第十八話 『呼ぶな』
音の正体が分からないまま、ただ走る。
最悪の想定をどうにか拭おうにも、俺の頭には桜木の死のイメージがこびりついて離れない。
頼む、杞憂に終わってくれ。
神柱神社を出る、距離にして数十メートルだ。
日はもう完全に沈み、等間隔に配置された街灯と、僅かな月の光が都城を照らしていた。
――その光りに照らされるように、黒で埋め尽くされた人間であろうナニカが、月を見上げていた。
最初はただ黒い服を着ているだけだと思っていたが、どうにも違う。
単純に黒いのだ、全てが。
まるで影が意思を持って立っているような、ナニカ。
明らかに人間ではない、人の形をしている物体。
どうやら俺には気付いていないらしい……ん。
「――!?」
ナニカに気を取られ気付けなかった異常に、今やっと気づく。
転がっていた。
人間が数名、転がっていた。
明確な数までは分からない、少なくとも今の俺の思考回路では。
――なぜならそれらは、上半と下半が、別々に存在していたからである。
異様な程綺麗な切断面、だがそこから溢れ出ている黒の血と、収まる場所を見失った臓器が、俺の不快感をこれでもかとエグってくる。
「うっ」
初めて感じたどす黒い不快感に耐え切れなくなり、体内の胃液が俺の意識にかかわらず逆流してくる。
必死に抗おうにも、体は言う事を聞かない。
吐き出さまいと口の中で堪えてはいたのだが、耐え切れなくなり口から胃液とさっき飲んだジュースが吐き出される。
「がはっ、がはっ」
――影がこちらに気付いた。
更なる吐き気に襲われるも、それ以上の恐怖が俺の感情、体を支配。
逃げようにも、足が竦んで動けない。
この影が、桜木を殺した犯人であるというのか。
影がゆっくり、ゆっくりと俺に歩み寄って来る。
コイツが、この化け物が桜木を殺した犯人だろう。
絶望的、あまりに理不尽かつ絶望的だ。
だがそれでも、桜木は救わなければならない、この化物の手から。
影が俺の正面に立つ。
感情があるのかすらも分からない、影の化物。
早くルーズ&リープを使わねば――。
『ア……』
影が言葉を発した。
不明瞭でノイズが入った音ではあるが、間違いなくそれは俺へ向けた言葉。
『ア、キラ……』
影は、俺の名前、明という名前を間違いなく口にした。
なぜ、なぜこの化物は俺の名前を知っている、なぜ俺の名前を呼んでいる。
「――はぁっ、はぁっ」
気付くと、俺は呼吸を忘れていた。
たまらず空気を貪り吸う。
『アキラ……サン』
呼ぶな、呼ぶんじゃない。
恐怖か焦燥か、あるいは別の感情か。
その感情に抗うように、俺は右手で小石を取り影の化物へ投げつける。
『……』
当たった、実体はある。
だが反応が無い――
「――!?」
経験したことの無い痛みに、咆哮にも似た叫びを上げる。
断末魔、であろうか。
痛みの正体は、俺の右腕。
――もう地面に落ちているが。
どうやら迎撃として、俺の腕を切り落としたらしい。
一体どうやって切られたかもわからない、だが相手は化物なのだ、予想しない出来事が起きて当然だ。
影の化物を睨みながら叫びを上げ続ける。
もう限界だ、使え、ルーズ&リープ。
だが、俺はリープするに至らなかった。
投石が当たった場所が、ひび割れ始めていたのだ。
まだ粘れ、次の時間軸に活かせるヒントを、少しでも。
命中した部分は、人間で言う目のあたり。
その部分はボロボロと崩れ落ちていき――。
「うそ……だろ」
その目は、間違えるハズもない。
俺が幾度となく逸らし続けて来た、大きな瞳。
間違える、ハズがない。
『アキラ……サン』
嘘だろ嘘だ嘘に違いない。
これは夢だ、質の悪い、悪趣味すぎて嘔吐したくなるほどの邪悪な夢。
唇をワナワナと震わせるが、言葉は出てこない。
その合間にも右腕の切断部からは血がドクドクと流れ出てきて、視界が霞んでゆく。
『ゴメンナサイ……ゴメンナサイ』
桜木であろう影、瞳からはたゆまなく涙が流れ落ちている。
どうして、どうしてこんなことに。
現実を受け入れられない、受け入れる程の余裕、思考、精神が今の俺にはなかった。
「さ、桜木」
絞り出すように、俺は桜木の名を呼ぶ。
これが聞こえていたのかはわからない、だが――。
『ヤクソク……まもれマセンでしタね』
聞きなれた桜木の声と、ノイズの入った声が混合した声で、桜木が俺に語りかける。
『ハリ千本……のマナいと、いけませンネ』
そう言って、影は体から無数の黒い刃を発生させ――。
自らに向けて、それを突き刺した。
「あ、あああ」
声にもならないうめき声を、俺はただ発するだけ。
『ごめんなさい、アキラさん』
桜木を纏っていた影が、急速にその存在を無くしていく。
そして残った桜木の体が、俺に倒れ掛かる。
死んでいる、桜木は死んだ、俺は桜木を守れなかった。
重さに耐え切れず、俺は道路に倒れ落ちる。
温かい桜木の血液が、俺の制服を染め上げた。
「くそっ……くそ……くそが!」
叫ぶしか、俺には出来なかった。
――ルーズ&リープ
――――
――
「明さん、大丈夫ですか?」
桜木、良かった、生きてる、生きてるぞ桜木が。
「あ、明さん!?」
いつもの桜木を見て、形容しがたい安堵感を覚える。
その感情からか、俺はたまらなくなって桜木を抱きしめていた。
「悪い、桜木、少しこのままでいさせてくれないか」
「え、えっと、一生のお願いということであれば」
「頼む」
桜木は、それ以上何も言ってこなかった。
その代わり、俺の背中に腕を回してくる。
桜木が生きていること、いつも通りの桜木がここに居るのだと改めて実感し、目頭が熱くなる。
「ごめんな、桜木。次は、次は必ず」
みっともなく涙声で零す。
桜木はそんな俺を何も言わずにただ、優しく抱きしめてくれた。
どれくらい泣いていたのかは、覚えていない。
感情の整理も仕切れていなかったのだが、
「あのー、盛るなら家の中でやってくれない?」
「お、お姉ちゃん!?」
桜木が慌てて俺から離れる。
蘭さんに泣き顔を見られるのは恥ずかしかったので、後ろは振り向かないでおいた。
「で、だれ君」
「オカ研の部員、黒木明です」
ちゃんと言おうとしたのだが、まだ少し涙声が残ってしまっていた。
蘭さんに気付かれたかもしれん、高校一年にもなって泣きじゃくっていた事実を。
「ふぅん、君が黒木クンか。遥から毎日君の話を聞いてるよ」
助かった、どうやら気付かれなかったようだ。
もしくは気付いたうえでの知らないフリか、どちらにせよ幸いである。
「ちょっとお姉ちゃん、やめてよ!」
「はいはい、毎日ノロケ話聞かされるこっちの身にもなって欲しいよ全く」
桜木にはそのつもりは無いと思うが。
軽口の多い蘭さんだ、あまり真に受けちゃいけない。
「明さん、真に受けちゃだめですよ!」
「わかってる」
「何よ、初めて会ったクセに」
蘭さんはな。
だけど俺は会ったことがあるのだから、わかっている、蘭さんは軽い人だ。
「でさ黒木クン、今から暇だったりする?」
「……すいません、少し用事があって」
本当は用事などないが、今はリープ前に起こった出来事を整理するのが先決だ。
桜木の手料理を食べたいという欲はもちろんある、だがその欲に手を伸ばし、桜木を救えずに終わること等あってはならないのだ。
「そっか、遥の手料理を食べさせてあげようと思ったんだけど」
作るのは桜木なのに、自分が食わせてやる的なニュアンスで言う蘭さん。
「また今度、食べに来ます。三日後とか」
三日後の六月二十八日、この日の夜に、桜木の身に何が起こったのか確かめなければならない。
外野から見ているのは愚策だった、甘すぎた、だから今度は、桜木とその時まで一緒に居るべきだ。
「三日後ですか……ふふっ、わかりました。好きな料理はありますか? 何でも作れますよ!」
何でもか、ハンバーグと言いたい所だが、桜木家は今日のメニューがハンバーグだ、別の料理にしたほうが良いだろう。
「桜木が一番得意な料理が良いな」
「任せてください」
胸をポンと叩く桜木。
楽しみではあるが複雑な気分だ、その時が来る時間と、夕飯の時間は被っている。
何も起こらないことを願うばかりだが、それは楽観的すぎる思考だ。
「じゃあ、また明日な」
桜木に荷物を渡し、俺は自宅へ帰る。
少し、いやかなり疲れた、精神的に。
仮眠を取ってから桜木のことは考えよう。
――どんなに絶望的な状況だろうと、俺は諦めない。必死に足掻いて、桜木を助けてみせる。