初恋だなんて、言わないでください
レストランは、駅前の大通りからそれ小道に入ったところにあった。
フランスの国旗が店先にはためくレンガ造りの洒落た外観で、こじんまりしているが雰囲気のいい店だ。扉を開けるとチリンと涼やかなベルの音が鳴った。
「さて、何から話すかな」
日当たりのいい席に通されると、席につくなり恭弥は言った。水をサーブしてくれる若いウェイトレスがちらちらと恭弥の整った顔を盗み見ているが、歯牙にもかけていない。それにほっとしつつ、由良はメニュー表に視線を落として言った。
「……話したくないなら、別に聞きませんよ」
本当は気になってはいる。好きな人のことなら尚更だ。が、恭弥から無理に聞きだすのは由良の本意ではないのでそう言ってみたが、恭弥は首を振った。
「いや、もしかしたら俺がお前に話したいのかもしれない」
「……へ」
「それに、伝えたいこともあったんでな」
その言葉に、膝の上で由良はもぞもぞと指を組んだ。恭弥がこんな場所で伝えたいことってなんだろう?
頼んだコース料理の前菜が届いてから、恭弥は静かに語り始めた。
「俺の父親は弁護士なんだが……金を持てあましていてな、俺の母親がいながらあの女と不倫していたんだ。より若く美しい女が良いと。たしか、俺が中学に上がった年のことだった」
五年前か、と由良は思った。ちょうど自分がイギリスに渡った年だ。どの家も、両親が健在だからといって上手くまわっているわけではないようだった。
「父の不倫を知った母は、父を思い出すからという理由で俺を捨てて実家に戻り、父は代わりにあの女を迎えた。そこで――――……俺はあの女に手を出されかけた」
「……っ!?」
予想していなかった告白に、由良はナイフとフォークを取り落としてしまった。ガチャン、とやかましい音が、物静かな音楽の流れる店内に響き渡る。すぐさま代わりの物を用意してくれたウェイターに頭を下げて恭弥に向き直れば、彼は苦渋を味わわされたような顔をしていた。
「からくも逃げたがな。人の美醜に興味はないが……どうやらあの女は、この顔が好みだったらしいな」
そう言って、恭弥はシミ一つない痩せた頬を一撫でした。由良はかける言葉が見つからず視線を泳がせていたが、恭弥はふと小さく微笑んだ。大切な宝箱を開けるように優しい顔で。
「でも、悪いことばかりじゃなかったんだ」
「キョウ?」
「一人の女を愛せない父も、好きものの女も、俺を捨てた母も、全てが嫌で逃げ出した五年前……夏の夜に、俺は一人の少女に出会った。ちょうど、この前と同じで花火大会の日だった」
話を語る恭弥の目が柔らかくて、由良はとても大切な思い出なのだろうな、と思った。そしてその目は、何故か由良に向けられている。
その意味は分からないが、ただ視線をそらしてはいけない気がして、由良は背筋を伸ばした。恭弥はテーブル越しに由良へと手を伸ばし、由良の頬を、涙の筋をなぞるかのような手つきで触れた。
「花火大会の日、泣いたお前を見て既視感に襲われたんだ」
「え……?」
「以前にもあの場所で、同じようなことがあったって。五年前の花火大会の日に、泣いている少女を見かけた。女や愛は欲まみれだと愛想を尽かし逃げ出した俺に、彼女は世の中そんな女だけじゃないと気付かせてくれた」
「五年前……花火大会……」
五年前の花火大会なら、たしか由良も見にきていた。場所は――――……。
「この前の花火大会で行った神社の裏手に、そいつはいた。泣いていた。この世のどこにも居場所がないような、そんな気持ちにさせる夜に、静かに泣く少女はあまりにも儚くて綺麗だった。侵しがたい聖域にいるような……辛くて泣いているのだろうに、つい、と上を向く彼女は、凛としていて強く見えた」
場所が、同じだ。五年前の自分と。泣いていた場所も同じ。これは偶然なのだろうか。由良の鼓動が早鐘を打った。
「天女か、天使か。本当にこの世のものか不安に駆られ、つい声をかければ『貴方も泣きに来たの?』と言われた。いつも不機嫌な顔をしている自覚があったから、泣きそうに見えるなんて思わなかった。それでも、あの大きな瞳は、自分の心のわだかまりや棘を全て見透かしてくれている気がして嬉しかった」
由良の中で、埃を被っていた記憶が少しずつ鮮明になってくる。何故か恭弥が語る話は、心当たりがあった。
「儚げな横顔のそいつは俺より年下で、ブロンドの髪が花火の色で幻想的に染まりまるで天使のようだった。でも、俺と目が合ったその瞳は、堅固な光を宿していて。『ママを守るために、自分はイギリスに行くんだ』って言っていた」
「それ……」
五年前、祖母に苛められ、父に無関心を貫かれボロ雑巾のようになってしまった母を守るために一緒にイギリスへ向かうことを決めた自分と状況が重なる。
そして由良は完全に思い出した。五年前の夏の夜、花火の下で綺麗な男の子と会話を交わしたことがあることを。
「――――……まさか、あの時の男の子は……」
「俺だ。やっと会えたな」
恭弥は笑った。
「俺が探していた瞳の色は、蒼色だったんだな」
由良は以前恭弥の見舞いに行った際、寝ぼけた彼に『瞳の色が知りたい女がいる』と言われたことを思い出した。まさか自分だったとは。
「この世に一途な愛なんてないと思っていた俺にとって、あの日のお前との出会いは衝撃だった。あの日、初めて会った俺に『弱った母についていく』と語ったお前は、お前だけは、誰かを真っ直ぐに愛せる人間なんだって信じられた」
恭弥は、由良の輪郭を覆う髪を一房、小さな耳にかけた。勘違いしてしまうほど愛しさのこもった手つきだった。
「あれからお前は……沢山頑張ったんだな」
「……キョウ?」
黒曜石の瞳の中に、愛しさが滲んでいる気がした。その瞳に映る自分は、嬉しさで溺れているように見える。まつ毛を震わせる由良へ、恭弥は甘美に囁いた。
「――――俺の初恋は、お前だ。由良」
「…………っ」
嬉しい。驚きで言葉を紡げない由良の心を真っ先に占めた思いはそれだった。今にも嬉しいって気持ちが風船のように膨らんで、空へ飛んでいきそうだ。
好きな人である恭弥の初恋が自分だった。今自分へ向けられている表情から察するに、現在だって憎く思われていないはずだ。なら、ここで気持ちを伝えれば両想いになれるのではないか?
淡い希望が由良の胸を照らす。由良の人差し指は、恭弥の温もりを求めるようにピクリと動いた。しかし――――……。
恭弥の嫌う義母は、勝手に恭弥を『若くて綺麗な子が好き』だと決めつけ、押し付けようとした。その気のない彼に肉体関係を迫ろうとしていた。
自分は? 自分はどうだろうか。
自分だって、恭弥をこの前まで色眼鏡をかけて見ていなかったか。一見とっつきにくくクールでぶっきらぼうだが、その実懐に入れた相手には優しい彼を、穿った目で見ていなかったか。恭弥をずっと、エッチな漫画のキャラに見立ててやらしい目で見ていたではないか。
実際の恭弥は、由良に対し強引に迫ったり無理強いをしたことなどないのに。
(……私も、一緒だ。恭弥の義理の母親と……。恭弥のことを、下心のある目で見ていた……)
いつの間にか自分は、恭弥の初恋である無垢な子から、恭弥の軽蔑する女性像になっていた。
「おい、顔色が悪いが大丈夫か?」
「あ、いえ……」
由良は恭弥の顔が見られず、頬に触れている彼の手をそっと外した。
「大丈夫です……」
口ではそう言いつつも、恭弥が勧めてくれた店だというのに、運ばれてきた料理は何を食べても味を感じなかった。




