バブル
河東先生の娘、萌花ちゃんは、寄宿舎での生活に順調に馴染んでいった。
元々、弩とは友達だったし、他の寄宿生は一癖も二癖もある人ばかりだけれど、基本、面倒見がいいから、萌花ちゃんは「たくさんのお姉ちゃんが出来たみたい」って喜んで慕うようになった。
僕達主夫部がする家事の手際の良さに、萌花ちゃんは最初、驚いていたものの、二、三日したら、だいぶ慣れたようだ。
僕達の家事に慣れて、空気みたいなものだと思ってくれればそれでいい。
初日みたいに、食事を作るたび、弁当を渡すたびに「ありがとうございます」って丁寧にお礼を言われたり、制服やパンツを洗うたびに「すみません」って謝られたら、こっちも疲れてしまう。
慣れすぎて感謝の言葉一つもなく、服を廊下に脱ぎ散らかすヨハンナ先生みたいになるのは、考えものだけど。
受け入れた側の僕達の主夫部のほうは、今までよりも一人、人数が増えたというだけで、あまり変化はなかった。
一人分増えたくらいなら、別に今までの家事の手順を変える必要もない。
ただ一つ、困ったのは、萌花ちゃんが寄宿舎の中で、ヨハンナ先生の写真を撮りまくることだ。
あの容姿で中年男性みたいな行動をするヨハンナ先生には、萌花ちゃんもその芸術的センスが刺激されるらしく、シャッターチャンスを見付けては瞬きするみたいに、パチパチと写真を撮る。
暑いこの時期、ヨハンナ先生は寄宿舎の中を半裸みたいな格好で歩き回るから、僕は萌花ちゃんが写真を撮ろうとする度に、先生に服を着せなければならなかった。
萌花ちゃんが来てから、先生に服を着せる仕事が増えたのが唯一の変化だ。
ヨハンナ先生に服を着せる仕事。
そこだけ抜き出すと、なんか、すごく夢のある響きがする。
そして、あれ以来、河東先生からは、管理人であるヨハンナ先生や、寄宿舎への接触はなかった。
もちろん、主夫部に対する接触もない。
新しい環境で娘がどうしているか、とか、一度くらい見に来てもいいのに。
先生と萌花ちゃんは、学校ですれ違っても、他の生徒のときと同様、ちょっと会釈するくらいで、会話はないらしい。
それだけでも、毎日、チラッとでも顔が見られるから安心なんだろうか。
元気でいることが分かるから、いいのか。
でも、萌花ちゃんのほうは、こうして僕達主夫部が鉄壁の家事でお世話しているからいいけど、一方で残された河東先生は、家で一人、どうしているんだろう。
ここ数日、僕はそれが気掛かりだった。
河東先生の家は、散らかったり、シンクに汚れた食器が溜まったりしていないだろうか。
洗濯機に洗濯物が溜まったりしていないだろうか。
先生はちゃんとした食事をとっているのか、それも気になる。
それで僕は、放課後の主夫部の会議で、河東先生の家を見に行ったらどうかと、提案してみた。
「ははは、篠岡。君はおかしなことを言うなあ」
母木先輩はそんなふうに言った。
「そうですよ、先輩。河東先生が僕達主夫部にしたこと忘れたんですか?」
御厨が言う。
「篠岡、何か企んでいるわけじゃないよな。河東先生に復讐しようとか、やめとけよ」
僕が純粋に河東先生を心配してるって信じない錦織は、曲解してそんなふうに言った。
「篠岡、僕達は萌花君のためなら、どんなことだろうと、労を惜しまないが、河東先生に義理はないぞ。遺恨はあってもな」
母木先輩が言う。
僕だって先輩の言うとおりだと思う。
先輩のほうが100%正しい。
でも、気になって仕方がないのだ。
河東先生だって、一度は洗濯物を洗ってあげた間柄だし。
「分かりました。それじゃあ、僕一人で行ってきます。もちろん、主夫部には迷惑をかけません。これは僕の単独行動です」
僕が言うと、母木先輩の口元が、少し笑った。
ヤレヤレって感じで。
それに釣られて、みんなも笑う。
「篠岡先輩らしいです」
「篠岡だな」
御厨と錦織が言った。
「君がどうしても行くというなら、僕達は止めない。但し、家の中を見るだけにしておけよ。手出しは無用だ。たとえ、家の中が汚れていても、片付けてはいけない。それはなにも、勝手に家に侵入したのがばれるとか、そういう話じゃない。先生には先生の生活スタイルがあるからだ。一生付き合うつもりでもない限り、手を出してはいけない」
先輩は、大人な忠告をする。
「はい。分かりました」
結局、部のみんなは許してくれた。
みんなに送り出されて、僕は河東先生の家に向かう。
ソファーで今日のおやつ、ライチ風味の杏仁豆腐を食べていたヨハンナ先生は、もうなにも言わなかったし、なんの反応も見せずに、杏仁豆腐を食べ続けた。
たぶん、僕が変なことを言い出すのに、慣れてしまったんだろう。
これは先生の進化なのだろうか。それとも退化か。
念のため、家に行く前に体育館を覗いて、河東先生がそこにいるのを確認しておいた。
もう、前みたいに、先生が体育館を抜け出して、家の中でばったり出くわす、なんてことがないのを祈ろう。
河東先生の家の鍵は、以前、萌花ちゃんに教えてもらったままに、勝手口のカエルの置物の下に、あった。
それを使って家に入る。
家に入った途端、僕は異変に気付いた。
焦げ臭い匂いが鼻を突く。
卵か何か、タンパク質が焦げた匂いがした。
匂いの元は、ガス台の上のフライパンみたいだ。
ガス台の上に、焦げたフライパンが放置されている。
フライパンの中で、卵焼きを作ろうとしたような、長細い塊が炭になっていた。
僕は急いで換気扇を回す。
異変は焦げたフライパンだけではない。
ガス台の横のシンクには、洗っていない食器や、調理器具が、そのまま突っ込んであった。
三角コーナーにもゴミが溢れるほど溜まっている。
たぶん、ジャガイモの皮だろうけど、中身の部分が分厚く付いた皮が、山盛りに捨ててあった。
床には、塩か砂糖か、白い粉粒が床にばらまかれていたり、小麦粉のような細かい粉も散っている。
冷蔵庫が半開きになっていて、ピーピーと警告音が鳴り続けていた。
これは酷い。
いくら河東先生が忙しいとはいえ、一週間もしないうちにこんな荒れた状態になってしまうなんて。
萌花ちゃんが家事をしなくなっただけで、こんなに汚くなるとは……
ヨハンナ先生といい、この河東先生といい、先生という人種は、こうも整理整頓が出来ないんだろうか。
それとも、特別なツートップがこの学校に集まってしまっただけなのか。
駄目だ。
こんなに酷い家の中を見ていたら、我慢ができなくなった。
片付けよう。
母木先輩、言いつけを守れなくて、済みません。
我慢できない僕を許してください。
でもたぶん、この惨状を見たら、先輩だってきっと片付けてしまうはずです。
体が勝手に動きます。
僕が心の中で先輩や主夫部のみんなに謝って、鞄に常備しているエプロンを広げたときだった。
「きゃーーーーーーーーー!」
脱衣所のほうから、悲鳴が聞こえた。
ちょっと鼻にかかった、でも可愛らしい声だ。
少なくともそれは、河東先生の悲鳴ではない。
萌花ちゃんの声でもない。
脱衣所に走っていってドアを開けると、中から真っ白な泡がどばっとはみ出してきて、廊下に溢れた。
泡は中からどんどん流れて、廊下に広がっていく。
これ以上、泡が廊下に広がったらいけないから、僕は脱衣場の中に入ってドアを閉めた。
脱衣場の床は、風呂場まで辺り一面、泡だらけだ。
泡は僕の膝の高さくらいまで積もっている。
泡の発生源は洗濯機みたいだった。
僕は動いている洗濯機の蓋を閉めて、緊急停止する。
泡はそのあともしばらく出続けて、漸く勢いが止まった。
「すみませーん。どなたですか? 助けてくださーい」
泡の中に、誰かいる。
さっき悲鳴の主か。
「転んじゃって、滑って起きれませーん」
泡の中から、助けを求める手がにょきっと生えてきた。
助けを求めている割には、随分とのんびりした声だ。
僕はその手を取って、助け起こす。
助け起こすと、その声の主は、僕よりも相当背が高く、百八十センチ以上あった。
百八十センチ以上ある大きな泡の塊が、僕の前に立っている。
僕と大きな泡の塊は、河東先生の家の脱衣所で対峙した。
正体不明の泡の塊と、不法侵入者の僕と。
この場合、怪しいのは一体、どっちなんだろう?




