濡れているなんて気のせいです
風邪薬が効き始めると、恭弥はほどなく眠りに落ちた。
由良は恭弥が眠ったのを確認してから、お腹に優しい料理を作り置きし、溜まった洗濯物も回してやった。恭弥を起こしてしまう心配があるので掃除機は使えなかったが、家の中をほうきで掃いたし水拭きも終えた。
一通り家事を終えた頃にはもうとっぷりと日が暮れ、窓の外には夜の帳が下りていたが、時刻はまだ八時過ぎ。景がバイトを終える時間には少し早かったため、由良はバイトが終わったら迎えにきてくれるようメールを入れておいた。
「こんなもんですかね」
とりあえず恭弥の寝室に戻ろうと極力音を立てずにドアを開ければ、ちょうど目を覚ましたらしい恭弥がベッドから上半身だけ起こしていた。
「起きたんですか。どうですか、具合は」
部屋の入口の傍にある電気のスイッチを押しながら由良が尋ねた。
「薬も効いているし、よく寝たせいか大分マシだ」
そう言う恭弥の顔色は、由良がここへ訪ねてきた時よりもずっとマシになっている。そのことに由良が胸を撫でおろしていると、寝起きで寒いのか恭弥が小さく肩を震わせた。
「あ……何か上に羽織って下さい」
辺りを見回した由良は、パソコン机の椅子にかかっていたジャケットを手に取り恭弥に羽織らせようとする。恭弥は小さく「あ」と声を漏らした。
「どうしました?」
「ああ、いや……。そのジャケットは、袖口の部分のボタンがほつれていてな……そのまま放置していたことを思い出した」
恭弥の言うとおり、ジャケットは片方の袖口の糸がほつれ、ボタンが取れかかってしまっていた。パソコン机の上に置かれた時計をちらりと見た由良は、景が来るまでまだ時間があることを確認してから言った。
「縫ってあげましょうか」
「手先も器用なのか? 申し出はありがたいが、うちに裁縫道具はないぞ」
「ふふん」
由良は入口のすぐ傍に置きっぱなしにしていたスクールバッグから、ソーイングセットを取りだし、悪戯っぽく笑った。
「ほお……?」
恭弥は由良の準備の良さに、舌を巻いた様子で言った。
クローゼットから代わりのパーカーを引っ張り出して恭弥の肩にかけてやってから、由良は椅子に座り、慣れた様子で針に糸を通した。さくさくとボタンを縫いつけていく由良の手元を、恭弥は興味深そうに見つめていた。
その視線を気に留めず、由良はイギリス時代のことを思い出した。
由良の母は心が壊れてしまってから移り気な秋の空のように不安定だったが、一度身も世もなく泣きだしたことがあった。
由良を忘れてしまっても父への恋情だけは忘れなかった母が、ひらすら可愛がっていた父に似た人形。それがずっと手にしていたせいでくたびれ、とうとう継ぎ目の部分から破れて綿がはみ出てきてしまったのだ。
「司さんが死んじゃう、死んじゃう」と父の名前を呼んで泣く母はひどく哀れだった。
心を病んでから色あせてしまった金髪を振り乱し、子供のように泣く母を見かねた由良はその人形を直してやった。最初は母の手から人形を取ろうとしただけで引っ掻かれ罵られたが、綿を詰め直し、綺麗になって返ってきた人形を見て母は少女のように喜んだ。
それから何度も母の人形を直してあげたり、人形の洋服を作ってあげたことで、由良はすっかり裁縫が得意になったのだった。
ぼんやり考えごとをしていても、身体は覚えているものだ。五分もせぬ間にボタンをつけ終わった。
由良は恭弥へジャケットを広げてみせる。
「こんなものですかね。どうぞ」
「もう出来たのか? ……器用だな」
ジャケットを受け取った恭弥は、袖口をしげしげと眺めて言った。由良は鼻が高くなり、気分よく足を組んで座り直した。
「ふふん。私にかかれば出来ないことなんてありませんよ」
「そうらしいな。成績も良いし、武道も出来るようだし。炊事洗濯だけじゃなく、裁縫まで出来るなんてな」
「すごいでしょう。器用なのは自慢なんです」
出来る男の恭弥に褒められるのは気分がいい。由良が認められた気がするからだ。珍しく自分の前でご機嫌な様子の由良を見た恭弥は、「そうか」と囁いてから、静かに続けた。
「そうか。難儀だったな」
「…………は?」
一瞬何を言われたのか理解できず、由良は返事が遅れた。恭弥は由良をちらりと見てから続ける。
「難儀だったな。何でも出来るということは、器用でいなければならない理由があったんだろう? しんどかっただろうな。お疲れさま」
「…………何、で」
(器用でいなければいけなかったって、何で……)
気付くの。この男は。
(皆すごいね、とか、流石だ、とか。単純に褒めてくれるのに、どうしてこの男は……)
単純に、他の皆と同じように褒めてくれたなら気分もいいし、何より言われ慣れているから返答しやすい。なのに。
「――――……」
急に喉が渇いた気がした。口を開くものの、適切な言葉が見つからず何も発さずに閉じる羽目になる。小さく唇を噛みしめてから再び口を開いた時に出てきたのは、可愛げのない悪態だった。
「むかつきます。それ以上いらないことを言うと、そのジャケットにラブリーな刺繍を施しますよ」
「随分だな……お前は何を言っても怒る」
縫い針をちらつかせて脅す由良から、恭弥はジャケットを遠ざけて言った。由良は針を仕舞う振りをして俯く。
(単純な褒め言葉を言ってくれたなら、すぐに返事できたのに……)
それなのに、恭弥は違った。日に日に壊れていく母の気を引こうと必死に器用に何でもこなした小さい頃の日々をそっと掬ってくれるような……救われたような気にさせる……。
「――――すまない。泣かせる気はなかったんだが……」
戸惑った様子の声が頭上からかかって思わず顔を上げると、自らの頬が濡れていることに由良は気付いた。慌てて手の甲で拭うものの、勝手に流れ出した涙はどういうことか止まりそうもない。
「……っちが……これは……!」
「気分を害してしまったようだな。すまない」
「違います! 貴方に泣かされたわけじゃありません!」
由良は空色の目を吊り上げて恭弥に怒鳴った。
気分を害したわけじゃない。むしろ、由良は嬉しかったのだ。嬉しいと思ってしまったのだ。恭弥は由良の過去を何も知らないはずなのに、頑張ってきたんだな、と慰められた気がして、それが優しく感じて泣いてしまった。
(ありえない……! 相手はエロ大魔神のキョウなのに……!)
「忘れてください! 今すぐ! 記憶から抹消して! 私が泣いた事実を!」
恭弥の艶やかな黒髪を引っ張り、由良は脅迫した。
「俺は病人だぞ……」
「うるさい! 風邪と一緒に記憶ごと吹き飛ばして!」
「無茶を言うな……」
躍起になって喚く由良と、困惑気味な恭弥のやり取りはバイトを終えた景が由良を迎えにくるまで続いた。




