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可愛いなんて言葉でたらしこまれたりしません

 委員会の仕事を終えた由良はそのまま帰路について夕飯の支度をする。


 イギリスでは洋食ばかり作っていたが、元より要領も良ければ覚えも早いので、景に日本料理を教わり今では彼よりもずっと頬の落ちそうな和食が用意出来るようになった。


 今日のメインは肉じゃがだ。それからほうれん草のおひたしと酢の物に、お豆腐とわかめのお味噌汁。最後につやつやとしたご飯をよそい、景を待つ。


 家の古びた柱時計が九時をさしたところで、滑りの悪い引き戸がガタリと音を立てた。


「ただいまー由良。遅くなってごめんな……おわっ? どした?」


 景が玄関へ入ってくるなり、由良はその腰にタックルをかます勢いで抱きついた。バイト帰りの景は柔軟剤と、バイト先の食べ物の匂いがする。景の胸元に鼻を押しつけ、由良はくぐもった声で言った。


「……キョウが気に入りません」


「何だ? キョウに会ったのか?」


「委員会の仕事をしていたら図書室に来ました。洋書を探していて、さらっと英語が読めて頭が良いアピールしてくるし、可愛いとか言うし、嫌な奴です」


「あのクールな男が頭が良いアピールしたとは思えないけど……『可愛い』って言われたなら良かったじゃないか」


 由良の頭を撫でて気楽そうに言う景へ、由良は顔を上げて抗議した。


「よくありません! あの男のことだから、きっと色んな女性にそう言っているに違いないです。すけこましです!」


「おお……本ですけこましって単語覚えたのか?」


聞き慣れない単語に、景は苦笑いを零す。由良は唇を尖らせて訴えた。


「可愛いって言われるのは、景にだけで十分です」


「ははっ。そう言ってもらえるのは嬉しいけどなあ、オレは皆に由良が可愛いって思ってもらえるのが嬉しいぜ?」


「私は……」


 屈託なく言われ、由良は口ごもった。景は猫のような目を優しく細め、静かに言葉の続きを待ってくれた。


「景と……それから……」


「うん?」


「ママに、言ってもらえたら……一番嬉しかった……」


 誰もが振り返る、日本では珍しいプラチナブロンドの髪と、アクアマリンを嵌めこんだような瞳。そして人形のような己の顔は、万人が羨む容姿であるらしいことを、由良も理解はしている。しかし……。


「由良……」


「亡くなるその瞬間まで、ママの瞳に映れなかった……。私は本当に可愛いですか?」


「ああ。由良は世界一可愛いよ」


 まるで安心させるための呪文のようだ。恭弥への不満をぶちまけていたはずなのに、いつの間にか主題が変わってしまった。が、図書室で恭弥に会ってから悶々としていたのはこのせいかもしれない。


 嫌味ではなく、可愛いとは言われ慣れている。この容姿で得をしたことも多い。だから、他の誰かに「可愛い」と言われても社交辞令だとすんなり受け取れる。


 しかし、そう言ったことを言いそうにない恭弥に言われたのが、由良を過敏にさせた。


(可愛い、か。自分が言ってほしかったのは……)


「由良? 大丈夫か?」


 思考の海へ身を投げ出そうとしていたのを、景の声によって引き上げられる。由良は「はい」と慌てて返事をした。


「そうか? 無理はするなよ?」


「うん……」


 由良は優しい音色をした景の言葉に耳を傾け、甘えるように目を閉じた。







 夢を見た。イギリス時代の夢だった。


 真っ白に塗られた壁が目に痛い部屋で、由良の母はベッドに腰掛け窓の外を眺めていた。その手にフェルトで作られた男の子の人形を持って。


 近道だからと畦道を通り、服に葉っぱをつけた幼い由良は帰宅するなりテストを片手に母の部屋へ飛びこむ。


『ママ、見て! 今日もテストで百点をとったんだよ! ねえ、ママ……』


 由良はベッドへ駆けより、満点のテストを広げて見せる。澄んだ海のように美しい色をした瞳を一つ瞬き、母は由良を見つめ返した。初恋を知ったばかりの少女のように初々しい視線だった。


『貴女はだあれ?』


 首を傾げたことで、片側に流した金糸の髪がさらりと揺れる。由良と同じ髪の色だ。それが二人が親子だと如実に伝えているのに、母の瞳は真実を捉えていなかった。


『私は……』


『ねえ、司さん。彼女は誰かしら。少し司さんに似ているわ』


 母は由良の父である司そっくりなフェルトの人形へ、甘く囁いた。由良は不安に駆られ、強引に母の腕を掴んだ。こっちを見てくれと。


『私はママの子供だよ……ねえ、ママ、こっちを見て……? ママのことを捨てたパパじゃなくて、私を……』


『私は捨てられてなんかいないわ!』


 母は金切り声を上げて由良の手を振り払った。


『嫌な子ね! いやだわ……司さん、この子、嫌だわ。酷いことを言うの。この部屋から追い出して……』


 そう言って、母はフェルトの人形を固く握りしめ泣き出してしまう。子供のようにしゃくり上げる母に由良は取り縋った。


『ママ、ごめんなさい。嫌なんて言わないで』


『私はママじゃないわ。貴女のママじゃない。私は司さんと付き合っているの。子供はいないのよ』


『ママ……』


 由緒正しい家柄だった父方の祖母に外国人の妻は息子にふさわしくないと苛めぬかれた由良の母は、母国であるイギリスへと追いやられ精神を病んでしまった。


 母国に戻り幼い頃に慣れ親しんだ風景に染まれば母の心も癒されるだろうと期待したがそれは甘かったのだろう。イギリスに渡ってすぐ、由良は母の異変に気付いた。


 結婚後、祖母からのいじめに無関心な夫の態度や、日本での辛い思い出を掘り返される原因となりうる由良を忘れてしまいたかったのだろう。母はその心に従い、結婚前の幸せな記憶だけを留めて由良のことを忘れてしまった。


 父と付き合っていた頃の淡く優しい記憶の世界で生きることに決めてしまったのだ。


 母以外に知り合いのいなかったイギリスで、由良は絶望と孤独を味わうことになった。


『お加減はいかがですか?』


 変わり映えのしない毎日。いくつ季節を跨いでも、小さな子供がクマのぬいぐるみを抱きしめるようにフェルトの人形を抱えて窓の外を眺めている母。


 心が壊れてしまった母へ、性懲りもなく語りかける自分。


『貴女はだあれ?』


『私は……貴女のことを、とても大切に思っている者ですよ……』


 血がつながっているのに、こんなにも遠い。実の娘を他人と思いこむ母に合わせ、由良は普段から敬語を使うことにした。


 それでも心の何処かで期待している自分もいた。勉強でもスポーツでも何でもいい。器用にこなして成果をおさめれば、母は自分を娘として認めてくれるのではないかと。


 しかし、母は結局由良を娘と認識することなく、しまいには身体を壊し他界してしまった。


『可愛い子ね』


 そう言って頬を撫でてくれることは、終ぞないまま。







 頬を伝う雫の感触に、由良は覚醒を促され薄い瞼を押し上げた。布団から起き上がれば、カーテンの隙間はまだ薄暗く日の出の時間には早い。


「ママ……」


 細い指で、頬に流れた涙を拭う。イギリス時代の出来事を夢に見るなんて、随分とセンチメンタルになっているな、と由良は自嘲を刻んだ。


「辛いことばっかりじゃ、なかったはずなんだけどな……」


 苦しい日々ではあったが、景から届くエアメールが心の支えとなり、由良は強く生きてこられた。誰も知らないイギリスにいても、手紙の中の景だけは由良を想ってくれている。そう言い聞かせてきたのだ。


 だから心の支えとなった景を慕っており、同時に、景が有能だと認める恭弥を認めたくなかった。


「あんな仏頂面の男より、景の方が爽やかで男前です……」


 狭い和室の中、由良の不満げな声が溶けていった。


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