修羅場未満
「弩、誤解だ」
河東先生の家のリビングで、女子バレー部員、麻績村まひるさんの頭をマッサージしながら、僕は言った。
「誤解だ、話せば分かるから」
言ってて、説得力がゼロなのは自覚してる。
僕の手の中には麻績村さんの頭があるし。
その麻績村さんは、ソファーの上ですごく気持ちよさそうな顔をしてるし。
「先輩にお尋ねしますが、河東先生が心配で家を見に行かれたはずの先輩が、なぜ、こんなことをしていらっしゃるのでしょうか?」
弩が言う。
なぜ、そんなに畏まった言い方?
なぜ、他人行儀。
ここ数ヶ月、僕達は苦楽を共にしてきた仲じゃないか。
ずいぶん打ち解けていたじゃないか。
「もし、お宜しければ、お説明して頂けたら、この弩まゆみ、恐悦至極に存じまする」
なんか、混乱して弩の敬語が渋滞している。
丁寧すぎる。
最後なんて、お侍さんみたいになってるし。
「この状態になるには、すごく長い話になってしまう事情があるんだ。ほら、麻績村さんからも説明して」
僕は麻績村さんから手を離して、促した。
麻績村さんはソファーから立ち上がって、弩と対峙する。
弩と麻績村さんでは、身長が30センチくらい違うから、弩は麻績村さんを大きく見上げる格好になった。
「弩さん、落ち着いて。私はただ、篠岡先輩にお風呂で、体中についた泡をシャワーで洗い流してもらったあとで、マッサージしてもらってるだけだから」
「はあっ?」
弩の表情がいっそう険しくなる。
一瞬、鬼瓦みたいな顔をした。
いや、確かに、言葉にするとその通りなんだけど、ちょっと説明が足りない気がする。
逆に誤解が深まった気がする。
ってゆうか、完全に深まった。
「あと、パンツまでびっしょり服が濡れちゃったから、篠岡先輩に着替えさせてもらっただけなの」
麻績村さんが続ける。
「あの、着替えさせたんじゃなくて、着替えを持ってきてあげただけだよね、僕は。実際、服を脱がせるとか、着替えを手伝ったりはしてないよね」
僕は補足説明するはめになった。
「ああ、そうでした。あと、今度髪を洗ってもらう約束をして、メアドと電話番号を交換しただけでした」
麻績村さんが言って舌を出す。
なんか、どんどん深みにはまっている。
その深みはきっと、マリアナ海溝くらい深い。
仕方なく僕は弩に、この家に入って起きたことを、最初から丁寧に説明した。
これなら、最初から全部、僕が一人で説明したほうが良かった。
「そういうことですか。まあ、納得はしました」
全然納得していない顔で、弩が言う。
弩は横目で僕に鋭い視線を送っていた。
「でも、もし仮に私と篠岡先輩に何かあったとして、どうして弩さんがそれを心配するんですか?」
麻績村さんが弩に訊いた。
「それで、なんかまずいことでもあるのかな?」
言って、弩を上から見下ろす。
「私は、私は篠岡先輩の妻ですから」
弩が言った。
「えっ?」
「寄宿舎で主夫部に家事をしてもらっている私達は全員、主夫部の妻なんです!」
弩は少しでも麻績村さんに対抗しようとしたのか、爪先立ちになっている。
「ああ、そういうこと。でも、それだったら私だってさっき家事をしてもらったから、妻ですよね」
麻績村さんが言った。
「私なんて、先輩に毎日パンツ洗ってもらってるし、ベッドのシーツ替えてもらってるし、何度もお姫様抱っこされてるし、ほっぺたについたご飯粒を取ってもらったりしてるから!」
なんかそこだけ抜き出すと、僕がとんでもない人間みたいじゃないか。
「私だって、今日会ってその日に洗濯してもらったし、料理も教えてもらったし、マッサージもしてもらったんだから!」
弩に覆い被さるような勢いで、麻績村さんが言った。
「まあまあ、二人とも、僕を巡って争わないでほしい。僕はどこにも逃げないから」
僕が言うと、
「別に争ってませんけど!」
「先輩、なに調子に乗ってるんですか?」
二人から睨み付けられた。
僕は一体、どうしろと……
僕達が、修羅場にならないような緩い修羅場を演じていると、僕のスマートフォンに、電話が掛かってくる。
丁度いいタイミングで、僕はその場から逃げるように電話を取った。
「今、河東先生が学校の駐車場で車に乗るところです」
前と同じ、番号非通知の電話で、ボイスチェンジャーを使った低い声だ。
「早くそこから去りなさい。前みたいに鉢合わせになりますよ」
何者かは知らないけど、この人物の情報が確かなのは、経験的に分かっている。
「弩、帰ろう。先生が戻ってくる」
でもなんとか、電話のおかげでこの場を収められそうだ。
いや、正確に言うと、この場から逃げられそうだ。
帰って来る河東先生に挨拶する麻績村さんを残して、僕と弩は先に家を出る。
「先輩、約束、忘れないでくださいね」
勝手口で、麻績村さんが言った。
「先輩、行きますよ」
弩に手を引っ張られる。
僕は弩に手を引かれながら、後ろを向いて麻績村さんに手を振った。
「まだ怒ってる?」
寄宿舎へ帰る道で、僕が訊く。
「怒ってません」
完全に怒っていた。
弩は僕の手を強く握って、引っ張って歩く。
「弩、痛いよ」
僕が言うと、弩は「あっ、すみません」って気がついて、手を放した。
言わなきゃ良かったかも。
「でも、弩が『私は篠岡先輩の妻ですから』って言ったときは、なんか嬉しかったな」
僕が言うと、弩は答える代わりに歩みを速くする。
僕が追いついていくのに苦労するくらい、速くなった。
長い髪が揺れていて、夏服のセーラ服の弩をこうして後ろから追いかけるのも悪くない、と思った。
弩は将来、大弓グループの最高責任者として、こうしてずんずんと進んでいくんだろう。
そのとき、その背中をこうして見守るのは、一体誰なんだろうか?
弩のまだ小さい背中を見ながら、僕はそんなことを考えた。
そのまま僕達は、口を聞かずに寄宿舎まで帰る。
寄宿舎に帰ると、こちらの夕食の準備も整っていて、寄宿生のみんなが席に着くところだった。
「弩さん、何かあったの?」
帰ってきた弩を見て、勘の鋭い古品さんが訊く。
「いえ、何にもありません」
弩が不機嫌そうに言った。
古品さんが肩をすくめる。
「で、家のほうはどうでした?」
僕を待っていた萌花ちゃんが、さり気ない様子で訊いてきた。
「うん、家は綺麗だったよ。家事は有志のバレー部員が手伝ってくれてたりして、上手くやってるみたい」
僕が言うと、萌花ちゃんは「そうですか」と、さして気にしていないようなふりをする。
本当はすごく心配していたくせに。
いつか、二人が和解して、また一緒に仲良く暮らせるようにしてあげたいと思った。
そのためにも、萌花ちゃんが写真家になることを手伝ってあげたい。
早く夢を叶えられるよう、手伝いたい。
それが僕達、主夫部の目標だ。
「それじゃあ、頂きましょうか」
鬼胡桃会長が言って、寄宿生のみんなが、「頂きます」と声を揃えた。
ちょっと前まで、「食べてあげるわ」の号令で食べ始めていたのが、最近は「頂きます」を言ってもらえるようになった。
ちょっとした進歩だ。
こうして主夫部は、少しずつだけれど、前進している。
◇
生物準備室で明日の授業の準備をしていた吉岡教諭は、自分のスマートフォンが振動したのに気付いて、手に取った。
それが非通知からの着信であると分かると、辺りを見渡す。
この部屋に自分以外の人間がいないことを確認して、電話を取った。
「今回は素早い連絡で良かったぴょん。先生はやれば出来る子だぴょん」
電話口の声は、無邪気な声だった。
無邪気だけれど恐ろしい、あの黒ウサギの声だ。
「これからも、河東先生の動向を知らせるぴょん。教職員の間で、主夫部に関わる動きがあったら、迅速に知らせればいいぴょん」
「このまま僕は、君達のためにずっとスパイしなければいけないのか?」
「ずっとしないとダメだぴょん。でも、ウサギが黙ってるおかげで、先生は生徒にもヨハンナ先生にも、いい人って思われてるぴょん。それだけでも儲け物だぴょん。教師にとって、生徒から信頼されることは、何ものにも代え難い喜びだぴょん」
ウサギが言って、吉岡教諭は深い溜息をついた。
「君達は一体、主夫部の何なんだ?」
「私達はただの黒ウサギだぴょん。それ以上でも、それ以下でもないぴょん」
吉岡教諭は、ウサギの声の背後から聞こえる音に耳を澄ませて、何か正体を突き止めるヒントになりそうな特徴的な音が聞き取れないか、試みる。
「それから、先生がもし、ウサギの正体を探ろうとしたら、血を見ることになるぴょん。血の雨が降るぴょん。先生はそれを心に深く、刻んでおくといいぴょん」
黒ウサギからの電話は、そう言って一方的に切られた。
ウサギは何でもお見通しのようだ。
通話が切られたあとも、吉岡教諭はそのまましばらく、ただスマートフォンの画面を見ていた。
そして、それを忘れるために仕事に戻った。




