声に出しては言えません
恭弥のマンションの下まで迎えにきたと景から連絡がきた由良は、脱兎のごとく恭弥の部屋から逃げ出した。景は親友の風邪の具合が気になるのか家に上がりたいようだったが、今恭弥と景を会わせたら泣いたことをばらされそうだと危ぶみ、由良は「絶対にダメ」と譲らなかった。
「由良、キョウの風邪はどうだった?」
結局由良の剣幕に負け、景は恭弥と顔をあわせないまま、由良と自宅への道を引き返していた。仲良く手を繋いだ手を揺らしながら。
街頭に青白く照らされた夜道のどこかから、野良猫の鳴き声が聞こえる。由良は駅へと向かいながら、景への質問には答えず、握る手に力を込めた。
由良の手が強張ったことに気付いた景は、人懐っこい顔に心配の色を浮かべる。
「どうかしたか?」
「……景。私って器用ですよね?」
「ん? ああ、そうだな。由良は一度覚えたら何でもすぐにこなせるもんな? すごいすごい」
綺麗な歯並びを見せてニッと笑う景を見上げ、由良も微笑み返す。それから角を曲がり、賑やかな飲食店が並ぶ駅前に出た。行き交う車の音に掻き消されそうな声で、由良は呟く。
「……でも、あいつが……キョウが言ったんです。私が器用なのは、器用でいなければいけない理由があったからだろうって。難儀だったな、って」
「……ふむ。それで?」
「そう言われた瞬間、何も言えなくて……どうして、あいつは……」
口ごもる由良。景は話したがらない子供からそっと事情を聞きだす保育士のように、柔らかく続きを促した。
「嫌だったのか?」
「いえ……むしろ……」
――――何も知らないのに、どうして優しい瞳で、本質を見抜いてくれたんだろう。
消え入りそうな声で「嬉しかった」と由良が言えば、景は弱ったようにガシガシと黒髪を掻いた。
「あー……まいったな。娘を嫁にやる父親の気分になるかと思えば、失恋した気分になるのかー……そうか……」
「景?」
「いや、何でもない。独り言」
「由良が惹かれてるのに気付いてないなら、俺からは言えないしな……」と、景は由良には聞こえないようにひとりごちた。
景の不審な挙動に由良が眉をひそめていると、景は話題を変えてきた。
「そうだ、由良、日本にきてからの生活は楽しいか?」
「へ……あ、はい。すごく充実しています。キョウは相変わらずムカつきますけど、景と過ごせるのはすごく楽しいし、バイト先の方々も可愛がってくださいますし、クラスの方々は親切ですし……そうだ、またオススメのエッチな漫画を教えてもらいました」
由良はスマホのアプリを起動させ、今はまっている電子書籍を景に見せた。由良からスマホを受け取った景は画面をスクロールし、ヒロインがM字開脚された状態で縛られた絵を見た瞬間顔を覆いたくなった。
「由良ちゃん……そういった肌色が多い漫画はまだ由良には早い気がするんだけど……」
少なくとも、多くの人が行き交う駅前で見せてくる内容の漫画ではない。景は口元を引きつらせるが、由良は長いまつ毛に縁どられた宝石のような目をキラキラさせ、興奮気味に言った。
「今回オススメされた漫画はすごいんです。五話で寝取られシーンがあってですね、男が嫌がる女にピーしてピーで……」
「だあああやめて! オレの無垢で可愛い由良が街中で淫語を連発しないで……!」
「景も読みます?」
「読みません!」
こてんと首を傾げ、愛くるしい表情で問う由良に、景はぴしゃりと断った。
「あ――……いや、でも、エッチな漫画は由良にはまだ早いと思うけどな、楽しんでるなら良かったわ。イギリスから日本に来てすぐの頃は、まだ少し表情に影があったからさ。日本での毎日が楽しいなら良かった」
「はい! 楽しいです。イギリスにいた時よりずっと……」
「由良?」
笑顔のまま固まった由良へ、景が声をかける。由良の視線は徐々に、靴のつま先へと向いた。
「……ずっと……楽しい……」
イギリスにいて、最愛の母に自分という存在を認識してもらえなかった頃より、比べ物にならないほど楽しい。声をかければ太陽のように微笑みかえしてくれる景がいて、自分に好意を持って接してくれるクラスメートたちがいて。……気に食わないけれど月のように静かな優しさを与えてくる恭弥がいる。
恭弥のことは気に入らないが、好かれたいと思わないせいで他人に接する時のように気を使う必要もなく素が出せるので楽でもある。顔を上げれば誰もが、手を伸ばせば誰もが由良を認識し、つまらない人形よりも由良に興味を示してくれる。
毎日満ち足りて、すごく幸せだ。イギリスに母と二人でいた時より。ずっとずっと。
(でも……)
景が気遣わしげに由良の顔を覗きこんだ。
「由良? どうした? 腹でも痛いのか?」
「……っいえ」
由良は急いで笑顔を取り繕った。
(――――……言えない)
大好きで、空のように広い心で受け止めてくれる景には、言えない。きっと、困らせてしまうから。凛々しい眉を八の字にさせて悲しませてしまうから。
(――――……今が幸せすぎて、それが母親への冒涜のように感じてしまったなんて)
絶対に言えない。




