[二幕:二つの悩み]
色々、頭から絞り出して作りました。
俺の数少ない特技の中に、家事という男子高校生らしくないものがある。それこそ料理、掃除、洗濯なんでもこいだ。
というのも、それは俺が日常的に家事をせざるを得ない環境にいたのが原因だろう。
俺の母は俺がまだ物心つかない時に病気で――というわけではない。単に、ウチの母、伊藤春香は家事が壊滅的にできないというだけだ。
料理をさせれば、食器洗い機用洗剤を調味料と間違える。掃除をさせれば部屋を廃墟のような有り様にする。洗濯をさせれば、衣類をズタズタのボロボロにする。何においても「え、逆にどんなことしたらこんな失敗ができるの?」という失敗を冒すのだ。しかも、本人は「次はうまくできる」と思っているものだから始末に負えない。そんな中で、俺が何よりも早く家事を覚えたのは最低限度の文化的な生活を送るためにも必要かつ必然なことだったのだ。
さて、そんなわけで俺の作った夕食の時間。メニューは好物のコロッケ。若手のお笑い芸人がグルメスポットを回るテレビ番組を見ながら、俺は母さんと共に表面上はまったりとした時間を過ごしていた。
「いやー、リュウちゃんのご飯はやっぱおいしいよ〜」
語尾を伸ばす子供っぽいしゃべりで母さんが言う。もう少しでアラフォーを迎える年だというのに恥ずかしい口調だが、見た目が異様に若い、というか幼い容姿のウチの母だと妙にしっくりきて違和感のないように感じる。
「お世辞言ってもトマトは食ってやらんぞ。好き嫌いすんな」
「うっ……な、何のことかな〜?」
俺の皿に付け合わせのトマトを移そうとする母さんの箸を弾きながら言うと、母さんは「私、嘘ついてます」と主張するような目の泳ぎっぷりで返した。ガキか、あんたは。
しばらくジトッと睨んでやると、やがて開き直ったように喚き散らしてくる。
「だって、だって!こんな、野菜なんだか果物なんだかよく分かんない、どっちつかずの植物、人間の食べ物じゃないよ〜!」
「黙って食わねえとトマト畑に埋めて肥やしにすんぞ」
「ひーん、今日のリュウちゃん冷たいよぉ〜」
ひーんとか言うな。今年で三十九才。あと、ちゃん付けやめい。
さすがに肥やしは嫌なのか涙目で鼻をつまみながらトマトを口に運ぶ母さんを目端で見ながら俺は小さく嘆息した。いつもならもう少しこのダメ母のダメっぷりに付き合ってやるのだが、今日はとてもそんな気分にはなれない。さっさと部屋に引っ込んで一人になりたかった。原因は言わずもがな、である。
コロッケを口に放り込み、飯をかっこむ。皿と茶碗を空にして俺は立ち上がった。
「ごちそうさま。俺、ちょっと部屋に戻るから、食器は流しに置いといてくれ。あ、くれぐれも気を利かせて洗っとこうとか無茶なことは考えるなよ?」
キッチンが紛争地帯みたいになってしまうからな。
「はーい……ってあれ?」
俺が食器を運ぼうとした時、ふと母さんが首を傾げた。
「どうした?」
「いや、なんかコウちゃんから今朝、電話で結構大事なこと言われてたような……リュウちゃんにも話しておかなきゃならないことなんだけど……」
「父さんから?」
コウちゃんというのは母さんの夫、つまりは俺の父である伊藤浩一の愛称である。母さんに負けず劣らずの変人で、なにをやっているんだか知らないが、世界中を飛び回っている。まぁ、毎月相当額の仕送りも送られてきているし、当分放置プレイで問題ないと思うが。
「えっと〜えっと〜」
こめかみの辺りをぐにぐにマッサージしながら、母さんが必死に記憶を手繰っている。なんで記憶力がゼロの境地を超えてマイナスゾーンに突入しているくせに、メモをとろうとか思わないんだろうか。
やがて、残り少なくなった歯磨き粉をチューブから力ずくで絞り出す時みたいな表情で母さんが口を開いた。
「えっと〜、確かコウちゃんの親友さんが海外に五年くらい出張に行くんだって」
「へぇ、父さんに親友なんていたんだ」
間違いなくかなりの変人なのだろうなと思う。
母さんは頷いた。
「大学生の時、おんなじサークルにいたんだって〜」
「そうなんだ」
そういうのっていいなと思う。何年も続く友情とか。
「ところでサークルって?」
「ん、ナンパ同好会」
前言撤回します。
「私も同好会の活動してたコウちゃんに口説かれちゃって……」
ポッと顔を赤らめる母さん。ってか、俺ってその世界一下らない同好会の産物か!?すごくショックだ……
「もういいや……それより、その人がどうしたって?」
これ以上ショックな新事実が出てきても嫌なので、早々に話を軌道修正する。当時のことでも思い出しているのか、惚けた顔をしていた母さんもその声に反応して口を開いた。
「あ、うん。その人、外国に行くのね、奥さんと一緒に」
「ああ、それで?」
「それでね、その人高校生の娘さんがいてね、日本に残りたいって言ってんだって」
「ふむふむ」
「だからうちで預かることになったよ〜」
「へぇ……えぇぇぇっ!?」
思わず叫んでしまった。今日は声を張り上げてばかりだ。明日辺り喉が痛くなるかも……って、そんなのはどうでもいい!
「なんだよそれ!聞いてないぞ!?」
「そりゃ、今初めて言ったんだも〜ん」
「も〜んじゃねぇ!」
悪意はないのだろうが、間延びした声が果てしなくムカつく。
「この家、母さんだけならともかく俺がいるんだぞ!年頃の男女で何か間違いがあったら――」
「大丈夫、大丈夫。コウちゃんがリュウちゃんに女の子に手を出す度胸はないって言ってたもの〜」
「その信頼のされ方はムカつく!」
マンガだったら間違いなく俺の額には血管が浮かび上がっているだろう。だが、このマイペースさんにはそれが通じていないのか、
「それに、それに、私男の子と女の子一人ずつ欲しかったし、チャンスなの〜。ね、いいでしょ?ちゃんとご飯あげるし、お世話するから〜」
「犬か!?ってか飯作んの俺だろうが!」
瞳をキラキラさせて、まるで子供が親にオモチャをねだるように身を乗り出してくる。どっちが親なのかしっかり認識してほしいところだったが今は置いておこう。いつものことだ。
「そんなこと言ったって問題がありすぎ――」
「でも、もう決まっちゃてるし、今更断ったらその子行く所無くなっちゃうよ〜」
うっと初めての正論に言葉が詰まる。常々、両親を反面教師として成長してきた俺だが、昔父さんに言われた言葉の中に一つだけ胸に刻んでいるものがある。それは、困っている人は力の及ぶ限り助けろというもの。そして、もう一人。工藤先輩にもそう言われた。
「……っあー分かったよ!」
ヤケクソ気味に俺は叫んだ。
悩みの種が一つ増えた。
「どーしたもんかねぇ……」
駅までの人気のない道。星の見えない都会の夜空を見上げて、俺は誰にともなく呟いた。
悩みの内容は工藤先輩のことだ。同居人にかんしては今はどうしようもないので。
あの後、今夜の便で日本を発つ両親を見送った後、そのまま直接こちらに向かうという同居人を駅まで迎えに行くことになったわけだが、一人で歩く夜道は考え事に最適だった。
うーん、と唸る。はっきり言って、驚愕が勝るものの、告白された時は嬉しかった。なんやかんや言っても工藤先輩は魅力的な女性なのだから。彼氏彼女の関係になれたら、きっと楽しいし幸せだろう。ただ、それはいくつかの問題点を孕んでいる。
まず、俺は彼女が好きなのか。
勘違いのないよう言っておくがもちろん、工藤先輩のことは好きだ。ただそれは“憧れの人”への好きであって、恋愛のそれとは明らかに質が違う。所謂、ライクかラブかで言ったら明らかにライクだ。
一方、工藤先輩から俺へのそれは、もう純度百パーセントのラブ。しかも、大きさも半端じゃない。それは自惚れでなく部活中のカミングアウトから見ても明らかだ。
だって「全部好き」ですよ?
プシュー
いかん。思い出したら顔熱くなってきた。頬をパンパン叩いてクールダウン。うん、落ち着いた。頬痛いけど。
とにかく、好きの質の違い。これが一つ目の問題。そしてもう一つ、むしろこちらの方が問題としてのウェイトは大きい。ずばり、
「釣り合わないよなぁ、俺と工藤先輩じゃ」
そういうこと。
片や人望厚く、才色兼備な万能超人。片や高校生のくせに特売好きな悲しいくらい所帯染みた地味男子。両者を天秤にのせたらどう傾くかなど誰の目にも明らかだ。きっと付き合ったところで失望されてしまう。彼女を目標としている俺にとってそれはどうしても避けたい事態だった。
「断るしかないのかねぇ……」
それはそれで、なかなか苦渋の決断だけど。
そんなことを悶々と考えていたらふと、薄暗い路地から明るい場所に出たのを感じた。駅前の繁華街だ。そろそろ待ち合わせ場所が近い。俺は思考を切り替えることにした。同居人にどう挨拶するか考えよう。ファーストコンタクトは重要だ。だが、俺はそこで根本的なミスをしていることに気付いた。
「名前分かんねえや……」
結構大きな事件が立て続けに起きたせいで頭の回転が遅くなっていたのだろうか、母さんから同居人の名前を聞くのを忘れていた。いやまぁ、言わない母さんも母さんだし、下手したら母さんも同居人の名前を忘れている可能性もあるが。
名前が分からないと待ち合わせも不便かと思ったが、この時間は駅の利用者も少ないし、女子高生がいたら目立つからなんとかなるだろう。前向きに考えよう。前向きに。
「っと、この辺だよな……」
駅に着くと、周囲をキョロキョロ見回す。すると、旅行鞄を足元に置いて、改札前の柱にもたれかかっているサマードレス姿の女性が目に入った。読んでいる文庫本が邪魔で顔は見えないが、多分高校生くらいだろう。随分と髪の長い人だった。
「あれかな?」
他にそれらしい人も見当たらないし、間違いないだろう。俺はゆっくりとした足取りで彼女の下に歩いた。
近づくにつれて、女性にしては背の高い人であることが分かった。俺の身長が百七十二センチだが、ほとんど変わらないんじゃないだろうか?充分に声の届く範囲まで歩き、文庫本を熟読している女性に声をかけた。
「あの、伊藤家のものですけど」
「え、あっ、はい!」
余程集中してて俺の接近にすら気付いていなかったのだろう。女性が慌てたように文庫本を閉じる。少し微笑ましいと思った。
だが、次の瞬間そんな感想は一つの感情、驚愕に跡形もなく吹き飛ばされる。原因は女性の顔。別に驚くほどとんでもない不細工だったわけじゃない。むしろ、美人と言えるだろう。
大人びた顔立ちと宝石のような双眸。
放課後から俺を悩ませてならなかった顔が、俺と同じ驚愕の表情でそこにあった。
「工藤先輩……?」
「龍佑……?」
二つの悩みが一つに重なった。