夢の酒
大変酒好きな男がいて、これが若いころは毎日、前後不覚になるほど酒を飲んでいた。
好きなだけで決して強くはなく、暴れる、叫ぶ、からむ、吐く。
おまけに倒れる。
夜が来るたびに大騒ぎだった。
そして翌朝は死人のような顔で重い二日酔いと闘うのだが、夜が来るとその苦しみなど、酒でけろりと忘れてしまう。
そんな男にもついに年貢の納め時がきた。
酒を飲みだして十数年、ついに医者から酒を止められてしまったのだ。
これ以上飲むと体に関わる。
もちろん、死ぬのだってそう遠くない。
男の肝臓はかなり弱っていた。
無論、その程度のことで酒をやめるような男ではない。
酒飲みが体を心配してどうする。
男はそんな気概を医者に語ったが、今回は相手が悪かった。
医者は、男の妻だったのである。
※※※
家から一切の酒が捨てられ、夜間の外出は禁止された。
男の生業は作家だったから、外に行かずとも仕事は出来る。
実際は外出の用もあるにはあったが、妻がすべて断った。
男ほど酒好きのろくでなしでもいいところはある。
小説の世界ではめっぽう名が売れていたし、妻の稼ぎもある。
男は仕事を選べる立場にあった。
今度ばかりはそれを恨めしく思ったが。
当然、妻には反抗したけれど、激しい言い争いの後で、ついに妻に泣かれてしまった。
わたしはあなたの体のことを思っている。
それなのに、あなたはどうしてそんな、ちょっと酒を我慢する程度のことが……。
男は酒を愛していたが、妻も同様に愛してもいた。
ついに心を入れ替えようとした。
泣く妻の肩を抱きしめ、もう酒はやめると誓った。
……しかし、それで酒をやめることが出来るのならばとうにやめている。
男にとって苦しい日々がはじまった。
酒が、どうしても飲みたいのである。
妻と約束した手前、飲むことは出来ない。
だが体が求めている。
禁断症状だ。
男は何とか気を紛らわそうとした。
仕事に打ち込んだ。
想像の世界が広がっている間は何とか持ちこたえたものの、少しでも気が逸れるとすぐに酒が思い浮かんでくる。
喉を潤す熱さ。
陶然となっていく意識……。
男も作家である。
クリエイターである。
ついに想像で頭の中を満たしはじめた。
実際に酒を口にするわけにはいかない。
その代わり、仕事を終えて夜を迎えると、酒のことを可能な限り正確に頭の内で再現した。
そして水を口に含んで酒を飲んだ気になる。
だが、それで何とか持ちこたえていたのもはじめのうちだけだった。
たまらん。
やはり本物が飲みたい。
そんな思いは、やがて、男に酒の夢を見せるようになった。
夜眠り、ふと気がつくと、男は飲み屋に座っている。
顔なじみの店主が冷酒を盃に注ぐ。
久しぶりだね、と店主がいい、ああ、ちょっとあってね、と男が酒を飲もうとする。
そこで目が覚める。
この夢が大変残念だった。
何しろうまそうな酒なのだ。
それが一口も味わえないままに目が覚めるなんて。
せめて夢ぐらい、飲ませてくれてもいいじゃないか。
やがて、男の思いは叶った。
夢は段々長くなり、一口の盃が一升瓶を開けられるほどになった。
それも克明な夢なのだ。
ある酒は雪解けの水のように舌にしみこむまろやかな味。
またある酒は凛とした風格をもった香り高い味。
そして徐々に薄くなっていく意識、高揚感。
例の馬鹿騒ぎ。
酒乱の限りを尽くす男、そこで目が覚める。
次第に男は、夢に満足するようになってきた。
酒の味は素晴らしい。
おまけに、いくら酔っても気持ち悪くはならない。
二日酔いもない。
それに酔って騒ごうが、我を忘れようが、だれにも迷惑をかけないのだ。
※※※
男が酒をやめて一月ほど、男は妻の病院で、久しぶりに検査をした。
その日の夜、妻は上機嫌になって帰ってきた。
男の数値は良好で、前のようにひどく酔わなければ、多少は酒を飲んでもよろしい。
妻はそういう判断を下した。
男の喜ぶ顔が見ものだったし、何より、約束を守ってくれたのが嬉しかった。
男の好きな酒を買って帰ると、男は込み上げる笑いを抑えられないようだった。
我慢させても悪いと、妻はすぐに酒をついで飲ませた。
文字通り、泣くほど喜ぶだろうと妻は想像していたが、実際には違った。
うまい、と男はいったものの、その言葉はどこか上滑りしていた。
表情にも輝きがない。
おまけに少し飲んだだけで、自らその酒をしまってしまった。
妻はかえって心配した。
男はどうかしてしまったのだろうか。
それとももしかして、自分に対するあてつけなのか。
無理に酒を断たせていたから。
心配顔の妻に気がつくと、男は微笑んでこう答えた。
「うまいにはうまいが、夢の酒ほどのものじゃないから……」
それ以来、男はすっかり酒をやめてしまった。
妻はなんだか釈然とせず、どこか物足りなそうだったが、男自身にはわずかも不満はない。
酒は毎夜、夢の中で飲んでいるのだから。