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旭川女子中学生いじめ凍死事件

作者: 鈴木美脳

【いじめの隠蔽について】


 今年は、旭川女子中学生いじめ凍死事件があった年ですね。

 被害者は、極めて聡明で、芸術的な才能と美しい心を持った少女でした。

 そんな彼女が、多少の特殊性から、貧しい家庭環境で育った子供達にいたぶられて、結果的に自ら命を絶ちました。

 彼女が生前、不満を持っていたことの一つは、いじめが明らかになっても、教師達がいじめを隠蔽して終わらせてしまったことでした。

 教師によるいじめの隠蔽とは、しばしば耳にする話ですね。

 行われているいじめを隠蔽するのみならず、自殺者が出てなお、隠蔽を図る。

 そんな教師達は、人間ではないと、私は強く感じます。

 子供と大人なら、大人に絶対的な権力があるのですから、子供が自殺したなら、大人が殺したんですよ。

 いじめについては、被害者の、外見や知力や性格などのマイナスの特性がきっかけになっていることもあると思いますが、彼女は極めて聡明でした。

 極めて聡明であったことが、いじめの主なきっかけになったとしか思えないほど、まっとうな少女でした。

 しかし、多くの人の中では、この事件のことはやがて風化していくでしょう。



【教員に適応させるシステムについて】


 こんな事件が起こるようでは、日本は、少なくとも、ユートピアではありませんね。

 もちろん、日本をユートピアだと思っている日本人はほとんどいませんが。

 普通の会社のように、教師達についても、出世だとか、あるいは逆に退職するということはあると考えられます。

 もしも、教育者として優れた能力を備えた人ほど地位を得るならば、教育業界においては、地位や賃金の順序と同じく、地位の高い人々ほどその能力は高く、特に能力の低い人々は逆に、職場や人間関係に適応できずに退職していったことでしょう。

 つまり、教師達は一応はそれを職業としている選りすぐりですし、校長ともなれば、きっと立派な人格者なのではないでしょうか。

 つまりは、日本中から人格者を選りすぐった結果として、子供をいじめによって自殺に追い込むことを隠蔽しているのですから、これは仕方がありません。

 でも、当然、現実は違いますよね。仕方なくない。

 子供が不当にいじめられて深く苦しんでいるのに、問題に蓋をして笑顔で寝起きできるのは、選りすぐりのクズだけです。

 つまり、モラルに欠けた人々の組織があるならば、モラルのある人々をむしろ淘汰するシステムが存在したということです。

 そのシステムが存在することを認知せずに、直接に罪を犯した教師達のみを悪者として蔑む行為は、信じがたいほど頭が悪い。

 しかし、日本にも世界にも、その程度に愚かな人々しかいません。



【労働に適応させるシステムについて】


 一般企業においても、社会的なモラルに富んだ行為ほど高く評価されるわけではありません。

 むしろ、企業や行政が、社会的なモラルに欠ける不祥事を起こすことはありますよね。

 ほとんどの人々は、そのような不祥事を起こした直接の担当者やそれに近い責任者を批判して蔑みます。

 しかし、企業や行政が提供する製品やサービスについて、社会的なモラルの観点から見たその欠陥を声高に批判したなら、職員として干されますよ。

 企業や行政が、社会的なモラルに著しく欠けた愚かな行動をすることがありますが、その意思決定プロセスには、細かく見れば無数の人々が関わっています。

 これはやばいんじゃないか、って感じた人はたくさんいるわけです。

 しかし、不良な製品やサービスが出荷されることを止められなかった。

 止めようとすれば、解雇されて、経済的なキャリア形成に莫大な損失を刻み込まれるから、止められなかったのです。

 馬鹿な会社だなあ、って第三者は気軽に言いますけど、企業や行政には多くの人が従事していますから、馬鹿だなんて一言で見下せるわけがありません。

 自分がそこにいたなら変えられた、って思う人は傲慢で、そんな人が実際に現場にいれば、媚びて生き残るか、無茶して早々に解雇されるかです。

 つまり、現代人のモラルがないなら、それは、企業や行政といったシステムが要求していることなのです。

 モラルある人間がむしろ淘汰される因果関係や相関関係が存在して初めて、モラルのない人間が地位や権力や影響力を得ていくことができます。

 それなのに、ほとんどの人は、そんな仕組みを見ようとしません。

 モラル云々といったそんなことなど、真面目に考えようとしないほうが、無難に生きていくためにはずっと安全だと、幼いうちにシステムに適応してしまうのです。

 しかし、そのことは明らかに、自分達の首を絞める結果をもたらしますから、信じられないほど頭が悪い。

 しかし、日本にも世界にも、その程度に愚かな人々しかいません。



【加害者の立場について】


 逆に、いじめを隠蔽しないことなどできるのでしょうか?

 教師の立場で、一円にもならない良心を発揮して、何になるというのでしょうか?

 企業の社員として、一円にも給料やキャリアに反映されない善行をして、何になるというのでしょうか?

 自分自身の個人的な経済的なプラスにつながらないことなど、やる義理はないし、マイナスにつながったり、甚だしくマイナスにつながる危険のあることなど、なおさらやる義理はありません。

 であれば、なぜ他人は、その直接の従事者に、金になるどころか損するリスクのほうが濃厚な善行を、上から目線で声高に強いる権利があるのでしょうか?

 もちろん、自分が同じ場所に置かれてできない善行を他人に偉そうに強いる権利など、一欠片もありません。

 ほとんどの人々は、安全な立場から偉そうなことを言って、気持ちよくなりたいだけです。

 被害者も加害者も、第三者にとっては他人なわけです。

 言わば、罪なき者のみ石を投げよ、というわけです。

 教育業界にしろ、企業にしろ行政にしろ、不祥事を起こせば、組織や個人として大きな損をすることは、しばしばあります。

 しかし、だから加害者を馬鹿だと言うなら、奇妙なことです。

 なぜならそれは、批判されない程度にうまくグレーゾーンで犯罪的に利益を得たり、あるいはいじめを隠蔽しきることに成功すれば、賢く、ひいては正義だと言っていることになるからです。

 そんな思想がはびこれば、人々の人間的な良心はかえって衰弱していくでしょう。

 つまりは、人間の能力のうちの良心という属性について、システムによって、経済市場原理などにより、十分な報酬を与えることは、絶望的に困難なのです。

 なぜなら、個人にとっての今日の生活に便利な製品を提供している企業ほどホワイトだとか、言えないからです。

 社会における、局所最適性と大域最適性は、必然的に完全に別物だからです。

 それなのに、犯罪として有罪になるような不祥事を犯した人を見て、違法行為をするなんて愚かだと言う人がいます。

 現代では、ほとんどの人々が、法的な不当性と倫理的な不当性をまったく分けて考えられなくなっています。

 それは、信じがたいほど頭の悪いことです。

 法なるシステムのみ信任すれば、グレーゾーンにおいて私的利益を最大化していい、ということにはなりません。

 むしろ、人間という地上の最大の知的主体によって、互いの倫理的なモラルを評価し、報酬を再分配しつづけることが、社会幸福を常に一定程度に浮上させているのです。

 それは、かくも明らかな事実です。



【生徒に適応させるシステムについて】


 すなわち、現代では不合理に軽視されている、社会にとっての個人の価値は、人格的な善性です。

 そしてそれは、人間同士の観察と共感によってのみ計測可能であって、経済的に省力化されたペーパーテストなどによっては、正確な計測は本質的に不可能です。

 そして、体制への欺瞞的な表面的な適応をもって問題を起こさない優等生だと分類するのではなく、偉大なる人格的な思考力を備えた子供達を測るためには、教師達には当然に、子供達以上の知的才能が求められます。

 その意味では、国民を学力で事実上階級的に分類したのちの教育を担当する大学の教員に比べて、小中学校などの義務教育過程を担当する教員の責任は重く、さらに言えば、必要とされる能力の桁が違います。

 困難な立場に置かれた子供達は、信頼できる大人に出会わなければ、この世界で生きていく人生に絶望してしまいます。

 次の時代へと私達を導いてくれるような、社会に貢献できる素質を多く持った、賢い子供達から順番に自殺してしまいます。

 ですから私は、あらゆる職業にまさって、小学校教師の給与は高くあるべきだと信じています。

 老人を治療する医療のほうが金になるような社会は、若者の幸せを軽視し犠牲にしている腐り果てたディストピアです。

 現在の教師が糞だから給与をより高くしてやる必要などないという意見を言う人がいますが、それは、近視眼的で利己的です。

 子供達が勉強をする主な動機は、親の助言のせいとはいえ経済的な人生設計ですし、最も学力ある若者達が医療を専攻する主な動機は、単に、安定性や社会階級も含めた経済的な合理性です。

 最も才能ある若者達がこぞって小学校教師を目指し、小学校教師こそ最も尊敬され重んじられる社会が、あるべき人間社会だと思います。

 もちろんそれは、現状に照らして、現実離れした理想論です。

 もしも変化を急ぎすぎれば、多くの問題や無駄を生じます。

 ただ一言で言えば、馬鹿は英才を淘汰することを通して、馬鹿を再生産するということです。

 ともあれ、現状の教師には、子供達を人格的に導く人並み以上の知的人間性など、どうといって期待できません。

 よって、カリキュラムも彼らの理解できる範囲で作られていて、知的人間性の健全な発達を促すものではなく、素質ある子供達を納得させるものでもありません。

 学力の計測は、ほとんどペーパーテストのみによって行われ、そのように計測された学力が、学力として定義されている、という結末になっています。

 その結果、超一流とされる名門大学も、内容は職業訓練以上ではありません。

 社会において人の上に立つ責任ある立場を担うに値する人材を育むために、あえて職業訓練に対極する理想を追求した、歴史的なリベラル・アーツ教育の哲学は、現代では滅びました。

 東洋においても、論語などの倫理哲学を知的活動の中心に据えて学ぶ習慣は失われました。

 よって、現代においては、学校というのはそれだけのものでしかないし、学歴というものも、それだけのものでしかありません。

 しかしだからといって、学校というもののあるべき姿が矮小化されるべきではありませんし、学力というもののあるべき意味が認知されない状況が放置され満足されるべきではありません。

 他者の知的才能を測ろうと思ったなら、それはごく簡単に実現できます。

 というのも、その人の言動を倫理的な観点から観察して減点していけば、自分より劣った人の正体はすみやかに明らかになります。

 一方で、現代のシステムはどうといって信用に値せず、合法性や地位や学歴や所得によって知力の絶対的な指標とすることはできませんから、自分よりも優れた他者については、知力の程度を測ることができません。

 ですから結局、他者の本当の意味での学力を測るためには、自らを磨き上げて、自らの目によってその他者を測る以外にありえません。

 よって、既存の教育機構におけるシステムは逆淘汰の必然性を備え、なおかついわゆるペーパーテストなどを偏重して若者達を分類しますから、学歴にはまるで価値がありません。

 もちろん、一企業の繁栄といった局所最適性のためには、採用に際して、学歴フィルタリングは有効でありつづけます。

 しかし、そのように局所最適性のために互いを測っていくことは、大域最適性について逆淘汰を生じ、人々のモラルを衰退させ、自らの首を絞めていくことになります。

 あまりにも当たり前にわかることですから、こういった事実をわからないでいる人間が存在することが、私には信じがたいです。



【外見や学歴や経済力などの世俗的な価値】


 さように、学歴で人を測ることは、虚しいことです。

 しかし、現代の社会は、エマニュエル・トッドが言うように、学歴による階級社会としての色彩を強めつづけています。

 建前としての平等主義の裏にあって、教育水準こそは、正義ある格差だというわけです。

 なぜなら、技術こそがイノベーションをもたらし、市場競争を通じて、市民幸福を拡大することができるからです。

 そして、そのような市場主義を楽観したがる巨大資本こそが、SNSや報道機関を通して情報を制御しています。

 小中学校は、教育水準と生涯賃金や平均寿命の事実関係を子供達に伝えません。

 その結果、立場の弱い人々ほど、経済的地位とQOLの相関関係を直視しません。

 多くの人はただ、いだいた夢が叶わずに年齢を重ねていく過程で、結果の平等や機会の平等から現実の社会がいかに遠いものか思い知りますが、知ったあとにはもうキャリアを選択する余地はほとんどなく、現状をプラスに捉えるほかありません。

 つまり、学歴主義的な階級社会には、倫理的な正当性の論拠がどうといって伴っていません。

 にもかかわらず、学歴を有する人々は、自分よりも学歴を備えない人々の尊厳を下に見る傾向を有しています。

 そして多くの人が、自分よりも学歴のある人々をやや上に見る傾向すら備えています。

 同様のことは、地位や経済力についても言えます。

 女性の多くは、経済力に優れた男性を尊重し、経済力に劣る男性を軽んじることを、社会的な倫理に欠けた恥ずべき行為だとは考えていません。

 同様のことは、外見についても言えます。

 男性の多くは、健康な子供を産める若く健康な女性につきまとう性的な魅力で女性を測ったり、顔貌が主観的に奇妙に見える女性を笑いものとして話のたねにすることを、社会的な倫理に欠けた恥ずべき行為だとは考えていません。

 つまり、一般市民のほとんどまたはすべては、信じられないほど頭が悪く、したがって良心を備えてはいません。

 また例えば、障害者やホームレスを馬鹿にします。

 良心でこそ人を測るべきであり、他の属性で私利私欲のために他者を測って蔑み、軽んじたり笑ったりすることが、いかに甚だしい倫理的な罪か、自覚できないほど愚かだからです。

 ホームレスを蔑む人々は、ホームレスを蔑むことがなぜ悪いのか、どう説明されても絶対に理解できないほど頭の悪い人々です。

 そういう人々は、小さな虫を嫌って見せたり、理由なく踏み潰せる人と同じで、理性で反撃されないと思ったら、共感する人間らしい心を生じないのです。

 人間達の現代社会とは、その程度のものにすぎません。



【世俗的な願望を犠牲にする感動すべき善行】


 一定の知的才能があれば、必ずしもどうという教育に恵まれずとも、他者や社会を眺める中で、幼くしてこれらの事実を自然に知ります。

 学校や会社においては、ひいては恋愛においてさえ、モラルというのは、報われにくいものです。

 そのことを最低限理解している人々において行われる善行や親切は、それら損失を天秤に置いた上で実行されます。

 つまり、まっとうな知性を持った人々のなすどんな善行も、痛みを伴ってなされています。

 一方では、普通に世俗的な幸せを願望する自分自身が存在して、その感情へのセルフコントロールが存在して、他者や社会への幸せを願う愛情のために、倫理的な行動は実行されます。

 その時、いじめは教師によって正しく論じられ、不正は社員によって告発され、省庁は役人によって正されます。

 物語が、私にとって感動を誘うのも、普通に幸せを望む私利私欲と葛藤する中で、英雄達は、社会正義のために一歩足を進めるからです。

 その時、私は、人間精神の偉大さを感じることができます。

 私が、尊敬の感情をいだくような他者像とは、そのようなものです。

 そのことは、世間で言われるような感動や正義の典型とも、大いに重なっています。

 逆に、私利私欲に生きることの何を尊敬できるでしょうか?

 私利私欲のために学校の成績がいい人や、私利私欲のために仕事で多く稼ぐ人の何を尊敬できるでしょうか?

 他者を尊敬することの意味は、近代において大きく変わってしまいました。

 世俗的な成功者に憧れることが敬意と呼ばれるようになりましたが、それは本質的には保身にすぎず、保身ほど醜悪な人間精神はありません。

 嘘やごまかしを恥だと思う人や、保身や利己性を恥だと思う人は、もうほとんど見当たりません。

 それらは、一定の知的才能があれば、明らかに見える程度のことだと考えられます。

 ならば彼ら彼女らは、それらを踏まえた上で、世俗的な幸福によって報われず、名目的な名誉によってすら報われない善行を、あえて行っていると考えられます。



【神仙には名前がない】


 ゆえに、真に偉大なる人々の名前が自分の耳にまで聞こえることはありません。

 社会というものは、優れた人々ほど栄えるという場ではないのです。

 栄えるべき人々ほど栄えるという場ではないのです。

 それを知って生きることが、公正世界仮説の中で生きようとする俗物らに比べて、いかに峻厳で過酷なことか。

 それを知らず、公正世界仮説の中で生きようとする俗物らが、いかに英才に依存した罪深い人生を送ることか。

 つまりは、社会幸福というものは、死にゆく人々が支えていることになります。

 真に偉大なる人々ほど、その名は小さくこだまする。

 ゆえに、私達は彼ら彼女らを目撃することあたわず、ただ論理の力によってその存在を思うことしかできない。

 それはまるで、物質的には存在しない、神々のようにです。

 恥知らずな人々は、それが普遍的な人間だと言わんばかりに恥知らずですが、その一方では、少数だとしても、立派な精神を備えて、良心ある思考や行動を繰り広げている人々はいます。

 人間精神には信じられないほどの幅があって、偉大なそれは果てしなく偉大です。

 ですから、尊敬をしない人々は、尊敬したくないだけです。

 自己欺瞞の中で自尊心を慰めて気持ちよくなっていたいだけです。

 義のために倒れていった戦士達を思えば、枯れることなく涙を流すことができる。

 情緒あるウェットな人間ほど偉いのです。



【自分の目の中に価値を持つ】


 涙もろい、ウェットな人間ほど偉いのです。

 人に優しく、動物や虫や植物にも優しく、親切に生きる以上に尊いことはありません。

 優しい人より仕事ができる人だとか、世間は時に言いますが、愚かなことです。

 本当の優しさは、桁外れの知性によってしか実現できません。

 だって、今の時代に優しく生きれば、損ばかりすることは自明ですから。

 そして、仕事への適応や勉強への適応は、危険な逆淘汰の性質を備えています。

 ですから、学歴や所得、ひいては外見や健康によって他者を測って満足することは、信じられないほど頭の悪いことです。

 優しい人を見て、単に、苦労を知らないとか、純粋だとか思うことは、愚かなことです。

 本当に優しい人は普通、ほとんどすべての人よりずっと苦労してきています。

 そうでなければ、優しくなどなれません。

 もちろん、一般世間に何か理解されようと願望することは、ほとんど無駄でしょう。

 優しさという属性こそは、世俗を超えた義の世界で生きるトップエリート達にとって、根本的で死を超越する永遠な価値であり、彼ら彼女らはおそらく、そんな意味での出世競争の世界で、名誉の角逐する戦いを楽しんでいるのです。

 それは、世俗的な物質主義的な利己主義の次元から比べれば、雲の上のような話です。

 だから、誰に言っても馬鹿にされるだけだから、誰に言うことも決してできない。

 そんな状況では、間違っているのは自分で、自分の気が狂っているだけだと洗脳されていきます。

 恥じることなく利己主義に生きるべきだと言われつづけるようなものです。

 しかし、私の考える超越的な思想には、以上のように確かな論拠が備わっています。

 だから私は、迷い苦しみ、世俗的な幸せを願う反面、このような論拠の構造を繰り返し確認せずにはいられません。

 そうして思い悩む時間を浪費し、地獄の底まで一人、舞い落ちていく。

 私は世俗的な幸福を繰り返し欲しましたが、まるで神が私を手放してはくれないようです。

 神に魅入られたのか、悪魔に魅入られたのか、そんな人生もあるらしい。

 しかし、世俗的な価値だけで自他を測ってしまうことで、深い苦しみに追い詰められてしまうこともあると思います。

 世の中には、世俗的な価値によって人を決して蔑まない人もいます。

 自分の目の中に価値を持っている人もいます。

 常識がすべてではありません。

 自ら思い描くのでなければ、現実の価値は目撃できません。



【まとめ】


 悲しい出来事が起きてしまったなら、残された者の責務として、できる限りの償いとして、何か明日のために活かしたいですね。

 そのためには、いじめっ子だとか、隠蔽した教師だとか、直接的な加害者を超えて問題を理解することが不可欠だと思います。

 そして、問題を本当に理解するためには、近代思想全体を常識として相対化する必要があります。

 そして常識を捨てて人間精神の可能性を知れば、世の中をより良いものにする手がかりも得られます。

 肉として死に怯える執着を手放した時、精神は主観において永遠を楽しむことができます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 相変わらずの美脳節 [一言] 昔から信用していない人種が二つ。学校の先生と警察官。
[気になる点] この事件は本当に涙が出た。 これは「人の尊厳」以上に「魂と肉体」を傷つけて辱める本当の悪魔の所業だった。 加害者の口から出た「何とも思わない」の言葉。 教員側の「責任逃れ」。 被害者の…
[良い点] とてもよく練られた論考だと思います。繰り返し鈴木さんの文章で言及されてきた主題がまとまった形で展開されており、以前はよく分からなかった繋がりや流れがより分かりやすく理解できました。 ただ一…
2021/09/01 11:11 退会済み
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