[四幕:すれ違いの一方通行・起]
ここから物語が動きます。予定としては起、承、転、結の四部作となります。
いきなりだが、というか前にも述べたが、うちの母は壊滅的に家事ができない。逆にこれも才能なんじゃないかと思わせるような失敗を予定調和的に冒す。
しかも、それに加えてその辺の子供より子供っぽい性格をしているため、家庭内の戦力としてはミジンコ以下だ。基本的に食って遊んで寝るだけしかできない。
だから、必然的に朝ご飯は俺が滅茶苦茶早起きして作ることになるのだ。現在進行形でそうしているように。
「……エプロン似合うわね」
「……毎日着てますから」
朝の食卓。テーブルに朝食を並べる俺に、制服姿の工藤先輩が哀れむような目で言った。高校生の身でその辺の主婦より家事が板についてしまっているのは、理由が理由だけになんだか悲しい。
「……お母様、起きてこないわね」
「……いつも昼まで寝てますから」
まるっきり駄目人間の生活だが、まぁ実際うちの母は駄目人間なわけで、駄目人間は駄目人間の生活をしてこそ駄目人間……って何を言ってるんだ俺は。
溜め息をつきながら二人分の朝食を運び終え、俺も席につく。
「「いただきます」」
手を合わせて俺と工藤先輩。別に示し合わせたわけではないが、偶然重なった。
「あ、おいしい」
焼き魚やご飯といった和風の食卓で、工藤先輩が真っ先に口に運んだのは玉子焼きだった。
こういう“思わず口から漏れた”ような素朴な言葉は本心が籠もっているようでなんだか嬉しい。結局、料理を振る舞う側からすると、グルメ番組のリポーターのような気取った感想よりも、このたった四文字の言葉の方が何倍も心に染みるのだ。
「おかわりいくらでもありますから、遠慮しないでどんどん食べてくださいね」
微笑んで俺がこう語りかける。
しかし、何故か返ってきたのは工藤先輩のいじけたような鋭い視線だった。
「それじゃあ私が大食いみたいじゃない」
「え、いやっ別にそういうつもりは……」
「つもりはなくても女の子はそういうことを気にしちゃうの!」
「は、はぁ……」
その辺の機微は俺にはよく分からないが、まぁ工藤先輩が言うならそうなんだろう。そういえば従兄弟の女の子にもデリカシーがないってよく言われていたような覚えがある。
「龍佑はもっと女の子の気持ちを学ばないと駄目よ」
プクゥっと頬を膨らまして憮然と告げる先輩に適当に相槌を打ってから、俺は誤魔化すように味噌汁をすすった。俺は俺という人間に女の子の傾いた機嫌を治すような器用さを期待していない。沈黙は金、だ。
そして、今回はそれが功を奏したのか、しばらく眉間にしわを寄せて朝食を食べていた工藤先輩はやがて、フッと表情を緩めて言った。
「ま、それでもこうやってキチンとした料理が作れる龍佑はすごいよね。尊敬しちゃうな」
「そ、そんなことないですよ」
料理は確かに俺の数少ない特技ではあるし、趣味といえる部分もないわけじゃないが、半ば必要に迫られて身につけたものだ。いわば、日本人が自然と日本語を身につけるようなものであって、そうそう誇るものでもない。
しかし、工藤先輩は俺の返しに首を振ってこう言った。
「そんなことなくないよ。私なんて、せいぜい学校の調理実習くらいのものしか作れないもの。料理は苦手」
「え、そうなんですか?」
ばつが悪そうに言う工藤先輩を見て、俺はとても意外に思った。別に工藤先輩に特別料理が得意というイメージがあったわけではないが、学校では何でもそつなくこなす工藤先輩の口から“苦手”という言葉が出たことに、俺は大きな違和感を感じたのだ。
「俺に工藤先輩より上手にこなせるものがあるとは思いませんでした」
味噌汁をすすって、何の気なしに思ったことを口に出す。工藤先輩は俺にとって何よりも先に尊敬の対象なのだ。
強く、綺麗で、なんでもできる存在。だから、俺の言葉は俺からすれば当たり前のものだった。
「そんな風に……言わないでよ……」
「え?」
小さな小さな、吹けば消えてしまう蝋燭の灯みたいに弱々しい工藤先輩の声。
「私にも……私にだって……」
耳をこらしても聞こえるか聞こえないかの呟き声。
その時、不意に工藤先輩の右手が、俺の空いている左手にそっと重ねられた。
「先輩……?」
その手はやがて、迷子がやっと迎えに来てくれた親の手を離すまいとするようにギュッと強く握られた。
工藤先輩の顔はこれまでない程に悲しげだった。本来なら、どうしてこんな顔を見せたのか考え、謝るなり、慰めるなりとしなくてはならないのに、俺はその表情を不謹慎にも可愛いと思ってしまった。
工藤先輩の体温が指先から伝わるようで、俺の心臓は狂ったエンジンのごとくデタラメな鼓動を刻み始める。
細く、華奢な指が俺の手を離すまいと目一杯の力で握るその繋がりはひどく脆いように見えた。
「あ……ごめん……」
我に返ったように工藤先輩が指を離した。
「あの……」
「さ、食べよ?せっかくおいしいのに冷めちゃったらもったいないよ」
一分の隙もない微笑みで、工藤先輩は言った。
あまりにいつも通りのその様子にそれ以上の追求はできなかった。
「そ、そうですね。遅刻しちゃいますしさっさと食べましょう」
どちらかというと自分に言い聞かせるように言って、誤魔化すように茶碗を手にした。
左手に残った工藤先輩の暖かさに気づかないふりをして。