第2話
再戦のチャンスは比較的早く訪れた。よく晴れた日曜日の午前中、一人で散歩に訪れた近所の公園でダニィを見掛けたのだ。子供が動き回れる芝生のエリアがあるのだが、そこでダニィは黒いジャージの上下にキャップを被り、子供の輪に入っていた。私はベンチに座り、遠目にそれを見た。彼はこれまでに見た事がないような笑顔で幼児に接していた。今のダニィには異様な迫力ではなく、異様な気持ち悪さを感じる。本物の笑顔ではないとでも表現すれば良いのか、心の底から無邪気に笑っているようには到底見えないのだ。子供達もそういう雰囲気を感じ取っているのか、一部はダニィを避けているように見える。
そう言えば、ダニィは昔から幼児と戯れるのが好きだった。子供が集まる場に現れては補導されていた。何人かでそれを囃し立てた事もあった。先日、償いのような気持ちを抱いたのも、そんな記憶があるからだ。
そんな私の気持ちなど知る由もなく、ダニィは子供と一緒に遊具で遊んでいる。ひょっとしたら彼の精神は子供のままなのかも知れない。あの横断歩道のダンスにしても、そういった面の現れではないのか。今だって、本気で遊具にぶら下がり、回り、滑っている。お陰で遊具は今にも壊れそうであるが。
ただ、やはり子供の中に混じる怪人は異様に映る。怖がり離れて行く子や、子供の手を引いて走り去る母親もいた。ダニィの顔に狼狽の色が浮かぶ。いつの間にか子供も二人になり、ダニィはその子達を逃すまいと目を見開いて監視しているように見えた。二人の子供も怯えた顔で、逃げるに逃げられない雰囲気だ。程なく一人の母親と思しき女性が、ダニィに近付いた。何やら話し込んでいたが、ダニィが何かを言ったのか、急に顔を真っ赤にして、子供の手を引き、逃げるように去って行った。残った子供もその隙に母親が救出して逃げたようだ。一人残されたダニィは呆然と立ち尽くしていた。ただし、その眼光は異様なまでに鋭い。目が血走り、怒りに燃えるような顔だった。
私はまた出方に迷ったが、野良犬のように広場をうろつくダニィを見て、近付く決心を固めた。ベンチから立ち上がり、ゆっくり距離を縮める。あと五メートルくらいまで迫った時、視線が合った。相変わらずの迫力に全身に緊張が走る。いや、所詮、ダニィはダニィだと自分に言い聞かせ、恐怖心を振り払う。
「あ……お……」
ダニィは先日の邂逅で私を認識しているのだろうか。言葉にならない言葉を発する。相変わらず何かに怯えているようだ。
「や、やあ、風谷君、また会ったね」
気さくな感じで声を掛けた。ダニィは悪事を見付けられたかのように狼狽し、あたふたしている。実際、不潔で野獣の如きダニィが幼児に近付くのは悪事と思えなくもない。
「その~、何してるん。こんな所で?」
とりあえず質問する。ダニィはもじもじして身を震わせ、答えない。こちらが主導権を握って何か言わないと話にならないのは先日と一緒だ。
「この前、久しぶりに会ったじゃん。俺、もう少し話したくてさ」
と言ってもダニィはまた答えない。黙って狂犬のような顔で見られると、こっちが緊張してくる。だが、ここは畳み掛けるしかない。
「この前どうして逃げたのさ。少し話そうよ」
私がそう言っても、ダニィは口をもごもごさせるだけだ。この様子を見ていると、昔のダニィが思い出されてくる。結局、外見だけ見違えるような迫力を付けたものの、ダニィはダニィだ。そう考えると、苛立たしい気持ちが募って来る。
「おい、ダニィ、何で返事もしないんだ」
私はカッとなって強気に出た。ダニィは驚いて、後退するが、「ダニィ……」と自ら呟くと、私を睨むように見た。
「そう。昔、ダニィって皆呼んでたじゃん」
私が平然と言い切った次の瞬間、ダニィの目がぎらついた。そして、いきなり太い腕を振り回し、殴って来た。左頬の辺りに強烈な衝撃が走り、私は尻餅を突いた。
「ダニィ……そうだ、皆がボクをそう呼んだ」
「な、何だってんだ」
私は起き上がりダニィを睨むが、相手は全く好戦的な姿勢を崩していない。いきなり髪の毛を掴まれ、もう一度殴られた。
「吉岡……あの時ボクをいじめた……。でも、今のボクは落ち着いてる。落ち着いてるんだ」
間違いなく興奮して落ち着いていないが、ダニィは自分に言い聞かせるように呟く。そして、私をボコボコにする。
「ちょ、ちょっと待った……」
私が止めるのも聞かず、ダニィは暴力を続ける。何とか防御しようと試みるが、そのパワーはガードの上からでも私を破壊しかねない。そして決定的な一発が顔面の真ん中を捉え、私は後方に吹っ飛ばされた。
「や、やめてくれ……」
思わず懇願して救いを求める言葉が口から出る。鼻血が垂れ、口の中も切れている。久しく喧嘩などしておらず、長らく経験していない痛みだ。最初の余裕は何処へやら、私は完全に蛇に睨まれた蛙状態だった。
「やめてって、ボクもあの時言ったよねえ」
ダニィはニヤけながら近付いて来る。私は読み違えていた。昔の恨みはやられた方にとってはずっと残っているものなのだ。目の前の凶獣は暴力を止める気はなく、私の胸倉を掴み再度殴ってきた。打たれて鈍い音が身体に響く。苦痛に耐え切れず、思わず助けてくれ、と叫ぶ。それを聞き、ダニィはまた笑う。
「だったら助けて下さいだろ。許しを請え」
言いながら悪鬼のような顔を近付けてくる。こんな時だが血の匂いに混じって、ダニィの生ゴミのような匂いと生臭い口臭が鼻を衝く。奴の目は本気だ。私を自分より下に貶めようという悪意が感じられる。この場における私とダニィの関係は、力で勝るダニィの方が優位だ。小学校でのランキングなんてアホな事を考えていたが、これじゃ間違いなく私の方が最下位だ。殴るのを止めてくれないので、地獄のような責め苦に自然と涙も出て来る。
「た、助けて……くださいっ」
私は頭を下げて頼み込む。ダニィは面白そうに何も言わずにこちらを眺めていた。
「ゆ、許してくれるのか?」
思わず私から尋ねる。しかし、
「土下座しなよ。すみません、風谷さんって」
ダニィの返答に私は自分の耳を疑った。まさかこんな事を言われるとは……。しかし、この場を切り抜けるには言う通りにするしかない。逃げようにもダメージが足に来ていて素早く動けないだろう。そして、正直、私はダニィの暴力に恐怖していた。屈辱的ではあるが膝を折って正座を作り、頭を下げた。
「す……すみません、風谷さん」
言いようのない悔しさが胸を衝いてくる。興味本位でダニィに関わった結果、こんな目に遭うなど予想だにしなかった。挙句の果てに、ダニィは唾を吐いて来た。髪の毛に付いたのがわかり、猛然と怒りが込み上げてくる。
「何だその目ぇ」
ダニィは目ざとく私の怒りを感じ取り、鬼の形相で上から見下ろしてくる。だが、私にもプライドはあるので、必死に睨み返す。
これは間違った行為だった。ダニィは何を言っているかわからない叫びを揚げ、容赦のない暴力を繰り出してくる。
「ちょ、止め……」
私の願いが聞き入れられる事はなかった。殴られ続けて意識が遠のいてくる。脳裏に妻や子供の顔が浮かぶ。いや、薄れゆく意識の中で、本当に長男の顔が見えた気がした。
もう少し続きます。