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スペクタクル

 ありのまま、今起きていることを書きます。


 僕はリビングで寝ていると思ったら、隣にヨハンナ先生が寝ていました。


 何を言ってるのか、分からないと思うけど、僕も一瞬、何が起きているのか、分からなかったんです。

 頭がどうにかなりそうです……




「先生、ヨハンナ先生」

 僕は先生の肩を揺すった。

 先生の金色の髪がはらはら落ちて、顔に掛かる。


 左頬を枕につけて横向きで寝ていた僕のすぐ横に、右頬を布団につけて寝ているヨハンナ先生がいた。僕達は向かい合っていて、顔と顔の距離は20㎝ない。先生の寝息が、僕のまつげを揺らすくらいの距離だ。


 近くで見る先生の整った寝顔は、大理石の彫刻みたいだった。

 こんな彫刻がおいてある美術館があったら、僕は開館から閉館まで、その前から離れられないと思う。

 化粧をしていないせいか、そばかすが少し見えるけど、却ってそれが少女みたいな印象を与えて、いつもの先生よりも幼く見えた。

 先生は唇の端から、少し涎を垂らしてるし。


 壁掛け時計を確認すると、朝六時少し前だ。


 このまま先生の寝顔をずっと見ていたいけど、枝折や花園、弩が起きてきて、先生と僕がこうして二人向かい合って寝ているのを見たら、確実に誤解するから、泣く泣く先生を揺すって起こす。


 たぶん、夜中にトイレに起きて、リビングを通って客間に帰るとき、寝ぼけて布団を間違えたか、客間で寝ていて寝相が悪くて動くうちに、襖を開けて、僕の布団に入って来たか、どっちかだと思う(どっちも本来ならあり得ないけど)。

 まあ、先生が本気で僕を襲いに来た可能性も、ないわけではない。


「先生、ヨハンナ先生」

 揺すっても、先生は起きない。


 仕方なく僕は、ヨハンナ先生の背中と膝の裏に手を入れて、お姫様抱っこで持ち上げた。

 そのまま先生を抱いて、客間に移す。

 ヨハンナ先生を布団に寝かせて、脱げかけているスリップの肩紐を元に戻した。

 先生は「う~ん」と悩ましい声を出しただけで、まだ寝ている。


 夏休みが始まった一日目の朝にしてこれだ。


 この先、どんなスペクタクルが僕を待ち受けているのか、予想もつかない。



 すっかり、目が冴えてしまった。

 僕は布団を畳んで、リビングの隅に重ねる。


 さあ、朝食の支度にとりかかろう。

 昨日の今日で、用意もなかったから至って普通の朝食だけど、みんなに満足してもらえるよう、ご飯を作る。

 冷蔵庫の中身と相談した結果、今日の朝食は以下の通りだ。


 アジの干物。

 納豆とオクラ。

 ポーチドエッグ。

 ゴーヤの佃煮。

 ナスとキュウリの浅漬け。 

 豆腐とワカメの味噌汁。


 朝食の準備が大体終わった頃になって、二階から弩が下りてきた。

「先輩、おはようございます」

 まだ、パジャマのままの弩が、そう言って、あくびを手で隠す。

「おはよう」

 僕は答えて、しばらく弩を見詰めてしまった。


「先輩、なんですか?」

 弩が怪訝な顔で訊く。

「いや、普段こうして朝、二階から降りてくるのは枝折か花園のどっちかで、他の人が降りてくることなんてなかったから、もし結婚して、新妻を僕が作った朝食で迎えるときは、こんな感じなのかなって、思って」

 僕が言うと、弩は「ふええええぇ」と言いながら、階段を駆け上がって二階に戻ってしまった。

 朝から騒々しい奴だ。


 入れ替わりで花園が二階から降りてくる。

「お兄ちゃん、弩さんに何かしたの? 顔真っ赤で幸せそうな顔をして、階段を二段抜かしで駆け上がって行ったけど」

「いや、別に。枝折ちゃんと弩、呼んできて、ご飯にしよう」

「うん、分かった」

 黒ウサギの柄のパジャマを着た花園が、ぴょんぴょんと階段を上がっていった。


 さて、あれだけ寝ていた客間のヨハンナ先生を起こすのは苦労するのかと思ったら、先生は起こすまでもなく、自分から起きてくる。

「う~ん、いい匂い」

 どうやら、先生は味噌汁の香りや干物の匂いに釣られたらしい。

 美味しい朝食は、最高の目覚ましなのだ。


「先生、おはようございます」

「おはよう、この家は居心地いいね。ぐっすり寝られたよ」

 先生が言う。お世辞でも嬉しい。

 でも、夜中に僕の布団に潜り込んだことは、全然覚えてないみたいだ。

「年下の男の子にちょっかい出す、いい夢も見られたし」

 先生………

 それ、夢じゃありません。



「いただきます!」

 みんなで朝食のテーブルを囲んだ。

 いつもの三人の朝よりも、少し賑やかな朝だ。


「先生って、夏休みの間はお休みになるんですか?」

 食べながら花園がヨハンナ先生に訊いた。

「そう思って教師になったのに、実際は研修とか講習会とかに出なきゃいけなくて、休みにはならないの」

 ヨハンナ先生が言う。

 言って浅漬けのキュウリを、ぽりぽりと小気味好い音を立てて食べた。

 そう思って教師になったのか。


「普段、長い有給がとれないから、この時期に有給とって、長い休みを作る先生もいるけどね」

 先生が続けた。

 ヨハンナ先生も八月には長い休みを取るらしい。


 普段はあくびをしながら、まだ完全に開いていない目でご飯を食べて、美味しいのか、不味いのか分からない花園が、ご飯をもりもり食べて、おかわりまで要求する。

 いつも小食な枝折も、今日はちゃんとご飯を茶碗一杯食べた。


 二人は絶対に言わないけど、やっぱり、母や父が不在で、寂しいんだろうか。

 こんなふうにみんなで食べる朝食を求めてたんだろうか。


「ごちそうさま!」

 食べ終わった後は、みんなで片付ける。


 学校に行く先生は、身支度にかかった。


 ぼさぼさ頭のすっぴんで、スリップ一枚の姿から、びしっとスーツを着たヨハンナ先生になっていく様子は、動画に撮って残しておきたいくらいだ。


 やっぱり、主夫になって、職場という戦場に妻を送り出す僕は、将来、こんな姿を見るんだろうか。

 こんなふうに職場に向かう妻なら、僕は全力の家事で支えたい、そんなふうに思った。



「いってらっしゃい」

 玄関で、みんなでヨハンナ先生の見送りをする。


 しかし、玄関を出たところで、先生が首を傾げた。

「あれ、車がない」

 先生が言う。

 我が家の駐車場には、父のランドクルーザー70が停まっているだけで、母の車のスペースが空いている。

 先生の青いフィアット・パンダはない。


「あ、そうだった!」

 よく聞いてみれば、昨日、僕をびっくりさせるために、先生はここに車を停めずに、わざわざ少し離れたコインパーキングに停めたらしい。

 そんな悪戯するからです。

「まずい、遅刻する!」

 先生はそう言って走っていった。


 本当に、朝から騒々しい。



「それじゃあ、みんなは朝の涼しいうちに宿題やっちゃって」

 僕が言うと、三人は「はーい」と言って、二階に上がっていった。


 ここからは、僕のお楽しみタイム。

 洗濯の時間だ。


 洗濯機を回して、脱水に入るその直前まで、水流の中で洗濯物が踊る様子を眺める(そのために、洗濯機のある脱衣所には折りたたみ椅子が置いてある)。

 本当にこれは、いつまで眺めていても、飽きない。

 枝折や花園は、何が楽しいのか分からないと言って僕を変な目で見るけど、こうして洗濯機の中の洗濯物を見るのは、F1の周回を見るのとか、マラソン中継を見るとか、そういうのと同じ楽しさがあると思う。


 洗い上がった洗濯物を持って、二階のベランダに出た。

 外は、姿が見えないアブラゼミの声に囲まれていて、うるさい程だ。


 雲一つない夏空に、洗い上がった洗濯物を干していく。

 パンパンと叩いて皺を伸ばした。

 柔軟剤の香りが、その度に辺りに広がっていく。

 先生のスリップやら、弩のパンツやらが、翻った。


 朝から、これだけ洗濯が出来て、壮観だし爽快だ。



 ベランダからリビングに戻ると、そこで枝折と花園、弩が、テーブルの上にノートを広げていた。

「だって、それぞれの部屋に別れてクーラーつけたらもったいないでしょ?」

 僕の言葉を先回りして、枝折が言った。

「ここなら、広いし、ゆみゆみに教えてもらえるしね」

 花園が付け足す。

 三人でテーブルに並んでいると、仲の良い三姉妹みたいだ。

 弩は末っ子だけど。


「ほら、お兄ちゃんも、ここで」

 花園がそう言って、枝折との間に、僕一人が入る分くらいのスペースを空けた。

 花園に言われなくても、このリビングは僕の部屋だし。


 蝉の声を聞きながら、クーラーの効いた涼しい部屋で、みんなで宿題をする。

 熱中症になったりしないように、レモンを搾った水に塩を少し入れて、氷の入ったピッチャーで、いつでも飲めるように用意しておく。


 一時間もすると、花園が僕に寄り添ってきた。

 腕とほっぺたをくっつけてくる。

「なんだよ花園」

「だってお兄ちゃん温かいんだもん」

 花園が言った。

「クーラー寒かった? 温度上げようか?」

「ううん」

 花園は首を振る。

「クーラーで涼しい中で味わう、温かいぬくもりがいいんじゃない」

 花園が言った。


 いや、分かるけど。


 すると、枝折がさり気なく僕に寄り添ってきた。枝折も温もりが欲しいらしい。

 左右を、花園と枝折にくっつかれる。


 弩が、仲間になりたそうにこちらを見ていた。


 すると弩は、本を持ってやおら立ち上がって、僕の背中に、自分の背中をくっつけてくる。そのまま、本を読み始めた。

 三人に三方向から囲まれる。


 クーラーが効いた部屋の中でも、これでは涼しいのか、暑いのか、分からない。



「暑いし、お昼は、そうめんでいいかな?」

 僕が訊く。

 みんなが頷いた。

 時刻は十一時を回っている。


 するとしばらくして、思い詰めたような顔をしていた弩が、口を開いた。


「先輩、私、そうめん茹でていいですか?」

 弩が訊く。

 もちろん、構わない。

 そうめん茹でるのに免許がいるように法律が変わったという話は、聞かないし。


「生まれて初めての料理で、私、弩まゆみ、若干、緊張しております」

 弩が言う。


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(;^ω^)食べられるものができますように
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