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お見舞いは通過儀礼です

 幸い帰宅後すぐに風呂を沸かし温かい湯に浸かったため、由良は風邪を引くこともなく土日はバイトに明け暮れた。


 そして迎えた月曜日の夜、由良はバイトが休みのため、学校から帰宅するなり夕食を作っていた。


 今日は春巻きだ。豚ひき肉と春雨と人参、それからたけのこ、干しシイタケにニラを具にして包んだ春巻きはどれもこんがり黄金色に揚がって食指が動く。


 油から引き上げるため菜箸で掴んだ場所から、カリッと気持ちのいい音がする。それからたまごスープとサラダを用意し、あとはご飯が炊けるのを待つばかりだった。


 ダイニングのテーブルにお茶碗を用意した由良は、傷んだ柱にかかった時計を仰ぎ見た。


 時刻は九時過ぎ。もうすぐ、バイトを終えた景が帰宅するはずだ。


 景は祖父母の遺産で学校に通っているが、それに甘えることなく自分でもお金を稼いでいる。バイトに勤しみながら成績も恭弥に次ぐ学年二位をキープしているのだから大したものだと、由良は誇らしく思った。


(きっとバイトする必要がなかったら、キョウなんて抜いて学年トップの成績に違いない……!)


 それが少し由良としては悔しいのだが、口にすれば景は困った顔をするに違いないので黙っている。由良がエプロンを外し椅子にかけたところで、玄関の引き戸がガラリと開く音がした。


「景! おかえり!」


「おー、由良。ただいまー」


 慌ただしくフローリングを蹴って玄関に向かうと、由良に背を向ける形で座りこみ靴を脱いでいた景が振り返った。そのまま、二重瞼を細めて柔らかく景が笑う。


 これが、由良が日本にきてから一番幸せを感じる瞬間だった。由良を自分の娘だと忘れてしまった母と過ごしたイギリス時代には絶対に味わえなかった光景だからだ。


『おかえり』と言えば『ただいま』と返ってくる。しかも、景はとびきりの優しい笑顔をくれる。そんな世間的にはありふれた日常の一場面が、由良にとっては写真立てに飾っていつまでも眺めていたいくらいに大好きな光景だった。


「どした? ニヤニヤして楽しそうだな、お姫様」


「イギリスにいた頃は、ポストに入った景からの手紙を見つけた瞬間が一番好きだったんです。でも、やっぱりこうやって触れあえる方がいいですね」


 カッターシャツの上から薄手のパーカーを羽織っている景の首元に、後ろから抱きつく。景は家族だ。仕送りだけ寄こして父親面する名ばかりの父よりも、母を苛めぬいて母国へ追いやった祖母よりもずっと温かいし由良のことを案じ、兄妹のように接してくれる。


 景の広い背中へコアラのようにくっついた由良の方へ、景も体重を預けてきた。


「う、景。重いです」


「だってキッチンから美味そうな匂いがするのに、甘えん坊のお嬢さんが中々動いてくれないからさ」


 バイト帰りで背と腹がくっつきそうなのだろう。痺れを切らした景は、自らの首に回った由良の腕に手を添え、そのまま「よっ」という掛け声とともに立ち上がった。


「わっ」


 景の首にぶらさがり、おんぶされたような状態になった由良は小さく悲鳴を上げる。それに景は笑い、そのままキッチンへ向かった。


「あ、そうだ。なあ由良、風邪引いてる時って、何が身体にいいんだろうなー?」


「風邪ですか? 症状にもよりますけど……食べ物ならそうですねぇ……って、景、風邪引いたんですか?」


 景に甘えたままぶらさがっていた由良は、いそいでその背中から降り、景の前に回った。それから景の短い前髪をかきあげ、背伸びして景の額と自分の額を突き合わせて熱をはかる。


「大丈夫!? 大変です……横にならないと……。熱はないけど、でも……」


 風邪は怖い。由良の母も最初は風邪と診断されながら、みるみるうちにやせ細っていった。骨に薄皮が貼りついたような母の手首を思い出した由良は、景もそうなってしまったらどうしようと不安に駆られた。


「とりあえず寝てください」


「いや、オレじゃないんだけど……」


 狼狽し、景を寝室に押しこもうとする由良に苦笑しつつ景が言った。


「キョウが昨日から寝込んでるみたいでさ、熱が高いみたいだからどうしたら下がるかなって思って。あいつ一人暮らしだから、看病してくれる人もいないだろうし、困ったなあ」


「え……キョウ、風邪引いてるんですか?」


 そういえばいつもは耳にタコが出来るほど女生徒が行く先々で本日の恭弥の目撃情報について熱く語っているのを耳にするのに、今日はそれがなかったな、と由良は思い出す。


 とうとうあの非の打ちどころがない色男がモテなくなったかと由良は鼻歌まじりで一日を過ごしていたのだが、学校を休んでいただけだったらしい。


「ビックリだろ?」


 景に話を振られて、由良は相槌を打つ。恭弥は体格もいいし、鍛えているため風邪など跳ね返しそうに見えるからだ。しかし次に景から発せられた言葉によって、由良は一気に青ざめた。


「噂じゃ雨の中傘をささずに誰か追いかけていたって話だし、そのせいじゃないかと思ってんだけど……」


「はあ、バカですね……って……」


(雨の中、傘をささずにいた? それってもしかして……)


 由良は頑なに相合傘を拒否し逃げだした自分の所業を思い出した。途端に全身の血の気が引いていく。

薔薇色の唇をしていた目の前の血色の良い少女がみるみる青くなっていく様子を見て、景は何事かと目をむいた。


「由良? どした?」


 心配そうに顔を覗きこんでくる景へ、由良は血の気を失った顔で言った。


「キョウが風邪を引いたのは……私のせいかもしれません……」


(というか、明らかに私のせいだ……!)


「景、どうしよう。キョウが寝込んでいるのは確実に私のせいです……!」


「ええっ!? そうなのか!?」


 うろたえた様子の由良に縋られ、景は一体何があったのかと話を聞きだす。由良は先日の雨の出来事を全て景に白状した。


「――――……それで、最後は送ってもらって……家に寄って着替えていくように言ったんですけど……キョウは断って濡れたまま帰ってしまったんです……」


 尻すぼまりになっていきながら、由良は言い終えた。


 蒼い宝石のようだと周囲に褒めそやされる瞳を揺らし、おそるおそる景を見上げる。自分のせいで恭弥が風邪を引いたのに、この期に及んで景に怒られるかもしれないと怯えている自分は浅ましい。


 しかし由良にとって景は唯一の心のよりどころなので、景に嫌われるのだけは避けたかった。


 断罪の時を待つ罪人のような気持ちで景の反応を見守っていると、景は腕を組み、「そうかぁ」と呟いた。


「そりゃあ風邪引くわな」


「う……。だから、私なんて放っておいて自分だけで帰れば良かったのに……」


 勝手に「待っていろ」なんて告げて、勝手に傘に入れようとして。お節介だ。いい迷惑だ。しかし……。


「由良は? 風邪引かなかったのか?」


「はい……。キョウに傘に入れてもらえたし、濡れた服はすぐに着替えたので……」


 もし恭弥を待たず傘もないまま一人で帰っていたら、全身濡れそぼって今頃高熱を出していたかもしれない。


「じゃあ、キョウのお節介で助かったわけだな。よかった、由良が元気で」


「景……」


 ニッコリと景に笑いかけられ、由良はたまらず景の胸元へと飛びこんだ。


「はい。キョウのお陰で助かりました」


「うんうん、良かった。キョウに感謝だな。じゃあ由良は、キョウに感謝しているな?」


「そうですね。あの男もたまには役に立ちます」


「そうだろう。じゃあ、キョウの看病に行こうな。由良」


「……へ?」


 やんわりと柔らかい口調で、しかし有無を言わせぬ意思を込めて発せられた言葉に、由良は理解が追いつかなくて一瞬固まった。しかし、景は爽やかな好青年らしく非常にいい笑顔で言った。


「だってキョウは由良のせいで風邪を引いたんだ。そして由良はキョウに感謝してるんだろ? じゃあ、責任取ってキョウの看病をするように! いいな?」


「え……っ。え……っ。ま、待ってください景! 私……」


「キョウって一人暮らしらしいんだよ。一人で寝込んでるなんて心配だろ?」


「それは……そうですが……」


 歯切れの悪い由良の両肩へ景は大きな手を添え、地球存続の命運をかけた任務を託すように力強く言った。


「だから頼んだぞ。由良! あいつの家までの地図は書いて渡すから!」


「えええ……! 景は? 景は行かないんですか? 景と一緒なら、百歩譲って行ってあげてもいいです!」


「おおう……その美貌のせいでナチュラルに上から目線に育ってしまったな由良……」


 お伽噺から抜け出てきた姫君のような見目の由良に、しかし景は厳しく言った。


「でも却下! オレ明日もバイトだから! もし明日キョウが復活してなかったら、ちゃんと見舞いに行くように」


「うえええ」


「じゃないとオレ、怒っちゃうかもなぁ」


「え、それは嫌です分かりました行きます」


 散々渋っていた由良だが、景に怒られるかもしれないと分かるなり矢継ぎ早に了承した。気は向かなかったが、でももし、と由良は思う。


 恭弥がもし、由良の母のように弱ってしまったら……。


(そんなの、寝覚めが悪いですからね……)


 そう自らを無理やり納得させ、由良は少し冷えてしまった食卓についた。

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