スターウォーズを見た感想
スターウォーズを見た感想。
なんかつながりを感じた。このつながりとは何なのかはわからないが、見ている時に、映画を観ている人たちと一つになったかのような、そういう体験ができた気がする。
おそらくこれが、「フォースを感じる」ということの意味だろう。なぜなら、私はスターウォーズに詳しいわけではないが、それだからこそ感じた「フォース」にこそ、意味があると思うからだ。
「フォース」には様々な意味があると思う。愛だったり友情だったり幸せだったり。いや、もっと広い意味で捉えられる。それは、精神であったり神であったり理性であったりするところの何かである。
つまり、私は精神や神を感じたということか。それはまるで、宗教的な神秘体験である。そして、スターウォーズの真髄とは、この宗教的な体験にこそあるのではないだろうか。
さて、宗教的な体験とはいかなる体験なのだろう。それは、共同体の中に自分が包み込まれているイメージ体験である。これを共同体感覚と呼ぼう。
厳密には、包み込まれているイメージが共同体意識であるのに対して、その意識の被る受動性が共同体感覚である。だから、一体感とは能動的にも受動的にも起きうる感覚であると言えるだろう。
では、この一体感とはいかなる感覚なのか。それは、俺たちは1人じゃないと強く思える感覚である。そして、これが日本的に言われる絆にあたり、アメリカ的に言われる神である。
したがって、フォースとは根源的である。なぜなら、偉大なものを感じさせられるからだ。そして、この偉大なものこそ、最後のシーンで「君は誰だい?」に対する答えである??
ちょっと待ったと言いたい。というのも、ここでそれを「答え」と言ってしまうと、論理的には「レイ・スカイウォーカーが偉大」ということになってしまうからだ。だが、レイ・スカイウォーカーは1人の人間でなければならない。
だが、そのことは誤解である。というのも、レイ・スカイウォーカーは、身体的にはその血の繋がりから言って、「レイ・パルティーン」でもあるからである。だから、「誰だい」に対する答えは、「レイ自身」ではないのだ。そして、ここに本当のメッセージが含まれている。それは、身体に抗う精神性であり、精神に抗う身体性である。つまり、レイはスカイウォーカーでもあり、パルティーンでもあるのだ。具体的には、身体はパルティーンだが心はスカイウォーカーであるという両義性である。しかし、この両義性を包み込む存在こそフォースである。だからこそ、「誰だい?」に対して、レイは「スカイウォーカー」を名乗れたのである。そして、偉大なのは「スカイウォーカーの精神」に他ならない。