[三幕:思い重い]
眠気のため、ぶっ壊れ気味の申し訳ない感じの仕上がりです。何卒ご容赦下さい。
――偶然――
言葉にしてみれば何のことはない、たった二文字の単語だ。しかし、それは時に個人の生活をまるっきり変化させてしまうような、とてつもない破壊力を有している。実例を出すなら、今、この俺が置かれている状況なんかピッタリだろう。
神様か運命か、誰がこの偶然を用意したのか?詮無きことではあるが、どうしてもそれを考えてしまう。
何故かって?簡単なことだ。いつか、機会があった時、文句を言う相手を間違えないため。
そう、その時俺はそいつに向かってこう言ってやるのだ。“ややこしい事しやがって!”と。
「シズリン?それともシズちゃん?あー、そうだ〜!しーちゃんなんてどう〜?」
リビング。テーブルを挟んだ向かい側に座る母さんの、年齢をわきまえろと言いたくなるようなはしゃいだ声。果てしなく鬱陶しい。
「どう?と言われても……」
困ったような声で、それでも律儀に返事をするのは、俺の隣に座る工藤先輩だ。水色の綿の生地にデフォルメされた猫がプリントされたパジャマという、なんともコメントし難い服装をしているが、まぁとりあえず置いておこう。ただ、百七十を超える女性にしては長身の工藤先輩に合うサイズが存在したことにはかなり驚いた。
「ねぇ、リュウちゃんはどれがいいと思う〜?私はしーちゃんがいいと思う〜」
「……じゃあそれでいいんじゃねーの?」
相手にするのも面倒だったが、工藤先輩が目でヘルプを求めてきたので、適当に答えておいた。どうも、こういうマイペースかつ、どこかズレたタイプの人間は苦手らしい。
俺のおざなりな返事を聞いた母さんは、しばらくの間、顎に手を当て「ん〜」と唸っていたが、やがて結論がまとまったのかパンと手を打ち、溢れんばかりの笑顔で、
「じゃあ、そういうわけで雫ちゃんのあだ名は“しーちゃん”に決定しました〜!」
一人だけテンションをマックスにして大きく拍手をする。今、午後十時だ。近所迷惑考えろ。工藤先輩もどう対応すべきか迷ってるだろうが。
「それでは、これにて第二十七回伊藤家家族会議を終了しま〜す。みんなお休みなさ――」
「待てこら」
ガシィ
なんか一人で完結して寝室へ向かおうとしてやがるド阿呆の肩を、ミシミシと音がたつ程の握力で握りしめる。
「まだ話すべきことが山のようにあるだろうが!あだ名だけ決めて終わりってなんだ!?あれか?阿呆なのか?阿呆なんだな?ってか、俺としては同居人が工藤先輩だということを何故話さなかったのか、小一時間ほどじっくりねっとり問い詰めたいんだが、その辺はどう思う?」
駅からの帰り道で工藤先輩も「伊藤という家にお世話になる」としか聞いておらず、待ち合わせ場所に現れた“伊藤さん”が俺でびっくりしたという話を聞いた。明らかに“サプライズであいつらの反応楽しもうぜ”といったような計画があったとしか思えない。
「ひゃぁ!リュウちゃん目が据わってるよ〜!」 涙目の母さんはまるで首を掴まれた猫のように手足をじたばたさせていたが離さない。今日という今日はこの家の最年長者としての自覚を骨の髄までこってりと――
PLLLL!
その時、タイミング悪くも、リビングの隅に置かれている電話が鳴いた。
「ほ、ほら〜電話だよ、電話取りたいから離してくれないかな〜」
「……ちっ」
受話器の向こうの相手を待たせるわけにもいかず、渋々手を離すと、母さんはゴキブリを彷彿させるような動きでコードレスの子機をひっつかみ、寝室へと消えていった。普段もあれ位の機敏さを発揮して欲しいものだ。
「えっと、龍佑?」
ダメ母のダメっぷりにまたいつものように頭を抱えていると、工藤先輩がオズオズと遠慮がちな声をかけてきた。眉間を揉んでシワを消し、俺はいつも通りの表情で工藤先輩に向き直った。
「あはは、すいません。ウチの親、そろいもそろって変人なもんで」
「ううん、いいじゃない楽しいお母様で」
大人だ。フワリと一分の隙もない微笑みを浮かべて柔らかく言う工藤先輩を見て、俺は内心で舌を巻いた。俺にはとてもあのダメっぷりを“楽しい母親”なんてマイルドに形容することはできない。この辺りが俺自身と目指す目標の差なのだろうか?
「それより、どうしようか?お母様、部屋に引っ込んじゃったみたいだけど」
「あー、まぁ正直、話っていっても家の勝手さえ分かってもらえれば後は俺の方でどうにでもなるんで」
母さんを同席させようとしたのも、父さんが留守にしているこの家の家長として形式的にいた方が良いというだけの話であって、別に絶対必要というわけではない。むしろ、いたところで息子に家の管理からなにから全てを任せっきりにしてる人間は役立たずだろうし。
「とりあえず、一通り家の中案内しましましょうか」
「ここがトイレ。向かいの収納にトイレットペーパーとか、掃除用の洗剤とかがしまってあります」
あれから二、三分。工藤先輩を連れ立って、俺は家の中を案内していた。勝手知ったる我が家を改めて他人に案内するというのは、これがまた妙な気分だ。
「おっきな家ね……」
工藤先輩が廊下をキョロキョロと見回しながら感心したように呟く。
確かに我が家はでかい。都内にあってマンションでなく一戸建てといえば大したものだと思う。父さんも伊達や酔狂だけで世界を飛び回っているわけじゃないらしい。
「そういえば、龍佑のお父様は何のお仕事をしているの?」
「え?何だろ?」
「…………はい?」
工藤先輩が呆れた表情をしている。確かに自分を養ってくれている親の職業を知らないというのは不自然な話だ。しかし、これに関しては俺も言い訳ができる。
「教えてくれないんですよ、家にいる時に聞いても。世界を守る正義の味方だ、なんてふざけるだけで」
「……個性的な人ね」
「いいですよ、素直に変人って言って」
そんな会話をしながら、俺達は階段を昇って二階に移動していた。
二階は両親の寝室、俺の部屋、そして空き部屋が二つだけのプライベートの空間だ。さして案内の必要もなく、俺は階段を昇ってすぐ左の扉を指差した。
「この部屋、使ってください。ベッドと空のタンスがあるだけですけど、先輩の荷物が届いたら俺も手伝いますんで、好きなように模様替えしてください」
「うん、了解」
「あ、向かいの部屋が俺の部屋なんで分からないことがあったら何でも……」
ここまで言って、今度は右側の部屋を指差した俺は、異変を感じて言葉を止めた。その根源は工藤先輩の表情。それはまるで、獲物を見定めた獅子のような――
「へぇ、龍佑の部屋かー」
「あの、せんぱ――」
「どんな感じなんだろうなー、気になるなー」
「いや、だから――」
「本当に気になるなー。このままじゃ明日の朝、寝不足になっちゃうかも」
「……よかったら、俺の部屋見ます?」
「いいの?それじゃあ遠慮なく」
嬉々としてドアノブをひねる工藤先輩の背中を見て、俺は敗北感に打ちひしがれた。
宮城部長ならいざ知らず、俺程度では工藤先輩の敵にもならないということか。
どこか普段よりもいきいきした様子で俺の部屋に飛び込んだ工藤先輩は、後から入った俺が扉脇の電気のスイッチを入れた途端、おーと歓声を上げた。
「きれいにしてるのね。感心、感心」
先輩の言う通り、この年代の男子にしては、俺の部屋はキッチリ片付いている。家事好きの性か、普段母さんの散らかした家を片付けているからか、どうも一定以上に部屋が汚れると落ち着かなくて仕方ないのだ。家事以外にこれといった趣味がなく、あまり物を持たないのも原因の一つかもしれない。
「何もない部屋でしょ?つまんないでしょうし、戻りましょう」
とはいえ、プライベートを過ごしている空間を人に、ましてや女性に見られるというのも落ち着かない。妙なものを発見されても嫌だし、さっさと退室したかった。しかし、
「龍佑、これは何?」
「なっそれはベッド下の収納の三重底に隠してあったはず……!?」
俺の願い虚しく、ほんの一瞬目を離した隙に、どんな業を使ったのか知らないが、工藤先輩の手には秘蔵のエロ本、もとい保健体育の資料が握られていた。
工藤先輩がパラパラとページを捲る。怒気を孕んだ冷たい眼がひたすら怖い。
「女子高生爆乳大全、か。龍佑って巨乳フェチ?」
「あーいや決してそういうわけでは……」
断っておくが、その本は友人から貰ったものである。俺の趣味嗜好の下に購入したものではない。本当だってば!
「女の価値は胸じゃないのに……」
いじけたように呟いて、工藤先輩は自分の大きくも小さくもない、平均の域を出ない胸を見下ろした。そして、今度はやや思い詰めたような表情で、俺にこう問いかけた。
「巨乳の子じゃないと……ダメ?」
不意打ちだった。雨に濡れた子犬のように切なげな“カワイイ”工藤先輩。本人の目の前で考えないようにと、今の今まで意識の奥に埋もれさせて、普通に接していたが、否が応でもこの魅力的な女性に自分が好かれている事実を思い出させられる顔。
頭が真っ白になっている俺に、工藤先輩は泣きそうな表情で、かつ羞恥に頬をそめながら、とんでもない質問を重ねてくる。
「もし、もしだよ?私がこんな格好しても、その龍佑にとっては……魅力ない……かな?」
そう言って、俺にズイっと突き出してきたのは保健体育の資料(エロ本とは認めません。ええ、認めませんとも)の一ページ、巨乳の少女が扇情的なポーズで、惜しげもなく裸体をさらす写真だった。
こんな格好の工藤先輩。スラリとした四肢や雪のような白い肌を……
ボンッ!
頭が沸騰する音がした。
「な、なにをっ……」
「ねぇ、どうなの?」
そもそもの発端である屋上の時と同じ、不安そうな表情。普段の工藤先輩にはない、なりふり構わないとでもいうような姿勢だった。
端的に言ってしまえば突然、「私の裸見たら興奮する?」と問われている笑い話のような状況だが、工藤先輩の瞳にはそれを笑い話にできないほどの真剣さがあった。
グッと奥歯を噛み締める。
素直に質問に答えるだけだ。自分にそう言い聞かせて、俺はやっと口を開いた。
「そ、そんなの魅力的に決まってますよ。く、工藤先輩はメチャクチャ美人なんですから」
――ホッと息をつく音が聞こえた。
「なら、少しは勝算ありってことだよね」
じんわりと、氷が溶けるように工藤先輩が笑った。
良かった。素直にそう思った。
しかし次の瞬間、工藤先輩が浮かべたイタズラっぽい笑みは、その感情を全て嫌な予感に変換してしまった。
「それにしても龍佑はエッチねー。こーんな本隠してたり、挙げ句、私の裸妄想したり」
「は?いやっ」
「あ、いいよいいよ、私今スッゴく機嫌いいからこの本燃やすだけで許してあげる」
「それは許した時の対応じゃない!」
先の態度はどこへやら。お気に入りの玩具で遊ぶようにいきいきとした工藤先輩と、それに情けなく追いすがる俺。
しかし、コントのように下らなくも明るいやりとりの中で、俺の心は重かった。
釣り合わない。そんな思いがあるから。
自分を好いてくれる工藤先輩の思いが重くて、苦しかった。