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この甘く苦い秘密は僕だけのものです

 しばらくして由良が落ち着いた頃を見計らい、風呂に入るよう景は促した。浴室から聞こえてくるシャワーの音を耳にしつつ、景は居間のローテーブルの前で腕を組む。


 ややあってから腕を解いた景は、顔に両手をやり天井の木目を見つめた。


「――――あー……わりとショック」


 呟いた景の言葉には、いつものような覇気がない。


 それもそのはずで、景にとって由良は可愛い妹、と形容するだけでは足りない存在だった。もちろん、類まれなる美貌を持つ二つ年下の由良を、血のつながった兄妹のように可愛がってもいる。だが、その中に男としての感情がなかったかと言われれば、答えはノーだった。


 初めて会った時から、景は由良に淡い恋心を抱いていた。




 出会いはたしか、近所の公園だった。昔から快活な性格のため友人の多い景が仲間と一緒に公園で遊んでいたところを、ベンチに座った幼い由良が羨ましそうに見ていたのだ。


 新緑の香る公園でプラチナブロンドの髪を靡かせた少女は、少年だった景の目に神秘的に映った。


 茜色に染まった空を見た友人たちが一人二人と帰っていき、景も優しい祖父母の家へ帰ろうかと思ったところでふとベンチを見れば、由良はまだそこにいた。


『帰らないのか?』


 公園の出口へ向かっていた足をベンチの方へ向け、景は興味本位で由良へと声をかけた。不意打ちだったのか、ブルートパーズのような瞳を瞬き、由良が景を見上げる。


 視線がかち合った瞬間、由良の可愛さに驚いた景は、頬が赤く染まるのを感じた。幼稚園での初恋相手のマリちゃんよりも線が細くて、当時お茶の間の人気アイドルだったリナちゃんよりも愛くるしい見目をした由良に、一瞬で景の心は持っていかれた。


 異国の海を彷彿とさせる瞳に、もしや日本語が通じないのでは、という考えが過ぎったが、それは景の杞憂だったようだ。由良は凛とした声で言った。


『ママを待ってるの』


『お母さんを? お母さんは仕事中なのか?』


『ううん。パパのおばあちゃんと家にいるの……そこで、怒られてる』


『怒られてる……?』


 由良の隣に腰掛ければ、由良はぽつりぽつりと説明してくれた。


『パパは病院の先生で、跡取りなの。おばあちゃんは、由緒正しい家柄のパパが、外国人のママと結婚したなんて恥ずかしいっていつも言う。ママのお箸の持ち方がダメだとか、作法がどうとか……』


『ひでえな』


 痛ましそうに景が言うと、由良はベンチに座ったまま、足をブラブラ揺らした。


『うん。おばあちゃんはママのことが嫌いみたい。いつも苛めて泣かせてるの。この前もホームパーティーで、沢山の人の前でママのこと馬鹿にしてた。でもパパはママが泣いても知らんぷりだよ。お仕事が忙しいから、自分でなんとかしなさいってママに言うの。ママはおばあちゃんに怒られている間、私にお外にいってなさいって言う……』


 母親の自分が怒られる場面を娘に見られたくないのだろうと景は察した。しかし由良はそれが納得いかないようで、不服そうに唇を尖らせていた。


『……私、ママの味方なのに』


 気の強い瞳でそう言う由良がいじらしくて、景は幼いながらに元気を出してほしいと思った。その日はたまたまサッカーボールを持っていたので、立ち上がりリフティングしてみる。


『なあ、さっきオレらが遊んでるの見てたよな? お前のお母さんが来るまで一緒にサッカーしないか?』


 誘った直後に、景はお伽噺のお姫様のような見た目をした由良ならサッカーより人形遊びの方が好きかもしれないと後悔した。しかしそれも杞憂だったようで、由良は長いまつ毛にふちどられた大きな瞳をランランと輝かせる。


『いいの?』


『……っお、おお! いいぞ。オレよくここで遊んでるからさ、もしお母さんに迎えに来てもらえるまで暇なら、今度から一緒に遊ぼうぜ。オレの友だちにも紹介する』


 無邪気な笑顔で食いついてきた由良にドキドキしながら、景はサッカーを教える。由良は運動神経がよい上に飲みこみも早く、とっぷりと夜の気配が世界を包んだ頃にはサッカーのルールを覚えていた。


『由良、迎えにきましたよ』


 走りまわって汗をかいた由良へ、小鳥のさえずりのような声がかかる。景が声のした方を見れば、公園の入り口には絹糸のような髪を腰に垂らした、儚げな女性が立っていた。


 その人の目と髪の色から、容易に由良の母親だと景には分かった。夜風にさらわれてしまいそうな由良の母親の目元は泣いていたのか赤く、由良のような意志の強さは感じられない。


『ママ!』


 ボールを追っていた視線を上げた由良は、母親の元へと一目散に駆けていく。二言三言母親に話した由良は、景を振り返り大きく手を振った。


『ありがとー! ママ迎えに来てくれたから、帰るね』


『おう。またな……由良!』


 由良の母親が呼んだ名前を言えば、由良は公園の外灯の下破顔した。


『貴方のお名前は?』


『景。津和蕗景だよ』


『そっか。景、またね!』


 景の名前を至極大切そうに呟いてから、由良は母親の手を握り帰っていった。由良に瓜二つの母親だったが、景はその表情が暗いことが気にかかった。


 由良は景の友人ともすぐに打ち解けた。子供の頃の二歳差は大きく、最初は二歳も年下の女の子と遊ぶことを厭うていた友人たちだったが、由良の可愛さと負けん気の強さ、そして年上と同等に渡り合う運動神経の良さに感化され、毎日一緒に泥だらけになって遊んだ。


 他の友だちが帰ってからは、景と由良の二人だけで昨日見たテレビや本について話す。漫画は祖母に禁じられているようだったが、景がハマっている漫画の話をすると、由良は熱心に聞き入っていた。


 景はこの二人きりのつかの間の時間が好きだったが、年を跨ぐごとに顔色が悪くなり痩せていく由良の母が心配でもあった。そして景が中学に上がった年には、由良の母は迎えに来なくなった。


 中学に入ると部活も忙しくなりなかなか小学生の時のように会う機会も減ってしまった。それでも隙間時間を作り由良と会っていたのだが、その日公園へ顔を出した由良は終始うつむいていた。


『イギリスへ行くことになったの。お別れだね』


『え……引っ越すのか?』


 突然のことに、ベンチに座ることもせず景が尋ねると、由良は消え入りそうな声で言った。


『ママと私だけ。ママには静養が必要だから、ついていくの。だから、バイバイだね』


 本当は嫌なのだろう。感情を押し殺したような無表情で言う由良の頭を、景は犬にするようにわしゃわしゃと撫でた。


『ちょっ……何? 景?』


『お別れじゃねーよ』


『…………でも』


『お別れじゃない。手紙だって何だってあるだろ? 由良ちゃんはオレの住所忘れちったのかな?』


 おどけたように言ってみせれば、由良は泣くのを我慢したような顔で言った。


『――――……覚えてるっ』


『じゃあ手紙くれよ。オレも送るからさ。由良の嬉しい時とか、腹が立った時、泣きたい時に、なっがーい愛のこもった手紙をくれ。な?』


『……じゃあ、景もちゃんと長文で返してよ?』


 痛々しいながらもやっと笑ってくれた由良に、景はホッとする。


 この少女は初めて会った時、自分は母親の味方なのだと言っていた。だからこそその言葉通り忠実に、母を守るためにイギリスに行くのだろう。聡い少女は、それが自らの心を殺してしまうほどの孤独だと気付いていながらも。


 景はその孤独な背中に寄り添ってあげたいと思った。好きだからこそ。




 ついウトウトしていたらしい。懐かしい記憶に想いを馳せていた景は、古びた柱時計を見上げた。


「失恋かぁ。つれぇ」


「どうかしたんですか? 景」


 いつの間にか風呂から上がった由良は、濡れた髪をタオルで拭きながら景に訊いた。冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだしている由良に、景は答える。


「んー? いや、オレの大切な大切な宝物が手元から離れそうなの」


「え? 何か無くしたんですか? 探さないと……!」


「いや、無くしてはないよ。これからは少し距離を置いて見守るだけ」


「んん?」


 要領を得ない様子でコップに水を注ぐ由良を見つめながら、景はくしゃりと笑う。


 自分の気持ちに気付いてもらえないのはショックだが、それならそれでいいと景は思った。景が一番に望むのは、由良が笑顔でいることだ。由良が恭弥を選ぶのなら、おそらく自分よりも恭弥の方が由良を幸せに出来るのだろう。


 隣に並ぶのは自分ではなかったが、由良のことを好きで守りたい気持ちは時を刻んでも鮮やかなままなのだから、この想いに蓋をして見守ろうと景は思った。


「幸せになれよー由良」


「何ですか、藪から棒に」


 さっきからとんと話が見えないのですが、とグラスの水を呷りながら言う由良に、景は自分だけの秘密だ、と笑った。


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