芽吹く思いは嘘だと信じて
石段を登りきり鳥居をくぐると、参道を抜け恭弥は裏手に回る。
まさしく由良が危惧していた展開に進みつつある。飛び石の上を歩き、竹藪を通り抜け開けた場所に出ると、人気のないそこは眼下に人のごった返した河原が見えた。
(やっぱりキョウはここで私を抱く気だ……! ってあれ……? この場所、昔……)
由良は違和感を覚え、辺りを見回した。
「そろそろだな」
恭弥が腕時計に視線を落とすと、ちょうど河原の方で竜が天に昇っていくように花火が上がった。ついでドンッという音とともに、黄色い夏の華が夜空を美しく染め上げる。間を開けずに赤、青、緑と、空のキャンパスに色彩豊かな花が描かれた。
「わあ……っ! 綺麗……!」
由良の大きな瞳に花火が散っては消えていく。夏の象徴ともいえる儚い花は、消える瞬間さえ光の粒が降り注いでくるようで美しい。
由良が夢中になって見ていると、隣でカシャリとシャッターを切る音がした。
「キョウ?」
「ああ、悪い。津和蕗から『花火楽しんでるか』ってメールがきていたんでな、携帯で撮って写真を送ろうと思って」
そう言う恭弥の手には、由良に向けられたスマホが握られていた。
「景に私の様子を写真で送るなら、ちゃんと可愛く撮ってくださいよ」
「確認するか?」
恭弥がたった今撮った由良の画像が映ったスマホの画面を、由良へと向ける。青白く光る液晶画面には、花火の色に染まった幸せそうな由良がいた。
まるで宝物を発見した子供のようにキラキラした瞳で。
「楽しそうで何よりだ」
スマホの画像を見ながら、恭弥は口元を綻ばせた。
「お前を楽しませるために来たからな」
「……!」
ドキリと高鳴ったのは、ちょうど同じタイミングで一際大きな花火が打ち上がったことに驚いたからだと思いたい。由良はドキドキと脈を打つ心臓を、浴衣の上からギュッと押さえた。
そんな由良の様子に気付かず、恭弥は花火を見上げながら言った。
「全然知られていないが、花火がよく見える特等席なんだ。いい場所だろう。ここは。昔、ここに来たことがあって――……」
「ここ、私も来たことあります」
恭弥の言葉を遮って由良が言った。
「……は」
「五年前、イギリスに渡る前日に来ました。そこで男の子と花火を見ました。顔は覚えていないんですけど、泣いている私の傍で寄り添ってくれた……」
小さく恭弥が息を飲む。しかし、その音は花火の打ち上がる音によってかき消されてしまい、由良には届かなかった。
由良は不意に恭弥の方を向き、それから彼の手元の携帯に映る幸せそうな自分を見つめ自嘲気味に笑った。
「随分と幸せボケした顔をしていますね、その写真の私。花火は日本を離れる前に一度見たっきりだからでしょうか」
「……イギリスにも花火はあっただろう?」
恭弥が問う。由良は苦い顔をして笑い、言葉を探すように組んだ指を弄んだ。
「ええ。でも、観に行くのは気が……引けて。ママがベッドで苦しんでいるのに、自分だけ何かを楽しむのは気が引けたんです」
まるで呪いのような日々だったと、由良は思う。自分を見てくれず、父に見立てた人形に向かって愛を囁く母を世話しながら過ぎていく月日。その間にも母は憔悴していく。
父や祖母への恨みは募り、しかし彼らの金銭的な補助がなければ稼ぐ力のない子供の自分が生きていけないことも痛感していたため、何も言えなかった。
墨で塗りつぶしたいような日々から掬いあげてくれるのは景からの手紙だけ。しかしいざ日本にきて幸せを手にすると、今までの日々が不幸だったと思っていたみたいで自己嫌悪に襲われた。
母は被害者なのに、自分を最期まで見てくれなかった母まで恨んでしまうみたいで嫌だったし、自分だけが幸せになることに罪悪感さえ覚えた。
察したように、恭弥の顔が気遣わしげになる。由良は、これは事情を知っている顔だな、と思った。
「どうせ貴方のことですから、きっと景に私がイギリスに渡った理由も、日本に帰ってきた理由も聞いているんでしょう?」
「……すまない。不快なら忘れるよう努める」
「いいですよ。ただ……」
言っても、いいだろうか。由良は少し逡巡し、それからゆっくりと口を開いた。景には嫌われたくないが故に絶対に言えないことだが、恭弥になら言える気がした。
「今も、本当は少し怖いんです。日本に来て、とても楽しいから……。ママのことを忘れて楽しんでしまっているみたいで……ママは孤独に死んでいったのに、自分だけが楽しんでいるみたいで、時々気が引けるんです」
言ってしまった。日本にきてから時折感じている罪悪感を。
景には言えなかった本音が、恭弥には打ち明けられたことが由良は不思議だった。ただ、恭弥なら、もし由良が『日本に来て幸せを感じていることを母親への冒涜だと思っている』と語っても、動じないと思ったのだ。動じないし、悲しんだり、由良を嫌ったりもしないだろうと。
それは一種の信頼だった。
いつの間にか花火は佳境に入り、ますます華やかに夜空を彩る。ドンドンと激しい音が鳴り響いている中、由良は青白く照らされた恭弥の唇から発せられる言葉を待った。
やがて、恭弥はうっすらと薄い唇を開く。出てきた第一声は、細長いため息だった。
「……へ?」
由良の目が点になるのを尻目に、恭弥はやれやれと言わんばかりに額を押さえた。
「お前は賢いと思っていたが……存外バカだな」
「はあっ!? 貴方、全国模試で一位だったからって調子に乗ってますね!?」
「どこからその情報仕入れてきたんだ……」
「貴方の噂はどこからでも舞いこんでくるんですよ!」
本当は恭弥のファンであるクラスメートからメールで情報が回ってきたからだが、それを言うと恭弥が露骨に嫌がりそうだったため、クラスメートのためにも黙っておいた。
「どこからでもって……俺の人権……いや、今はそんなことどうでもいい。お前の話だ。お前が毎日を楽しんで過ごすことに対して、母親に引け目を感じている話」
恭弥はぶれないし、話の本筋を忘れない。由良は思わず何を言われるのかと構え、背筋を伸ばした。
「う、はい……」
「それがバカだと言っている」
「いや、だから何で……」
「楽しいと思うのは当然だ。津和蕗も、俺も、他の奴らも、お前を楽しませたいと思って接しているんだから」
「……っ!」
「そうでなきゃ困る。楽しませたいと思っているのに、お前が楽しんでくれなくてはな」
「楽しませたい……? 皆が、私を……?」
そういえば、恭弥もたったいまそう言っていた。花火大会へは、『お前を楽しませるために来た』のだと。
ぐらぐらと瞳を揺らす由良へ、恭弥は諭すように言った。
「ああ。……篠月、死んだ母親はお前にとって大切な人であり、かけがえのない存在なんだろう。それでも、お前は今を生きている。亡くなった人を想うのはいい心がけだが、今生きている自分をないがしろにするのはよくないと思うぞ」
「キョウ……」
(何で……この男は……)
恭弥のひんやりとした手が、熱を持った由良の頬を優しく包んだ。花火に照らされて七色に輝く黒曜石の瞳は、凪いだ海のように穏やかだ。
「日々を楽しんでいることに罪悪感を覚える必要はない。お前が楽しんでくれることを望む相手のためにも、嬉しい時は素直に喜べばいいし、楽しい時は声を上げて笑え。誰もそれを責めたりしない。……俺も、お前の笑顔は好きだ」
「……っ」
「……何でそこで泣く。俺に笑顔が好きだと言われたせいか……。さすがに傷つくぞ」
じわじわとせり上がってきていた涙はとうとう決壊を迎え、由良の頬を濡らした。次から次へと零れ落ちていく涙の筋を恭弥の親指に拭われた由良は、ますます涙を溢れさせた。
「ちが……っ。これは、だって貴方が……!」
「俺が?」
「貴方が優しいから……っ」
ずっと胸の中で燻っていた暗い思いが、恭弥の言葉によって優しく溶かされた気がしたのだ。赦された気がした。今を楽しんでいいのだと言ってもらえて、嬉しかった。涙が止まらないほど嬉しかったのだ。
(この男は、氷の彫刻のように冷たい美しさを放っているのに、本当はひどく優しい)
エッチな漫画に出てくるヒーローみたいに整った見た目をしているから、てっきりオラオラで鬼畜で、エロ魔人だと思っていたのに。
いつもいつも、私のエッチな妄想とは違った行動を取るし、無愛想なくせに誰よりもよく人を見ていて、欲しい言葉をくれる。
「お前は存外よく泣くな」
以前にも泣いたことを言っているのだろう。由良は頬を赤らめた。
「も……っ。キョウのくせに! 泣きやむからあっち向いててください!」
「おい、叩くな。目に傷がいったらどうする」
箍が外れたように涙の出てくる目元をバシバシ叩く由良の繊手を掴み、恭弥がやめさせる。由良は手を掴まれた瞬間激しい動悸に襲われ、驚いて涙が引っこんだ。
(え……? な、なに……?)
「せっかくの綺麗な顔だろう。力任せに叩いたせいで赤くなってるぞ」
眉をひそめ、恭弥は至近距離で由良の赤くなった目元をなぞる。距離が近いため、由良は恭弥のまつ毛が頬にかげるほど長いことに気付いた。由良の涙を拭う指の腹が固いことも、近付いた彼から香る石鹸のような香りが好ましいことも、たったいま気付いた。
(え……?)
「どうした? 珍しく大人しいな」
借りてきた猫のように大人しい由良へ、恭弥はくつりと笑いを零す。その笑顔はこんなに胸がときめくほどかっこよかっただろうかと、由良は心臓を跳ねさせた。
(――――……? 私……)
気に食わないはずなのに。毛嫌いしていたはずなのに。どうして恭弥を見ていると、ドキドキするのだろう。
初めて抱く感情に翻弄され戸惑いの表情を浮かべる由良は、しばらく花火が終わったことに気付かなかった。そして、由良の泣き顔を見た恭弥が何を思っているのかもまた、気付くことはなかった。
「……篠月お前たしか、五年前にもここに来たことがあるんだな?」
「はい? ええ。それがどうかしました?」
「……いや。お前だったのか、と思って。そうか、青い瞳だったんだな……」
含みのある言い方をして、恭弥は言葉を切った。由良は続きを待ったが、恭弥はそれ以上何も言う気がないのか、わしゃわしゃと由良の髪を撫でた。
「……貴方は見た目に反して結構、撫でるのが好きですね」
「自分でも驚いてる。お前以外の女を撫でたことはないからな」
どこかで反発心を抱いていた今までと違い、大人しくされるがままの由良は、恭弥の言葉に胸がキュッとなるのを感じた。
(……私だけ)
おかしい。恭弥のことは、天敵だと思っていたのに。自分だけ特別だと言われたみたいで、心が風船のように膨らんで飛んでいきそう。足元がフワフワする。
(……こんなに嬉しいなんて、おかしい……)
徐々に変わりつつあった恭弥への気持ちが、この花火大会で確実に変わってしまった。胸に芽吹いた気持ち。ポッと温かい火が灯ったようなこの気持ちが何という名前なのか心当たりはある。それは、日本にきて漫画に触れてからそれこそいつも目にしたからだ。
しかし自分がまさか、恭弥相手にそんな感情を抱くなんて。戸惑いの色を強くした由良は、小さく唇を噛んだ。




