表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編・童話集

夢の酒

 大変酒好きな男がいて、これが若いころは毎日、前後不覚になるほど酒を飲んでいた。

 好きなだけで決して強くはなく、暴れる、叫ぶ、からむ、吐く。

 おまけに倒れる。

 夜が来るたびに大騒ぎだった。

 そして翌朝は死人のような顔で重い二日酔いと闘うのだが、夜が来るとその苦しみなど、酒でけろりと忘れてしまう。


 そんな男にもついに年貢の納め時がきた。

 酒を飲みだして十数年、ついに医者から酒を止められてしまったのだ。

 これ以上飲むと体に関わる。

 もちろん、死ぬのだってそう遠くない。

 男の肝臓はかなり弱っていた。


 無論、その程度のことで酒をやめるような男ではない。

 酒飲みが体を心配してどうする。

 男はそんな気概を医者に語ったが、今回は相手が悪かった。

 医者は、男の妻だったのである。



   ※※※



 家から一切の酒が捨てられ、夜間の外出は禁止された。

 男の生業は作家だったから、外に行かずとも仕事は出来る。

 実際は外出の用もあるにはあったが、妻がすべて断った。

 男ほど酒好きのろくでなしでもいいところはある。

 小説の世界ではめっぽう名が売れていたし、妻の稼ぎもある。

 男は仕事を選べる立場にあった。

 今度ばかりはそれを恨めしく思ったが。


 当然、妻には反抗したけれど、激しい言い争いの後で、ついに妻に泣かれてしまった。

 わたしはあなたの体のことを思っている。

 それなのに、あなたはどうしてそんな、ちょっと酒を我慢する程度のことが……。

 男は酒を愛していたが、妻も同様に愛してもいた。

 ついに心を入れ替えようとした。

 泣く妻の肩を抱きしめ、もう酒はやめると誓った。


 ……しかし、それで酒をやめることが出来るのならばとうにやめている。

 男にとって苦しい日々がはじまった。


 酒が、どうしても飲みたいのである。

 妻と約束した手前、飲むことは出来ない。

 だが体が求めている。

 禁断症状だ。


 男は何とか気を紛らわそうとした。

 仕事に打ち込んだ。

 想像の世界が広がっている間は何とか持ちこたえたものの、少しでも気が逸れるとすぐに酒が思い浮かんでくる。

 喉を潤す熱さ。

 陶然となっていく意識……。


 男も作家である。

 クリエイターである。

 ついに想像で頭の中を満たしはじめた。

 実際に酒を口にするわけにはいかない。

 その代わり、仕事を終えて夜を迎えると、酒のことを可能な限り正確に頭の内で再現した。

 そして水を口に含んで酒を飲んだ気になる。

 だが、それで何とか持ちこたえていたのもはじめのうちだけだった。

 たまらん。

 やはり本物が飲みたい。


 そんな思いは、やがて、男に酒の夢を見せるようになった。

 夜眠り、ふと気がつくと、男は飲み屋に座っている。

 顔なじみの店主が冷酒を盃に注ぐ。

 久しぶりだね、と店主がいい、ああ、ちょっとあってね、と男が酒を飲もうとする。

 そこで目が覚める。


 この夢が大変残念だった。

 何しろうまそうな酒なのだ。

 それが一口も味わえないままに目が覚めるなんて。

 せめて夢ぐらい、飲ませてくれてもいいじゃないか。


 やがて、男の思いは叶った。

 夢は段々長くなり、一口の盃が一升瓶を開けられるほどになった。

 それも克明な夢なのだ。

 ある酒は雪解けの水のように舌にしみこむまろやかな味。

 またある酒は凛とした風格をもった香り高い味。

 そして徐々に薄くなっていく意識、高揚感。

 例の馬鹿騒ぎ。

 酒乱の限りを尽くす男、そこで目が覚める。


 次第に男は、夢に満足するようになってきた。

 酒の味は素晴らしい。

 おまけに、いくら酔っても気持ち悪くはならない。

 二日酔いもない。

 それに酔って騒ごうが、我を忘れようが、だれにも迷惑をかけないのだ。



   ※※※



 男が酒をやめて一月ほど、男は妻の病院で、久しぶりに検査をした。

 その日の夜、妻は上機嫌になって帰ってきた。

 男の数値は良好で、前のようにひどく酔わなければ、多少は酒を飲んでもよろしい。

 妻はそういう判断を下した。

 男の喜ぶ顔が見ものだったし、何より、約束を守ってくれたのが嬉しかった。


 男の好きな酒を買って帰ると、男は込み上げる笑いを抑えられないようだった。

 我慢させても悪いと、妻はすぐに酒をついで飲ませた。

 文字通り、泣くほど喜ぶだろうと妻は想像していたが、実際には違った。


 うまい、と男はいったものの、その言葉はどこか上滑りしていた。

 表情にも輝きがない。

 おまけに少し飲んだだけで、自らその酒をしまってしまった。


 妻はかえって心配した。

 男はどうかしてしまったのだろうか。

 それとももしかして、自分に対するあてつけなのか。

 無理に酒を断たせていたから。


 心配顔の妻に気がつくと、男は微笑んでこう答えた。


「うまいにはうまいが、夢の酒ほどのものじゃないから……」


 それ以来、男はすっかり酒をやめてしまった。

 妻はなんだか釈然とせず、どこか物足りなそうだったが、男自身にはわずかも不満はない。

 酒は毎夜、夢の中で飲んでいるのだから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ