拘束プレイは望みません
耳を打つ激しい雨音に覚醒を促された由良は、長いまつ毛を何度かしばたき薄目を開けた。
真っ先に飛びこんできたのは、ところどころにシミの出来た天井だった。蛍光灯の灯りに慣れず、顔をそむける。その際にギシッと音が鳴り、由良は背の固い長椅子に仰向けに寝かされていることに気付いた。
「……っ」
さらに驚いたのは、手の自由がきかないことだった。首を捻って上を見ると、罪人のように頭上で一纏めに縛られている。手ぬぐいで固く縛られているせいで腕は痺れ、指先は感覚がなくなっていた。
(何これ……どういうこと……!?)
一気に混乱が由良を襲う。性質の悪いことに、縛られているだけなら腹筋の力で起きられるものの、由良を拘束している手ぬぐいには更にもう一本の手ぬぐいが輪をかけて通され、椅子の足に括りつけられていた。これでは無理に起き上がろうとすれば、椅子ごと倒れるはめになる。
(この手ぬぐい……剣道用の……?)
普通の手ぬぐいよりも一回り大きい気がする。室内は雨特融のカビ臭さとは別に、汗のこもった匂いがした。
由良が首を巡らせてみれば、両脇の壁には灰色のロッカーがずらりと並び、隅には竹刀が立てかけてある。どうやら剣道部の部室のようだ。由良は部屋の隅にある窓際の四角いベンチに寝かされているようだった。
(……一体、何が……)
平静を取り戻すため、由良は大きく息を吸いこんで胸を上下させた。意識を失う前のことを思いだそうと、懸命に記憶の綱を手繰りよせる。たしか、自分は外足場で恭弥のことを待っていたはずだ。
そうだ、そこでたしか佐山に会い、彼がスクールバックからスタンガンを取りだして――――……。
「……っ」
記憶が蘇った途端、気絶する前に押し当てられたスタンガンの痺れに再び襲われたような衝撃が走った。そうだ。自分は佐山に襲われたのだ。
ならば、由良を部室まで連れてきて、ベンチに縛りつけたのは――――……。
「よかった、すぐに目覚めて」
窓を洗う外の嵐とは対照的な穏やかな声がかかり、由良の喉が引きつった。
朗らかなのに、神経を逆なでするような不気味さを孕んだ声は、気絶する前に聞いたものと一緒だ。
由良が頭だけを持ちあげて入口の方を見ると、後ろ手にドアの鍵を閉めた佐山が立っており、稲光によって灰色に照らされていた。
「……佐山さん……」
「うん、そうだよ」
由良の小さな唇に名前を紡がれたのが嬉しいのか、佐山はそばかすの散った頬をほんのり染めてこちらへ近付いてきた。由良は反射的に距離をとろうとするが、椅子に縛りつけられているため、身じろぎしか出来ない。それでも由良の意図は正しく伝わったらしく、佐山は不思議そうに小さな目を丸めた。
「どうして逃げようとするの?」
「――――……質問したいのはこちらですね。どうして私をスタンガンで襲ったのか、どうして私は剣道部の部室に閉じこめられ、拘束された状態でベンチに寝かされているのか」
肝が据わっている由良は、話しながら冷静に状況を把握していた。しかし、状況を正確に掴めているからといって、眼前までやってきた佐山の薄気味の悪さに平気なわけではなかった。
佐山は由良が寝かされているベンチに浅く腰掛けると、上体だけ倒し、覆いかぶさった。一重まぶたの下に潜む暗い瞳は、恍惚の色を含んでいる。
「ああ……さすが僕の由良だね。凛々しくて、賢い」
由良の望んだ返事は得られず、それどころか突然下の名前で呼んできた佐山に、ぞくりと鳥肌が立つ。大人しそうだが、いきなりスタンガンで気絶させてきた男だ。隙を見せないようにしようと、由良は警戒を強めた。
「そんなに睨まないでくれよ……気絶させたのは謝るから。痛かったよね、ごめんね?」
貧弱そうな手に、制服のカーディガンの上から腰のあたりをするりと撫でられる。その手つきがいやらしくて、由良は吐き気を催した。
「でも……由良が悪いんだよ。僕を振ったりするから……あまつさえ……」
由良の腰を撫でる男の手は止まらず、徐々に下へ下へと下がっていく。やがて蛍光灯にさらされた白い太ももに達した時、佐山は由良の柔い肌に爪を立てた。
「僕を知らないなんて言うから……!!」
「い……っ」
由良が呻く。
佐山の親指の伸びた爪が、由良の内腿に刺さり薄い皮膚を突き破った。滲み出てくる血を見下ろす佐山の目が血走っている。
(やばい人に目をつけられたかもしれない……)
今更ながら由良はそう思った。
「私が貴方を振ったから、腹を立ててこんなことをしてるんですか?」
由良は辛抱強く、もう一度訊いた。佐山はここに来てからずっと不気味な笑みを浮かべていたが、不意に表情をすべて削ぎ落した。
「……そう。そうだよ、これは由良へのお仕置きだ。僕がこんなにも君を好いているのに、君が僕を……知らない、なんて……」
由良を覗きこむ佐山の瞳が、急速に濁っていく。佐山は数日前の告白を思い出したのか、突然興奮しだした。
「……知らないってなんだよ!」
バンッ!! と激しい音を立て、由良の顔に当たるギリギリの場所を殴りつける。憤激した佐山に、由良は胃の腑が凍る気がした。
「知らないってなんだよ! 僕は君のことをよく知ってるのに! どうして君は僕のことを知らないんだ!」
「あの……」
「ねえ由良、本当のことを言って。本当は僕のことを知ってるんだろう? 僕のことが好きなんだろう? 好きな人がいるって、僕のことだろう!?」
口角泡を撒き散らしながら、佐山の手が由良の冷えた頬を撫でる。そのまま由良の尖った顎を、骨が軋むほど強く掴んだ。
「い……っ。やめ、やめてください! 離して!」
由良は頭を振り、佐山の手を拒んだ。しかし今度は、カッターシャツの襟を掴んで引っ張られる。頭上で拘束された腕が攣り、くん、と胸が反った。
本格的にやばい。どろりとした妄執にかられた佐山はキレている。由良が振ったことに腹を立てて部室に監禁するような男だ。何をしでかすか分からない。
佐山の腕は細いため力でなら負ける気はしないが、しかし相手はスタンガンを持っているし、手を拘束されていては圧倒的に分が悪い。
しかも、たったいま叫んだと言うのに、誰かがくる気配もない。窓の外はまだ日が沈みきっていないが、この台風だ。もう皆帰宅したあとなのかもしれない。
まして運動部は由良が外足場で恭弥を待っている間に、早々に部活を切り上げていた。となれば、部室棟に人が残っている可能性は皆無だ。そもそも口を塞がれていないのは、由良が助けを呼んでも誰もこないと佐山が踏んだからではないか。
携帯で助けを呼ぼうにも、由良のカバンは入口近くに投げるように置かれていた。完全に万事休すだ。
「なに余所見してるの」
由良が違う方を見ていたのが気に食わなかったのか、佐山は無理やり目を合わせてきた。
「ねえ……たしかに入学式では僕の一目ぼれだった。君の視界に僕は入ってなかった。でも、初めて僕が勇気を出して本を借りに行った時、君は笑顔で対応してくれたじゃないか……!」
「え……」
そういえば、よくよく見るとこの男は由良が図書委員の当番になって恭弥と鉢合わせした時、彼と入れ違いに本の返却手続きをしにきた大人しそうな生徒だった。
事務的な会話しかした覚えがないし、そのあとも入れ替わり立ち替わり来客があったので記憶の隅に追いやられていたが、本人にとってはそうではなかったらしい。
「あの笑顔は、僕を好ましく思ってくれていたから見せてくれたんだろう……!?」
佐山は由良が笑顔で対応したイコール、由良も自分に好意を持っていると勘違いしたようだ。由良は閉口した。
(……そんな……あの時はろくな会話すらしてないし思わせぶりな態度なんて一つもとっていないのに……)
「それだけじゃない!」
佐山は自信満々に訴えた。
「君は僕の部活を見にきてくれたじゃないか! あれで僕と由良の距離が近くなったと信じていたのに……!」
「わ、私、貴方の部活なんて、見に行ってません……!」
自分が見学したことがあるのは、恭弥の剣道部だけだ。まさか……。
閉じこめられたこの場所と、隅に置かれた竹刀、そして自分を拘束する剣道用の手ぬぐい。それが由良を正解に導いた。
「貴方、まさか剣道部……?」
由良が恭弥の部活姿を見学に行った時、佐山もあの場にいたのか。そういえば、顔の隠れた面越しにやけにねっとりとした視線を送ってくる者がいた。まさかそれが、眼前のこの男だというのだろうか。
しかし、由良は佐山に向かって声援の一つも送っていないし、彼を見に来たなんて口にしてもいない。だって、その時の自分は佐山の存在を認識すらしていないのだから。すべて佐山の一方通行な妄想だ。
しかし佐山はそう思っていないらしい。由良が心当たりのある素振りを見せたことに小躍りでもしそうな勢いで喜んだ。
「やっぱり覚えていてくれたんだね? それでも許せないな。部活が終わってから、帰り際に『さようなら』と挨拶した時も、君は笑顔で『さようなら』と返してくれた。だから僕たちは口に出さなくても両想いだし、心では結ばれていると思っていたのに!」
記憶の蓋を開ければ、どれも心当たりはある……が、それだけで両想いなんて、性急すぎはしないか。挨拶なんてされれば誰にでも毎日返していたし、名前も知らなかった相手を認識しているはずがない。それなのに、この男は勝手に由良と懇意な仲だと思いこんだというのか。自意識過剰、妄想癖にもほどがある。
あまりのことに、由良は言葉を失った。対照的に佐山の話は止まらない。だんだん声に熱がこもり、ヒートアップしている。
「君のバイトしているお店にだって行ったんだよ? 君は他の客にも愛想を振りまいていたから面白くなかったけど、僕に見せる笑顔は一番可愛かった。それは僕を特別扱いしてくれていたからだろう!?」
「そんな……そんなの、偶然じゃ……」
バイト先に来店したお客に対して特別扱いをしたことなど、誓って一度もない。由良は佐山の曇ったレンズが何を捉えているのか怖くなった。由良の否定に腹を立てた佐山は癇癪を起こした。
「でも、食堂で君から僕の近くに座ったことだってあった!」
そういえば、一度恭弥を避けるために大人しそうな男子グループへ相席を頼んだ気がする。しかし、別に彼一人がテーブルに座っていたわけではないのに。
すべてが、彼の都合のいい想像によって成り立っている。絶句する由良へ、佐山は何か思いいたった様子で言った。
「ああ、もしかして、図書室で柊先輩に言い寄られているのに助けなかったから怒ってるのかい? ごめんよ……。あの人が僕らの恋路を邪魔していることには気付いていたんだけど……障害がある方が君も燃えるかと思って……」
図書室での由良と恭弥の話を盗み聞きしていたのだろう。由良は佐山の話を聞いているのが耐えがたくなり、とうとう叫んだ。
「……っすべて貴方の勘違いです! 貴方を覚えていなかったことは謝りますから、離してください……! 今なら誰にも言いませんから――――……」
スタンガンで気絶させられたことも、この場から解放してくれるなら目を瞑ってやる。とにかくこれ以上佐山の妄想に付き合うのは気分が悪い。由良が自分と両想いだと疑わない彼との話は平行線を辿る一方だし、正気を失いそうになって怖いのだ。
しかし、佐山は頷かなかった。狂った瞳は、組み敷いた由良をただで解放する気など砂の一粒ほどもないらしい。佐山は不気味なほどうっそりと笑った。
「だめだよ。結ばれるまで離さない」




