が私を助けてくれた瞬間だったのか。彼は私がダニィにやられている姿を見たのだろうか。
「オヤジ狩りみたいなのに遭った……」
私は嘘を吐いた。家の中でもバカにしていたダニィにやられたなど、口が裂けても言えない。問題は長男がそれを目撃していないかだが、
「お父さん、殴られた後みたいで気絶してたから、本当に心配だったよ。大丈夫なん?」
と言うので、おそらくダニィの姿は見ていないのだろう。何とか父親としての尊厳は守る事が出来たようだ。
さすがに翌月曜日は仕事も休んで静養した。幸いにして、骨折まではいかなかったが、殴られた箇所はまだ痛むし、何か所かは青痣が出来て酷い顔だった。身体の方は痣を除けばどうという事はないと思われるが、ダニィの一撃は私の心を破壊していた。
まず、ダニィへの恐怖心が強まった。あれだけ話し掛けようとした対象だが、今となっては二度と会いたくない。近所で会う可能性が高いだけに、出歩くのさえ怖い。
そして、副次的に職場へ行く気力も奪われた。一日休んだせいで、明日も行きたくない気持ちが強まる。元々、仕事への意欲が失われているだけに、心を折られた今、余計に悪い方へ傾いてしまった。家に帰ってからも空虚な気分ばかりが募る。最初は家族全員が私を心配してくれたが、時間が経つにつれ元に戻り、痛みも心も癒えないのにいつものように家庭内の雑事に振り回された。
これも全てダニィのせいだ。いや、実際は奴に関わった自分のせいだが、例の横断歩道のダンスを目撃して以来、奴に振り回されて、今に至っている。
この夜はよく眠れなかった。
翌日、また眠気眼を擦りながら、出勤する。結局、夜中に目が冴えて、ダニィの暴力ばかりが思い起こされてきて、よく眠れなかった。
これを払拭するにはダニィに復讐でも出来れば良いのかも知れないが、あの圧倒的暴力を見せ付けられては敵う気がしない。かといって先日の所業を警察に届け出るような真似は私のプライドが許さない。私に出来る事は忘れる事だけだ。
そんな事を考えながら何とか仕事へ行ったが、心身共に冴えず、捗らない。ダニィへの恐怖が人生への恐怖に繋がり、その不安感に自分が押し潰されそうで、仕事の中身など全く頭に入って来ないのだ。一日何をしたのかよくわからぬまま、夕方職場を出た。幸い、帰りにダニィと遭遇する事はなかった。
こんな日が数日続いたが、週末、ついに車から歩行中のダニィを見掛けた。私には気付いていない様子だったが、それでも自分の身体が身構えるかのように勝手に硬直するのを感じた。そのまま脇を通り過ぎたが、先日の一件は自分にとんでもない傷を残したものだと、改めて実感する事となった。
やはりこのトラウマを払拭するには相当な覚悟を持ち、ダニィを何らかの形で打ち倒す必要があるのか……。そんな事をすれば間違いなく復讐の連鎖を招くだろう。やり返し合えば、どちらも恨みが募るのみで、満足行く事などない。そんな事を望んでいるのかと自問自答してみる。否……
あのダニィの暴力は行き過ぎだったとは思うが、元はと言えば少年時代の自分の過ちが発端だ。彼の家庭事情も顧みず、いじめていたのだ。因果応報、今になって降り掛かって来ても何の不思議もない。ならば自分から手打ちをすべきではないか。殴られっ放しで悔しい気持ちは勿論あるが、自分が折れて修復に持ち込み、自分の心も救いたい、そんな風に考えたのだった。
私は大きな不安を抱えながらも、帰り道などで再びダニィの姿を探した。あんな目に遭いながら声を掛けられるかどうか自信はないが、状況を打破する為にも必要な行動だと自らに言い聞かせる。が、平日は会えなかった。
何とか仕事も乗り切ったそんな週末、私は期待と不安が半々な気持ちで例の公園に出掛け、あの時と同じくダニィが幼児と遊具で遊んでいるのを見付けたのだった。
時は来た。鼓動が速くなるのを感じる。だが、身体が動かない。恐怖心なのか、足が前に出ないのだ。心の中で自分を鼓舞するが、身体が拒否する。数十メートル先にいるダニィは奇妙な笑みを浮かべながら子供と戯れている。私は固まりながらそれを見つめていた。
もっともダニィの様子も前回と同じで、次第に子供達が離れて行き、最後にはまた母親の一人と何やら口論し、一人になっていた。残されたダニィは苛立ちからか一吠えして、駄々っ子のようだった。そして、幸か不幸かそのまま私の方に歩いて来る。だが、私になど気付いてもいないのか、夢遊病者のように通り過ぎようとする。
「か、風谷くんっ」
身体は動かないが声は出た。私にしては相当な勇気を振り絞った行為だ。このまま奴が殴り掛かって来ないとも限らないのだ。ダニィは足を止め、驚いたようにこちらを振り向き凝視してくる。私に気付いたか?
「あ、あのさ。この前の事……だけど……」
私は必死に話し掛ける。しかし、奴はキョトンとして話を理解していない様子だ。
「風谷君、俺だよ、吉岡。ほら、この前……」
ダニィはじっと私の顔を見る。大きな黒目で睨まれると、恐怖心も増大してくる。キツい匂いも相変わらずだ。
「この前あんな事があったけど、全部、水に流さないか? 昔、俺達がした事は本当にごめん。君の家庭環境も考えず、浅はかだった。あんな風に殴られたのも仕方ないと思う……。だから、これでなかった事に出来ないかな」
私は一気にまくし立て頭を下げた。脈絡はないかも知れないが、とりあえず言うべき事は言った。後はダニィがどう出るかだ。
「そう……ですか」
ぼそりと呟くダニィ。何だその敬語は。私を圧倒した迫力は何処へ行ったのだ。いや、風貌は変わらないが覇気がない。これはダニィ自身も雪解けを望んでいるのか。
「じゃあ今までのはなかった事で、いや、それも含めて同級生として仲良く出来ないかな」
「同級……生? あ、そうなんですね。はいはい。こちらこそよろしく」
ダニィは嬉しそうに頭を下げる。これは一体どういう事だ。この会話を考える限り、奴は私をこの前殴った「吉岡」とは認識していない。まるで同級生Aのような対応だ。精魂尽くして行動に出た筈が、飛んだ拍子抜けだ。だが、ここで再度、自分がこの前殴られた「吉岡」だなんて話を持ち出す勇気はない。
確かに再会後に初めて話し掛けた時はこんな様子だった。会話の途中で逃げて行ったくらいだ。ならば何故この前はあんな風に……。
例えば「ダニィ」という言葉でスイッチが入り、昔の事が頭に浮かんで狂暴化したのではないか。思い起こしてみれば、あの時も最初はのほほんとしていた。それが「ダニィ」と呼んだ途端、変貌し、あのザマだ。という事は、普段のダニィは草食恐竜のように大人しいのではないか。もしかすると少し精神に異常を来たしているのかも知れない。
ただ、いつまたスイッチが入って襲われないとも限らない。それが怖い。当初の目的は達せられていないが、この場はこれで退散するべきではないかと考えた時、
「えっ……」
私は自分の目を疑った。既にダニィは目の前から去り、遥か先を例の奇妙なダンスステップを踏みながら進んでいるのだった。何て男だ。私の事などまるで眼中にない。今となっては変な恨みを抱かれているよりは、それで良いのかも知れない。
ただ、これでトラウマが払拭されたのかはよくわからない。普段のダニィは暴力的ではないと推定され、何となく安心出来たが、結局水に流せた訳ではない。だが、余計な暴力を引き出すのも得策でなく、これで納得するしかないのもまた事実だ。
やはりダニィはかわいそうな男なのか。頭がやられていて、多重人格のようになっているのかも知れない。ただ本能のまま行動する、動物のような生き方……
でも、私はふと思った。狂ったかのようにステップを刻むダニィ自身はとても幸せなのではないか。家も職場も面白くないと感じている私より、彼の方がずっと自由で楽しいんじゃないか。人間のランキングなどと考えていた自分が小さくて情けない。皆、固定的な価値観で彼を下に見ていただけで、自らが望むままの行動を取り、本当の幸せな境地を掴んでいるのはダニィの方なのかも知れない。
実はこの話には続きがある。何とダニィはこの三日後に逮捕されていた。地元紙で記事を見付けて私は驚いた。例の公園で婦女暴行と書かれており、おそらく幼児の母親に手を出したのだ。また何かのきっかけでスイッチが入ったのかも知れない。他にも自転車窃盗や万引きなど余罪多数と書いてあり、衝撃を受けた。
ダニィの中には社会のルールなど、あってないようなものなのだろう。彼が本能のまま行動しての結果だ、きっと逮捕されても私になど計り知れない境地でいるに違いない。
読んでいただきありがとうございました。