手洗いを忘れずに
鬼胡桃会長と縦走先輩、弩と萌花ちゃんに囲まれて、みんなが起きるのを待っていたら、二度寝してしまったらしい。
目を覚ますと、午前十一時を過ぎていた。
まだみんな気持ちよさそうに寝てるから、僕はみんなの腕や足を解いて、そこから抜け出した。
まったく、花園と枝折が出かけているときでよかった。
お昼近くまで寝ているこんな姿は、花園や枝折には見せられない。
僕が寄宿舎の女子達に囲まれて、ハーレム状態で寝ていたとなれば、なおさらだ。
起きて、第一に洗濯機を回した。
顔を洗って、歯を磨いて、そうしているうちに洗い上がった洗濯物を持って、二階のベランダに上がる。
外は今日も、うだるような暑さだ。
日差しが肌に痛い。
今から干しても、この天気なら二、三時間で乾いてしまうだろう。
僕はタオルや衣服を手早く干した。
僕の分も含めてパンツが六枚、青い空の中に舞う。
一階に戻って台所を覗くと、誰かがパンとヨーグルトを食べた形跡があった。
早朝に縦走先輩がつまみ食いしたんだろうか。
よし、起きてくる腹ぺこさん達のために、昼食を作ろう。
湯を沸かして、パスタを茹でた。
鷹の爪と、ニンニクをたっぷりときかせた、ペペロンチーノを作る。
これなら、夏バテ知らずだ。
「おはよう」
匂いに釣られてまず起きてきたのは、縦走先輩だった。
弩、鬼胡桃会長、萌花ちゃんと、続々に起きてくる。
「ご飯にするから、顔洗って、着替えてきてください」
僕が言うと、みんな「はーい」と言いながら、洗面所に向かった。
素直な、良い子どもたちだ。
「会長さん、会長さん。午後に会長さんの写真、撮らせてもらえませんか?」
みんなでペペロンチーノを囲む食卓で、萌花ちゃんが鬼胡桃会長に訊いた。
「嫌よ。写真なら、アイドルの古品さんとか、撮ればいいじゃない」
会長が言う。
「でも、今、いませんし」
「だったら、縦走さんは格好いいし、弩さんも可愛いし、私なんかより、写真映えするわよ。二人を撮りなさい」
会長が言った。
「いえ、会長さんじゃないと駄目なんです。会長を撮りたいんです! 知的で、凛とした雰囲気のある、鬼胡桃会長さんの写真が撮りたいんです。お願いします」
萌花ちゃんが食い下がる。
縦走先輩に無言でおかわりを要求されたから、僕は残っていたパスタを盛った。
「お願いします。会長さんの今が撮りたいんです」
「まあ、あなたがそこまで言うのなら、撮らせてあげないこともないけれど」
会長はそう言って、髪を気にし始める。
「ありがとうございます!」
結局、萌花ちゃんは会長をその気にさせてしまった。
カメラマンとしての、押しの強さみたいなものが、萌花ちゃんにはあるのかもしれない。
昼食の片付けが終わると、さっそく、リビングで萌花ちゃんの撮影会が始まった。
レフ板を持ったり、カメラを渡したり、弩が萌花ちゃんの助手を務めている。
撮影の様子を見ていたかったけど、僕は夕食の買い出しに出かけなければならない。この炎天下に出かけるのは、少し気後れするけど、もう食料がない。
「よし、荷物運びは私が手伝おう」
縦走先輩がそう言って、付き合ってくれることになった。
「先輩は枝折か花園の自転車使ってください」
「いや、篠岡の自転車の後を走るから、いい」
先輩は言った。
「本当にいいんですか?」
「本当に、いい」
先輩は本当に走って付いて来る。
というか、自転車の僕が追い越された。
近所のスーパーに着く頃には、僕は汗だくになっている。
先輩は僕よりも先について、スーパーの駐車場で、余裕で屈伸運動をしていた。
スーパーに入ると、中の冷気が気持ちいい。
縦走先輩がカートを引いてくれた。
「先輩、何か、食べたい物ありますか?」
僕が訊く。
「そうだな、何でも食べるが、強いて言えば、肉か、肉か、肉だな」
なんという、肉食系。
牛もも肉のブロックが安かったから、これでローストビーフにしよう。
鶏肉も安い。食欲が湧くようなスパイシーなタンドリーチキンも作る。
「先輩、試食はそれくらいにしてください」
スーパーの従業員さんが困っていたから、ハムを口いっぱい頬張っていた縦走先輩を止めておく。
買い物から帰ってきたら、リビングで、萌花ちゃんによる撮影会が佳境を迎えていた。
それも、ただの撮影会ではない。
僕の目に入ってきたのは、鬼胡桃会長の水着姿だ。
会長のボルドーのビキニは、昨日スーツケースに入ってたやつだ。
会長は我が家のリビングのソファーで、水着で足を組んだりしている。
女豹のポーズとか、していた。
「会長、なんで水着なんですか!」
僕が言うと、会長は僕と縦走先輩のほうを見て、「きゃ!」と言って、急に我に返ったように、ソファーの裏に隠れた。
「分からないわ。萌花ちゃんに写真を撮られてるうに、気持ちよくなって、いつの間にか脱いで、水着撮影会になってたの」
鬼胡桃会長が言う。
あれほど写真を撮られるのを嫌がっていた鬼胡桃会長を乗せて、水着にしてしまう萌花ちゃん、恐るべし。
本当に、カメラマンとしての才能、あるのかもしれない。
夕食後に、リビングに集まって、みんなで萌花ちゃんが撮った写真をチェックした。
写真の鑑賞会をやる。
カメラをテレビの大画面に繋いで、写真を映した。
萌花ちゃんが撮った鬼胡桃会長の写真は、お世辞抜きに綺麗だ。
鬼胡桃会長の凛としていて強い部分が、ちゃんと撮れている。
そして、強くて攻撃的なのに、少し脆い感じ、それも写っていた。
それに写真自体も上手い。
周囲がちゃんとぼけていて立体的に見えた。
ピントが会長の目にばっちりと来ている。
普通の民家のリビングという何気ない環境なのに、会長がグラビアアイドルみたいに見えた。
これは後で、絶対コピーさせてもらおう。
「ここから先は、駄目です」
せっかく水着パートに入ったと思ったら、会長がテレビの前に立ち塞がった。
手を広げて画面を隠す。
チッ、いいところだったのに。
「あれ、ここにいるの誰ですか?」
会長の体の隙間から、画面を見ていた弩が訊いた。
「えっ?」
みんなが改めてテレビ画面を見る。
鬼胡桃会長も画面を隠してた手を退けた。
会長の水着の写真。
少しうつむいて、撮影になれていない、初々しい感じの会長(スタイル抜群)。
でも、その後ろ。
誰かが、リビングの磨りガラスのドアの向こうから、中を覗いている。
会長の後ろから、リビングを見ていた。
覗いているのは女の子みたいだ。
黒い髪のショートカットのシルエットが、磨りガラス越しに見える。
そして、女の子は、白いワンピースのような服を着ていた。
「撮っているのは萌花ちゃんで、撮られているのが会長で、縦走先輩は僕と買い物に出てましたし……」
僕が言って、弩を見る。
「私はこのとき、レフ板を持って萌花ちゃんの隣にいました」
弩が言う。
「それに……」
弩は今日、黄色いワンピースを着ていた。
「はははは」
みんなで顔を見合わせる。
「萌花ちゃん、悪戯が過ぎるぞ。今時、心霊写真とか……。今はフォトショで何でもできるし、こんなのじゃ、驚かないぞ」
僕が言った。
声が震えていたかもしれない。
「私、加工なんかしてません。だってフォトショップが入ったパソコン、持ってきてませんし」
萌花ちゃんが首を振った。
僕の部屋にあるパソコンにもフォトショップは入っていない。画像をいじれるソフトといえば、ウインドウズに付属のペイントくらいだ。
画面中の少女は、大きく目を見開いて、こっちをじっと見ている。何かを訴えようとしているみたいだ。
磨りガラス越しに、その強い眼力が見える。
「はははは」
みんなで顔を見合わせた。
なんか、途端に涼しくなる。
涼しくなったというか、ゾクゾクと寒気がした。
「会長、ちょっとおトイレ行きたくなったので、付いてきてください」
弩がそう言って、会長の服を引っ張る。
「いやよ。子供じゃないんだから、自分で行きなさい」
会長が素気なく断った。
「縦走先輩……」
弩が声をかけるも、縦走先輩はソファーに寄りかかって寝たふりをする。
「萌花ちゃん」
「ちょっとカメラの手入れしないと。ゴメンね」
萌花ちゃんが急にレンズにブロアーをかけ出した。
「先輩、おトイレ付いてきてください」
弩がとうとう、僕に訊いてくる。
相当深刻そうな顔をしていた。
「分かった、行こう」
間に合わないと大変なことになりそうだから、仕方なく付き合う。
覚悟を決めて、僕がリビングのドアを開けた。
写真の中で女の子が立っていたドアだ。
ドアを開けて廊下を見る。
誰もいない。廊下の先にも、玄関のほうにも、人はいない。
人でないモノもいない(と思う)。
それを確かめてから、僕達は廊下に出た。
弩は僕の後ろに隠れて、僕を楯にする。
トイレまで、二人で小走りに向かった。
「先輩、ドアの前で、ちゃんと待っててくださいよ」
弩が念を押す。
「分かった。待ってる。どこにも行かない」
そう言って、ドアを閉めた。
「先輩、いますか?」
しばらくすると、中から弩が呼びかけてくる。
「ああ、いるよ」
僕は答えた。
「先輩、いますよね?」
「いるって」
なんか、小さい頃の花園とか、枝折を思い出す。花園も枝折も、夜、トイレに行くのを怖がって、僕に頼った。眠い目を擦りながら、僕はその時もこんなふうにドアの外で待っていたのだ。
弩は、その頃の二人に、そっくりだ。
「先輩、いますか?」
もう一度弩が訊いてきたから、悪戯心が沸いて、僕は黙っていた。
「先輩? 先輩!」
おろおろした弩の声がする。
水を流す音がして、弩が半ベソでトイレから出てきた。
弩はドアの外にいた僕を見付けて、抱きついてくる。
「恐かったです。ホントに恐かったんですから!」
弩は半ベソで、鼻水も垂らしている。
「ゴメンゴメン。本当にゴメンな」
抱きついてきた弩の背中を、ポンポンと叩いて安心させた。
ナイフを構えた暴漢とかには、正面から立ち向かって投げ飛ばしちゃうのに、幽霊とかには弱いらしい。
「幽霊なんていないから」
なんとか弩をなだめて、リビングに連れ帰る。
あれ、そういえば弩、さっき、トイレの後で手、洗っただろうか。
「今日も、ここで、みんなで寝ましょうか?」
僕が提案すると、
「そうね。その方がいいかもね」
会長も簡単に賛同してくれた。
おかげで二日連続、廊下で寝るのを免れた。
これも幽霊のおかげか。
テーブルを端に片付けて、リビングに布団を敷く。
敷きながら、みんなで我が校の校歌を歌った。
誰からともなく、歌い始める。
大声で歌って、邪気を払おうというのだろうか。
気がつくと僕も大声を出していた。
その校歌を、五番まで歌い終わったときだ。
ギイギイと、階段の方から音がして、何ものかが、二階から、階段を降りてくる。
ギイギイと、階段を降りきって、今度は廊下を歩いてきた。
「皆さんにも、この音、聞こえてますよね」
弩が訊いた。
残念ながら、僕の空耳じゃなかったみたいだ。
間もなくして、リビングのドアの磨りガラスに、白いワンピースが映った。
黒髪の少女がドアの前に立つ。
鬼胡桃会長も、縦走先輩も、弩も萌花ちゃんも、みんな僕に抱きついてきて、僕達はそこで固まる。
ドアノブが回ってドアが開いた。
「きゃっ!」
弩が声を出す。
ドアを開けて入って来たのは、枝折だった。
枝折はリビングのドアを開けて、ダイニングを通り過ぎ、キッチンに行った。
冷蔵庫を開けると、中から牛乳パックを取り出してコップに注ぎ、一口飲む。
枝折は白いワンピース、に見える寝間着代わりのロングTシャツを着ていた。
牛乳を一口飲んだ枝折が、僕達のほうを見る。
「お兄ちゃん達、何してるの?」
枝折が冷めた声で訊いた。
枝折がそう訊くのも無理はない。
僕達は、互いに抱き合って、顔を引きつらせているのだ。
「枝折、帰って来てたのか?」
僕がなんとか声を絞り出した。
「うん、朝方帰ってきた。まだみんなが寝てる間にね」
枝折はそう言って、牛乳をもう一口。
「伯父さんが急な仕事で出かけることになったから、予定を変更して帰ってきたの。夜行バスで。みんなを起こさないように、シャワーを浴びて、お腹が空いたから、台所でパン囓って、寝たの。バスで寝付けなかったから」
枝折が言う。
確かに、台所で誰かがパンとヨーグルトを食べた跡があった。
それに、そうか! 僕は、僕も含めて、六人分のパンツを干したんだ。
鬼胡桃会長に縦走先輩、弩に萌花ちゃん、それに僕。それだと五枚だ。
一枚多かった。
それには枝折の分も入ってたんだ。
パンツが一枚多い、そのとき、気付くべきだった。
「枝折ちゃん、もしかして、途中で起きて一階に来た?」
縦走先輩が訊く。
「はい、目が覚めて一階を覗いたら、リビングで何かしてるから、またすぐに二階に戻りましたけど」
心霊写真の少女の正体はそれか。
良かった、幽霊はいなかったんだ。
「なんだぁ」
僕にすがりついていたみんな、急に力が抜けて、床に崩れ落ちた。
引きずられて僕も尻餅をつく。
「先輩ちょっと手をどかしてください」
さっきまで僕に抱きついていたくせに、迷惑そうに弩が言った。
「篠岡君、ちょっと、どこ触ってるの?」
鬼胡桃会長も言う。
「篠岡、そんな所に手を突っ込んで……いや、私は構わないんだが」
縦走先輩が言った。
幽霊の正体が分かった途端に、邪険にされる。
まったく、みんな勝手だ。
昼間ずっと寝ていた枝折に、僕達の残りで、夕飯を食べさせた。
「いいわ、もう布団を敷いちゃったから、今日はみんなでここで寝ましょう。枝折ちゃんも来る?」
鬼胡桃会長が訊くと、枝折はコクリと頷く。
「じゃあ、みんなで、またトランプでもやりましょう」
会長がトランプを持って来た。
本当はやりたいくせに。
でも、いい。
またみんなで夜更かしだ。
夏休みだし、誰にも怒られないし。
リビングのテレビには、例の写真が映ったままになっていた。
誰も見ていないから、僕はテレビを消そうと、リモコンを向ける。
すると、テレビの中の磨りガラスの女の子が、僕に向けて笑った。
笑いかけてきた。
いや、これは見間違えだ。
きっとそうだ。
僕はきっと、疲れているんだな。




