マグロのように横になって看病されて下さい
(せめてインターホンだけでも押すとするか……)
家の前まで行ったのに恭弥に会わずに帰ってきたと知られては、景に悲しい顔をされるかもしれない。
由良は腹を括り、インターホンを押した。待つ間もなく乱暴にドアが開き、由良はドアからのけ反った。
「帰れっていっただろ……! 篠月……?」
「どうも」
どうやら先ほどの女性がまだいると思ったらしい。恭弥は眉間に皺を寄せ、人一人殺せそうな凶悪な顔で出てきた。が、訪問者が由良だと分かった途端、整った薄い唇をうっすら開きポカンとした。
由良はというと、元々無愛想で怖い恭弥が不機嫌オーラ全開で出てきたため、誠に遺憾なことに肩を跳ねさせてしまった。
「……何でお前がここに……。ちょっと待て……」
虚をつかれた様子の恭弥は、戸惑いの色を浮かべて一旦ドアを閉めた。そのあとすぐにドアロックを外す音がし、ドアが今度は大きく開かれる。
ドアが開いたと同時に咳きこんでいたので、どうやらまだ風邪は治っていないらしい。今まで寝ていたのか、恭弥は白のTシャツを着ており、下はスエットをはいていた。
何故寝間着でもこの男は絵になるのだろうかと、由良を理不尽な苛立ちが襲う。恭弥の声が掠れていたので、思ったより重症かもしれないと思った。
恭弥の漆黒の髪は汗で額に貼りついているし、呼吸も浅い。
「景に見舞いに行けと言われたので来ました」
「津和蕗に……? 何でお前が……?」
不可解そうな恭弥へ、由良はばつが悪そうに視線を泳がせる。
「そ、れは……貴方が、私を送ったせいで風邪を引いたから……私の責任だからです」
「あー……」
俯いた由良の旋毛に視線を落とし、恭弥は気だるげに首の後ろを掻いた。
「日頃の不摂生が祟っただけだ。お前のせいじゃない。気をつかわせたみたいで悪かったな……じゃあ」
そう言って、恭弥は扉を閉めようとした。が、由良はそうはさせまいと、閉まっていくドアの隙間に自分の片足を突っこんだ。ガン、と由良のローファーがドアに挟まる。
「どういうつもりだ」
「景に貴方を看病しろと言われたので、ただでは帰れません」
「気にしなくていい」
「貴方の意見は聞いていません。このまま帰っては景にあわす顔がないので、大人しく看病されてください」
「どんな理屈だ……」
心底呆れた様子で言った恭弥は、すぐに咳きこんだ。その隙を逃さず、由良は恭弥の家へと滑りこむ。
「……おい」
「驚いた。キョウ、貴方想像以上に体調が悪いんですね。剣道をやっていて動体視力のいい普段の貴方なら、私にまんまと家へ入られたりはしないはずですよ」
けろりと言い、由良は背伸びをして恭弥の額へ手を伸ばす。くしゃくしゃした前髪を払って手を当てれば、ひどく熱かった。
払われるかと思ったが、由良の冷たい手が存外気持ちいのか、恭弥は猫のように目を細めた。その緩慢な仕草が彼らしくなくて、由良は調子が狂う。
ややあってから、恭弥が口を開いた。
「……見たか?」
「何をです?」
「押しかけてきた女を」
「ああ……」
由良は先ほど追い返されていた女性を思い出して言った。
「あのグラマラスな美人ですか。見ましたけど、貴方の交友関係に口出しする気はありませんよ。景に迷惑がかからないなら」
「……そうか」
「何です? 人妻に手を出すなと説教でも垂れてほしかったんですか?」
「いや……。お前は楽だな、と思って」
長いまつ毛を伏せ、恭弥は静かに言った。
「興味本位で追及してこないし、一緒にいて楽だ」
「……そうですか」
一方的に敵視している相手にそう言われ、由良は歯に何か挟まったような気分になった。
「だが一つ勘違いしているな。あれは俺の義母だ」
「ギボ……」
義母。つまり血のつながらない母ということか。それにしては、義理の息子を見舞う格好には不向きな服を着ていたように思う。胸が零れ落ちそうなくらいざっくり開いた服を着ていたし、豊満なお尻のラインがよく分かるタイトスカートも短かった。
(あの態度も、息子に対するというよりは好きな男に対するといった方がしっくりくるような……)
しかし詮索は無用だろうと由良は思った。それに、眼前の口の堅そうな男が自分の家庭について零すなど、実はよっぽど体調が悪いに違いない。由良の中で罪悪感が膨らんだ。
「薬。飲みました?」
「……いや、風邪とは無縁だったからない」
ゆるく首を振った恭弥は、目眩がしたのか眉間を押さえた。由良は倒れないよう、恭弥の広い背中に手を添えてやる。
「病院にも行ってないんですか」
「昨日までは立てる状態じゃなかったんでな」
「……とりあえず寝てください。寝室はこっちですか?」
洒落た間接照明の玄関を上がり、由良は廊下を突き進んだ。「本当に帰らないつもりか」とおぼつかない足取りの恭弥に言われたが、無視を決めこむ。
適当に寝室に目星をつけてドアを開けると、学生の一人暮らしには似合わない広い部屋が由良を迎え入れた。
しかし、恭弥はインテリアにあまり興味がないのか、壁一面の本棚とダークカラーのベッド、それからパソコン机、テレビくらいしか置かれていない。由良はとりあえず恭弥の背中を押し、部屋の中央に鎮座するベッドへと恭弥を寝かせた。
呼吸が浅い恭弥の首元までシーツを引っぱり上げて、彼の胸元をポンと軽く叩く。
「さて、キョウ。大人しく看病されてくださいね」
「何をするつもりだ……?」
腕を組み仁王立ちになって告げた由良へ、恭弥は眉をひそめて言う。
(何……? 何ってナニか……?)
一瞬エッチな漫画に染められた由良の思考が顔を覗かせたが、由良は頭を振ってそれを払った。
「そうですねぇ……。病院に行けないほど辛いなら、どうせ大したものも口にしていないんでしょう。キッチンをお借りします。薬を飲むには何か胃に入れないといけませんからね」
「……冷蔵庫には何も入ってないぞ……」
気まずそうに目をそらして言う恭弥に、由良はチ、チ、チと指を揺らし、反対の手に持った買い物袋を見せた。
「貴方に生活力がないのは想定内です。ちゃんとここに来る前にスーパーで買い物してきたので、貴方は私の作る美味しいお粥でも犬のように涎を垂らして待っていてください」
そういえば、さっきの恭弥の義母は高級ブランドのハンドバッグしか持っていなかったな、と由良は思う。本当に恭弥を看病する気があったのかどうか疑わしいものだ。
由良がそう考えていると、恭弥は掠れたハスキーな声でくつりと笑った。
「すごい自信だな」
「文句ありますか?」
「いや。……楽しみだ」
「……ふん」
恭弥に屈託なく言われた由良は、病人相手にこれ以上突っかかるのはやめておいた。




