プロローグ:刻んだ足跡、消えたあの人
開いていく視界。
その先に広がっていたのは、雪深く積もった、白い世界だった。
「馬鹿か、お前」
自分の頭上から声が落ちて来る。ある程度の年期が入った、低い男の声。
その声の人物を仰ぎ見ようとするも、自分の二倍近い背丈の天辺にある、その男の顔に到達するまでに首が疲れてしまい、堪らずに少年は視線を通常の位置へと戻した。
「こんな所でもう一度寝てみろ。その時は置いていく」
「はい・・・・・・」
脅しに近い言葉、しかしそれは脅しなどでは無いと、幼いこの少年は分かっている。
この人は、そう言う人だ。
思わず生唾を飲み込み、少年は自分の両頬を、赤い毛糸の手袋をはめた両手で二度、三度と叩く。それを低い声の男は視線の端で一瞥し、そして何も無かったように目の前の光景へと視線を移した。
「・・・・・・それにしても、随分吹雪いてきたな」
「はい」
年齢にふさわしくない、正しい言葉遣いで返事をする少年。彼がちら、と後ろを振り返ると、二人が今まで歩いてきたために出来た幾つもの足跡が、その真っ白な道の上に刻まれている。
それは随分と遠くにまで続いていて、
(わぁ、もうこんなに遠くまで来たんだ)
少年はその事に内心驚き、そして同時に喜ぶかのように、思わず笑ってしまいそうになるその口元を、ばふっ、と手袋をはめた手で覆い隠した。
「ふふ」
「・・・・・・何を笑っている?」
その低い声の男の言葉にはっ、と我に返った少年は、自分の声が表に出てしまっている事にようやく気付く。そして、
(あぁ〜〜・・・、また怒られる)
その先に待っている、低い声の男によって激しく叱咤される自分を思い浮かべ、少年はこの天候だと言うのに思わず冷や汗を掻き始める。が、その後一分経って、二分経って、三分経っても低い声の男からその少年に対して言葉が飛ぶ事は無い。
「・・・・・・」
低い声の男はと言うと、その少年の内情を気に留める事も無く、少年と同じように今まで歩いて来た自分達の足跡が残されている道を振り返り、そして無言で佇んでいた。
「・・・・・・あの」
「そうか・・・・・・。もう、こんなにか・・・・・・」
少年の、男の様子を窺う声には反応を示そうとはせずに、低い声の男はただ、その景色を前に何かに思いを馳せるようにして、じっとその景色を見据えている。
「思い出しますか?」
話題を変え、再び少年が低い声の男へと会話を投げかける。その”何を”思い出すかの内容には触れようとはせず、ただ”思い出すか”と尋ねる。
「・・・・・・ああ、思い出すな」
「そうですか」
それ以上聞こうとはせずに、少年は男と同じように、その後は沈黙を守った。
やがて吹雪はより一層強さを増し始め、いよいよ、聴覚は強い風の音しか捉える事が出来なくなっていった。
「ふ・・・り・・・あ・・・・・・」
吹雪の中、微かに聞こえる低い男の声。ただ、その殆どが強い風の音によって掻き消されて、正確にその内容を聞き取る事が出来ない。
「なんですか?」
少年が、自分に向けて吹雪く雪から顔を守るように、顔の前に腕を交差させながら、低い声の男へと尋ねる。
「お・・・は・・・・・・俺が・・・・・・」
「先生?」
不意に嫌な予感を感じ取った少年が、再度、低い声の男に尋ねる。が、視線を巡らせた先にはいつの間にか誰も居なくなっており、ただ自分の周囲を吹雪だけが通り過ぎていた。
「先生? 先生ーっ?」
その事に突然孤独感を抱き始め、必死に少年は低い声の男の行方を確認する声を上げ続ける。
しかし、その吹雪だけが支配する空間の中で、少年の声はただ飲み込まれるようにして消えていった。
「先生っ」
居ても立っても居られなくなり、堪らず吹雪の中を駆け出す少年。
しかしそのすぐ後に、深い雪に足を取られ、その場で顔から倒れ込んでしまう。
「・・・・・・ぐっ、先生っ」
雪塗れになってしまった顔を気にするでも無く、必死に低い声の男からの返事がある事を願いながら、少年は走り続けた。「先生、先生」と、突然自分の前から姿を消してしまった、かつての人の事を呼び続けながら。
「先生ーーーっ!!」
群れからはぐれた一頭の子犬のように、少年は叫んだ。
それでも、彼が求めていた男が現れる事は、その後無かったのである。
少年とその先生の話。
と言う訳で、ここから「終わりの無い冬」のストーリーが始まります。
何卒未熟者の書く小説ですが、皆様に少しでも楽しんで読んで頂ければ嬉しい限りです。