第1話
それは異様な光景だった。夕暮れ間近でまだ明るさも残る中、横幅のある巨漢が長髪を振り乱し、踊りながら横断歩道を闊歩していた。ちょうど渡ろうとしていた私は、反対側から来る謎のダンサーに遭遇したのだった。汚らしい灰色のジャージを纏う浅黒い肌の男は黒人かと思ったが、日焼けと薄暗さでそのように見えただけだった。黒人なら自分の国で路上ダンスもあるだろうが、間違いなく日本人だし、ここは日本の地方都市N市だ。他に歩行者はなく、気付く者もないが、下手糞なダンスで歩道を渡るのは奇妙だった。
最初は少し恐怖を覚えた。N市では見ない褐色の巨漢が異様な迫力で向かって来るのだ。ただ、一心不乱に踊っている為、私になど全く興味を示しておらず、安心して凝視出来た。
「ダニィ……」
風貌に惑わされたが、私の知っている人間であった。私は転勤族で最近地元N市へ戻って来たので、彼の事はすっかり忘れていた。しかし、私は相手を認識したが、向こうは私に気付く事無く無様なステップで踊り過ぎて行ってしまった。
ダニィ、それは彼の小学生時代のあだ名だ。風谷という名字から、最初は「タニー」などと呼ばれていたが、見た目からもわかるように彼の不潔さや、時折生ゴミのような臭いがする事から、ダニと掛けて「ダニィ」とアメリカナイズな呼び方をされていた。
そういえば地元在住の友人もよく近所で目撃すると言っていた。自転車に乗っていたり、ジャージに長靴姿でスーパーに出現したりするそうで、例の風貌や体格も相俟って迫力があると話していた。私は久々だったので、すぐにダニィと認識出来なかったが、地元民にとってはいつもの出来事なのかも知れない。
いずれにしても踊るダニィの様子は脳裏に焼き付いて忘れようにも忘れられなかった。家に帰った後も何となく気になって、床に就いても過去の出来事が頭に浮かんで来て、疲れているのに寝付けなかった。
彼は子供の頃から汚らしいイメージがあった。いつも服が汚れていて、机の周りなんかも埃塗れだった。同級生も不潔なダニィを嘲り、気持ち悪がって避け、いじめに等しい状態だっただろう。今にして思えば、それは彼自身だけの問題ではなく、家庭環境に原因があったと推測される。両親が幼い頃に離婚して、彼と妹は祖母の手で育てられたのだった。
この祖母は行事等あれば必ず姿を見せていたが、いつも怖い顔をしていて、小学生には恐ろしい生き物のように思えた。ダニィをからかおうものなら、すぐに罵声かげんこつが飛んできた。自分が中年になり理解も出来るが、この祖母もダニィと妹を守るのに必死だったのだろう。子供心にはそこまで意識が及ばず、ただ怖いイメージしかなかった。
ダニィは宿題などもやらずに来る事が多々あった。そして、今日の行動にも繋がるが、時折、奇行を示した。下校時、一人でアイドルの歌を口ずさみ踊りながら帰ったり、下級生と無理矢理帰ろうとして注意を受けたりする事もあった。そんなダニィだから、幼心に私達はからかい、蔑んだのだと思う。
思い出していると眠れなくなってきた。頭の後ろの時計を見る。もう午前二時を過ぎている。明日も仕事で、こんな事を考えている場合ではない。目を閉じて、思考を切断しようとする。しかし、ダニィの踊りが頭に焼き付いて、消そうと思っても消えなかった。
寝たのか寝ていないのかよくわからぬまま朝を迎えた。首肩が痛く、頭痛もする。四十を過ぎて、寝不足になると、朝こんな状態になる事が増えた。昔なら眠いだけだったのに、今は本当に辛い。これも皆、ダニィのせいだ。
おはよう、と妻が挨拶してくる。私は無言で洗面所に向かい、顔を洗う。
「二人を早く起こして。また寝坊しちゃう」
わかったよ、と返事をして、子供部屋へ向かう。私達は一男一女を儲けており、長男が中学二年、長女が小学六年生だ。二人共、朝が弱くて、起こさないと起きた試しがない。
「朝だよ~」
最初は軽い調子で身体を揺するのだが、全く目覚める気配がないので、最後は布団を剥がして無理矢理起こす。すると、彼らも不機嫌になり、皆がトゲトゲしたまま朝食を食べる羽目になる。その内に職場が遠い妻が先に出て行き、私は子供達を叱りつけながら家から出し、慌てて玄関を出る始末。いつもこんな感じだが、今朝はさらに体調も冴えぬまま、憂鬱な気分で出勤した。
憂鬱なのは職場も同じだ。同じような仕事の繰り返しが続き、全く気持ちが乗らない。四十代になり、今更転職の道もなく、惰性のように職場と家を行き来する人生に生き甲斐を感じなくなっていた。私の上司は三人いるのだが、一人一人言う事が違い、何度も資料を作り直した挙句、最後は元に戻っているような馬鹿馬鹿しい例が多く、モチベーションが下がる一因となっている。
仕事なんてこんなものだし、皆、それを承知の上で頑張っていると言われれば返す言葉もない。しかし、心身が優れない最近の私には、こんな日々の繰り返しで散って行くのは不満がある。稼ぐ為、生きる為だけに生きる事に何の意味があるのか。ここ数年、そう思いながらも無為な日々を過ごしてきた。
そんな鬱勃としていた私の前に姿を現した懐かしくも奇妙な存在がダニィだった。若者ならいざ知らず、四十代にもなって街中で汚らしいジャージを身に付け、踊りながら横断歩道を渡るような人間は他にいない。その特異さが妙に印象に残り、何をしてどんな風に生きているのか、気になって仕方がなかった。
頭の隅に引っ掛かったまま、数日が過ぎ、週末を迎えた。晴れた空の下、私は長男と車で近くの大型スーパーに向かっていたが、直前の信号が赤になり、停車した。フロントガラスを通して見える目の前の横断歩道を、スーパーへ向かう者とスーパー側から来る者が複数名渡ろうとしている。
突然、息子が「あはは」と笑い出した。理由を尋ねると歩行者を指差す。その指の先にいたのは、薄汚れた白いシャツに灰色のスエットを身に付け、長い髪を振り乱しながらボックスステップを踏む怪人だった。
「ダニィ……」
「お父さんの知り合い?」
私は頷き、同級生だと説明する。ダニィは目の前で軟体動物のような動きを見せる。
「あの人、何で道路で踊ってるん?」
私は首を傾げて見せる。私もダニィが何を考えこの行動を取っているのか、わからない。
「ダニって言うの? あの人」
「ダニって、そりゃ酷いな」
息子の言い草に思わず苦笑する。
「ダニィな。昔のあだ名だよ」
話している内にダニィは視界から消えていた。信号も青になり、私は車を発進させた。そのままスーパーで買い物をしたが、この日、もう一度ダニィを見る事はなかった。
しかし、ダニィの印象は息子にも強烈に刻まれたようで、この日以降、何度か「ダニィさんを見掛けたよ」と報告された。こんな事が家族の会話の一つになり苦笑する他ない。妻まで買い物の時に子供と一緒に見たようで、
「貴方の知り合いなの? 変わった人ね」
と感想を述べてきた。
こんな風に家庭内での話題にもなり、私の中でもますます興味が膨らんできた。改めて同級生とSNSで情報交換したが、やはり地元にいる者はかなり目撃していた。ただ、声を掛けた者はなく、ダニィが何をして生計を立てているのか知る者もなかった。
ならば今度は声を掛けようという気持ちが湧いてきた。退屈な毎日の中、ダニィは唯一刺激的な存在であるようにすら感じる。いつしか無意識にダニィを探している自分がいた。さすがに狙って遭遇出来るものでもなく、しばらく目撃する事はなかったが。
そんな状態が続き週末を迎えた。仕事帰りの金曜日の夕方、期せずして自転車に乗るダニィを見掛けた。巨体に似合わぬ潰れそうな自転車を一生懸命漕ぎ、私の車と並行して歩道を走行していた。向かう先は先日子供と見掛けた大型スーパーのようだ。
チャンスと思い、私も車をスーパーに向ける。先回りして駐車場に停め、ダニィが来るのを待つ。数分後、予想通り、ダニィが自転車で構内に入って来た。途端に緊張感が増す。ここに至って、何と声を掛けたものかと悩ましく、不安が募って来た。まるで高校生が好きな女子に声を掛けるような感覚だ。視線の先にダニィが駐輪しているのが見える。私は小走りで近付く。彼の匂いだろうか、野生的で腐ったような香りがして臭い。あと数メートルまで距離を縮めた瞬間、ダニィが振り向いた。急な反応に私は言葉が詰まってしまった。まるで『だるまさんが転んだ』で不意打ちを喰った感じだ。ダニィの目はギラついて異様に鋭く、何事をも言わせない雰囲気があった。だが、ここで引く訳にはいかず、
「か、風谷君……だよね?」
と勇気を振り絞って呼び掛けた。呼ばれたダニィは驚いたのか、「ほえっ」と妙な叫びを揚げ、目を見開く。明らかに慌てており、私を恐れさせた印象とは程遠い変わりようだ。
「覚えてる? 小学校一緒だった吉岡だけど」
妙な威圧感に怖気づきながらも尋ねる。奴は返事しないが首を縦に激しく振る。覚えているという事なのか? 充血してぎょろりとした目が怖い。しかし、ダニィから言葉を発する素振りはなく、こちらから何か言うしかない。
「あのさ、今何やってるの?」
勇気を出して聞くと、ダニィは全身を揺らし、いかにも困っているようであった。こちらから何か言うべきか迷っていると、
「さ、皿洗い……」
とぼそりと言うのが聞こえた。
「そ、そうかぁ。厨房か何かで働いてるんだ?」
私はまた尋ねるが、ダニィは頷きを繰り返すのみ。昔の同級生などとはあまり話したくないのだろうか。
「えっと……」
次の言葉を紡ごうとしたが、ダニィは私とは関係ないもののように背を向け、再度自転車に跨り去って行ってしまった。
「お、おい……」
声は出たものの、足までは出なかった。去り行く自転車は、まるで何かから逃げるかのように速かった。ほとんど会話も出来ぬまま、初接触は終わり、彼の野性的な香りだけがその場に残っていた。
帰り道、不完全燃焼感が心に燻っていた。ようやくアタック出来たが、その後の締まらなさったらない。ダニィはあんな迫力を醸し出しながら、まるで怯えた子供のようだった。単に身だしなみが整っていないが故の異様さであり、本来のダニィは弱い人間なのだろう。人間のランキングでも付けるとしたら、私で中間くらい、ダニィは下の方だろう。小学校のクラスならおそらく最下位だ。
そう考えると、何とか救ってやりたい気持ちにもなる。きっと友人の一人もいないのだろうし、少しは助けになれるかも知れない。こんな気持ちは私のエゴで、他人を救おうなどというのは奢った考えと思えなくもない。ただ、ダニィには負い目もある。小学校の頃、からかってイヤな思いをさせた償いをしたい、そんな気持ちもなくはない。
いや、実はただの興味本位なのかも。ダニィを見た、などとSNSで友人に連絡するのが楽しい、実際そんな気持ちもある。
色々な心境が入り混じって自分でもよくわからないが、ダニィが気になる存在なのは間違いない。このままではスッキリせず、何としてももう一度話をしなければなるまい。