愛しい人は他にいます
自分の身勝手で、なんて彼を傷つけてしまっていたのだろうか。自分が恭弥を好きなように、恭弥も自分を好いてくれていたなら、好いた相手に避けられた恭弥はどんな気持ちだったのか。何故思い至らなかったのだろう。
無表情で何を考えているか分からないことが多い恭弥だが、それでもきっと彼の感受性は豊かだ。だから由良の器用さに潜む孤独も見抜いてくれたし、本音も掬ってくれた。そんな彼の心を、自分は鋭いナイフで切りつけていた。自らの保身のために。
追いかけたいのに、足が動かない。埃っぽい床に縫い止められてしまったみたいだ。激しい後悔が喉元までせり上がって吐きそうだ。恭弥を引きとめる言葉がもつれて出てこず、由良はその場で石のように突っ立っていた。
やがて、外側から図書室のドアが開く。一瞬恭弥が引き返してきたのかもしれないという淡い期待が由良の心をノックした。しかし、ドアから姿を現したのは恭弥ではなく、大人しそうな男子生徒だった。
失望が胸の内を覆い尽くす。期待した甘ったれの自分に嫌気がさした。
「あの」
ぼそりとした聞きとりづらい声で由良は話しかけられる。上履きを見るに同級生らしい男子生徒は、銀のフレームの眼鏡を押し上げると、妙に緊張した面持ちで拳を握った。痩せているせいで目立つ喉仏が、由良と目があったことでゴクリと上下している。
「ああ……えっと、返却ですか?」
今は委員の仕事中だった。与えられた仕事はちゃんとこなさなければいけないと、由良はカウンターの向こうに戻り、手続きを取ろうとした。
しかし、その腕を男子生徒に掴まれる。
「……何か?」
「あ、あの、僕……」
はくはく、と金魚のように口を開くものの、彼の口からは泡も言葉も出てこない。由良が不審そうな目を向けると、男子生徒は意を決したように叫んだ。
「僕と付き合って下さい!」と。
「は……」
たまたま図書室に他の誰もいなくてよかったと由良は思った。そうでなければ、室内にいた皆に聞かれたに違いない。裏返った声で告白した男子生徒は、眼鏡のブリッジを落ち着きなく中指で押し上げる。
由良は気弱そうな生徒を、あんぐりと口を開けて見上げた。見上げると言っても、長身の恭弥とは違い、告白してきた男子は由良と十センチも差がないように見えた。そばかすの散った頬をサアッと赤く染める彼を見ながら、由良は特に見覚えのない人だな、と思った。
「ええ、と貴方は……」
「佐山」
「佐山さん……」
ぼそっと囁かれて、初めて名前を知ったくらいだ。それなのに突然告白してきた佐山に、由良は少しばかりの困惑を抱いていた。
(どうしよう……キョウを追いたいけど、勇気を振り絞って告白してきてくれた人を置いてはいけないし)
実は異性から告白されるのは、入学してから初めてのことではない。というか、むしろ毎週の恒例行事になりつつあるほど告白はされている。しかし、由良に余裕がない状態で告白されたのは初めてだった。
(でも、せっかく勇気を出して告白してくれたんだろうし、私もちゃんとお断りしなくては)
「……手を離していただいても?」
とりあえず加減せずに掴まれたせいで痺れてきた手首に視線を落として頼めば、佐山は電流でも走ったかのように手を離した。
「あ、あ、ごめん!」
「いえ。それから、すみません」
由良は勢いよく頭を下げた。
「お気持ちは嬉しいんですが……私、貴方について全然知らないので……」
「え……。知ら、ない……?」
気をくじかれたような様子の佐山に、由良は頷いた。佐山は由良の名前を知り好意を抱いてくれていたようだが、由良の通う高校はクラスが多い。クラスも違えばろくに話したこともなく、目立つタイプではない佐山のことを知れというのは無茶があった。
「はい。すみません。ですので、佐山さんとはお付き合い出来ません」
「付き合え、ない……」
「それに、好きな人がいるんです。だから、どっちみち貴方の気持ちにはお応え出来ません」
申し訳なさと一緒に、きっと自分も恭弥に告白したらこんな風に振られてしまうのかもしれないと由良は思った。
(きっとキョウが、エッチな妄想をしていた私に振り向いてくれることはないけれど……私はキョウが好きだ)
「そんな……」
「ごめんなさい」
呆然自失状態の佐山へ、由良はもう一度頭を下げる。佐山はうわ言のように呟いた。
「いや……そんな……そう……」
眼鏡のブリッジにかかっていた手がだらりと落ち、佐山はうなだれる。まだ期待を捨てきれない様子だったが、由良が撤回する気がないと分かると、暗い瞳に失望の色を宿す。そして猫背ぎみの背中をさらに丸め、彼はすごすごと引き返していった。
小さくなっていく背中に罪悪感がわいたが、振った相手に妙な優しさは不要だろう。相手に未練を残してもいけないと思い、由良は佐山の後ろ姿を見つめながら、いつか自分以外の素敵な女性に巡り合えますようにと願った。
振られて図書室を去った佐山が、どんな顔をしているかも知らずに。
「知らないって、なんだ……。僕は君をよく知ってるのに……。好きな人がいるって、なんだよ……」
しんと静まり返った特別棟を歩きながら、佐山は震える声で呟き、拳を握る。眼鏡のレンズの奥に潜む暗い瞳は妄執の念にかられてギラギラと輝き、爪の食いこんだ手のひらからは、彼の失望を表すかのように血が滲んでいた。




