アナコンダ
僕は河東先生の家の、リビングのソファーに座らされている。
脱衣所で見つかって三十分は経ってるけど、幸運なことに僕の命はまだあった。
河東先生は僕の対面に腕組みで座っている。
脱衣所で見つかったとき、先生は怒鳴ったりしなかった。
無言で僕の手からパンツを取り返すと、顎で示して僕を脱衣所から出し、顎で示してリビングに導き、顎でソファーに座るよう命じた。
言葉を発せず僕を操った。
先生は手を出したり、大声を出したりせず、冷静だった。
だからこそ余計に怖い。
それにしても、先生を監視しているはずの弩はどうしたんだ。
居眠りでもしていて、先生が体育館から出るのを見逃したのか?
大体、先生はなんで僕がここにいるって気付いたんだ。
それに、僕に警告したあの電話は誰だ。
対面の河東先生の冷たい視線を浴びながら、僕は色々と考える。
「あの、お茶でも入れましょうか?」
沈黙が怖くて、僕は訊いた。
先生から返事はない。
「紅茶か、緑茶がいいですか? それとも、茶箪笥にジャスミンティーの買い置きがたくさんありましたけど、入れましょうか? 先生ジャスミンティーお好きなんですか?」
この場を主夫力で乗り切ろうと訊いてみた。
美味しいお茶を入れて、お茶菓子でも出せば、案外この場を乗り切れるかもしれない。
「へえ、あなたは私の家の台所のこと、なんでもよく知っているのねぇ」
先生は平板な声で答えた。
まずい。
完全に薮蛇だった。
ってゆうか、藪からアナコンダくらいのやつを出してしまった。
それも、テレ東でやってるB級映画に出てくるみたいなアナコンダだ。
「この調子だと、あなたに家中を見られたのかしら? 押入れの中から、箪笥から、机の引き出し、全部見られたのかしら?」
「いえ、プライバシーを侵すようなところは見ていません。家事に必要なところしか、見てません」
「本当かしら?」
「本当です。先生の部屋の箪笥だって、洗濯物の畳み方を確かめるために、一番上のTシャツが入ってる引き出しと、上から三番目の下着の引き出ししか開けてません」
僕は誤解を解くために言っておいた。
でも、なんか違ったみたいだ。
僕はアナコンダをもう一匹出してしまった。
しかも、さっきより大きい奴。
牛くらい丸吞みしそうな奴を……
「先生はどうして、僕がここで萌花ちゃんの代わりに家事をしてるって、分かったんですか?」
仕方なく、僕はストレートに訊いてみた。
これ以上、策を弄しても、墓穴を掘るだけだ。
「昨日、娘のカメラを確認していて気付いたのよ。あなた達主夫部の連中が、こともあろうに、この家の庭で、呑気に記念写真を撮っている映像が、カメラの中にあったの。私の知らぬ間にね」
ここに初めて来たとき、萌花ちゃんに撮ってもらったやつだ。
あれを見られてたのか。
昨日の時点でもう、僕達が来ていることは先生にバレてたらしい。
でも先生、娘のカメラを勝手に確認するなんて、酷いじゃないか!
「あなた達が私を見張る目的で体育館に紛れ込ませていた主夫部の女子生徒は、今頃、私のバレー部員にしごかれているわよ。体育館にいるんだから、体験入部しなさいと言って、観客席から引っ張り出したの。私が体育館にいないことを、あなた達に連絡させないようにしておいたから」
弩のこともばれていたらしい。
弩も僕同様、向こうで捕まってしまった。
女子バレー部の背の高い先輩達に囲まれて、弩は今どうなっているんだろう?
体験入部を口実に、どんなしごきを受けているのか。
弩、弩が見張りをさぼって居眠りしてるんじゃないかって、疑ってすまない。
本当に、ゴメン。
僕が河東先生と緊迫のやり取りをしていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。
廊下を誰かが走って来る。
「おかえりなさい」
河東先生が言った。
先生に電話で呼び戻された萌花ちゃんだ。
萌花ちゃんは肩で息をしていた。
いつも首から提げているカメラも、今は見当たらない。
参加していた写真家のワークショップから、取る物も取り敢えず、戻ってきたんだろう。
リビングで対峙している僕と母親を見て、萌花ちゃんは絶句する。
萌花ちゃんは僕に対して、目だけで「すみません」って謝った(ような気がする)。
「萌花、座りなさい」
ここでも先生は怒鳴ったりしなかった。
こめかみに血管が浮いていたけど、我慢していた。
「ごめんなさい。わたし、ワークショップに出たくて、それで家事を代わってもらったんです。主夫部の皆さんは全然悪くありません。私が強引に頼みました。だから、皆さんのことは、怒らないでください!」
萌花ちゃんは、母親に対して、必死になって弁明した。
僕達のことを庇ってくれる。
「篠岡君? とかいったっけ。あなたはもういいわ。この家から出て行きなさい。ここからは、家族の問題です」
河東先生が言った。
「いえ、僕達がこの家で家事をしたからには、先生も萌花ちゃんも、僕達主夫部の妻です。家族です。だから、出て行きません。家族の問題は僕達の問題です」
僕は母木先輩みたいに言ってみた。
先輩なら、こんなふうな言い回しで、河東先生に対して渡り合ってしまう気がする。
だけど僕は、河東先生に引っ張り出されるようにして、玄関まで連れてこられた。
僕の発言は丸ごと無視された。
やっぱり、まだ僕は母木先輩みたいに、弁が立たない。
相手を言い負かしてしまう力はなかった。
「さあ、出て行って」
玄関で先生は野良猫でも追い払うみたいに僕を追い払う。
その後ろで、萌花ちゃんが何度も「すみません」と言って頭を下げていた。
仕方なく、僕は一礼して家を出る。
先生は、玄関のドアをバタンと、家が軋むほど乱暴に閉めた。
学校に戻るために来た道を歩いていると、途中で母木先輩と錦織、御厨と出くわす。
「おい、篠岡、どうなってるんだ?」
母木先輩が訊いた。
先輩達も、急いで河東先生の家に駆けつけるところだったみたいだ。
僕はみんなに今あったことを説明した。
家事をしていたら、突然、河東先生が帰ってきて、先生が萌花ちゃんを呼び戻したことを。
「先輩達はどうしてここに?」
河東先生を目の前にして、スマートフォンを触るわけにもいかなかったから、連絡出来なかったのに、先輩達は僕の異変を察してここに来ている。
「ああ、匿名の電話があったんだ。河東先生が体育館を抜け出して、走って家に向かったようだから、篠岡を救出してあげて欲しいと」
詳しく聞くと、その声は僕が聞いたのと同じ、ボイスチェンジャーを使ったような声だったらしい。
部室で電話を受けた先輩達は、胸騒ぎを感じて僕に連絡を取ろうとして通じず、家まで走って向かう途中だった。
「あっ、そうだ弩が大変なんです!」
「弩が? どうした?」
「はい、河東先生によると、弩が先生を監視してたのがバレてるみたいなんです。弩は女子バレー部員に捕まって、体験入部という名のしごきを受けてるんです!」
「なんだって!」
母木先輩が大声を出して、僕達は走り出す。
急いで学校に戻った。
屈強なバレー部員に囲まれて、弩は泣きながらしごきを受けてるんじゃないか。
練習を名目に、わざとボールをぶつけられているんじゃないか。
腹筋や腕立て伏せを、無理矢理やらされてるんじゃないか。
ふええ、と言っても誰も取り合ってくれずに、笑われてるんじゃないか。
悪いイメージしか浮かんでこない。
弩、今行くから待ってろ!
頼む、どうか無事でいてくれ!
僕達が体育館に駆けつけると、弩は体操着に着替えて、バレーをしていた。
二チームに分かれた紅白試合の真っ最中だったみたいで、弩はレギュラーメンバーチームでセッターをしている。
背の高い先輩達に交じって、弩はよく動いていた。元からこのチームにいたと言われても分からないくらい、馴染んでいる。
一セット終わったところで、僕達が手招きすると、弩はバレー部の先輩に断りを入れて、僕達のところに来た。
「弩、なにしてるんだ」
僕が訊く。
「はい、河東先生を監視していたら、バレー部の先輩達が来て、体験入部しない? って言われて。断れずにフロアに下りてやってたら、なんか私、背が低いけど、セッターとしての才能があるみたいで、紅白戦に加えてもらっちゃって。お世辞だと思いますけど、バレー部入らない? って誘われちゃいました」
弩はそう言って舌を出した。
てへぺろした。
心配していただけに、僕達はその場で膝から崩れ落ちそうになった。
安心したのと、気が抜けたので、クラクラする。
「弩、君はなにか大切なことを忘れてないか?」
母木先輩が訊いた。
「河東先生の監視はどうなったのかな?」
御厨が続けて訊く。
「えっ? あっ、そうだ、先生、あれっ?」
弩は周囲を見回す。
御厨に言われて、漸く、体育館に河東先生がいないことに気付いたらしい。
それくらい、バレー部の練習に夢中になってたらしい。
「ごめんなさい。私……てっきり、先生がいると思って……あのあの、なにかありましたか?」
弩が恍けた顔で訊く。
「いや、特になにもなかったぞ」
僕は冷静を装って言ったけれど、声が震えてたかもしれない。
まあ、弩が無事だったから、いいけど。
でも、このままペナルティなしにするのも甘いから、とりあえず今日洗濯するとき、弩の部屋着のショートパンツの紐を、固結びで結ぶ悪戯をすることに決めた。
あと、明日履いていく靴下を裏返しにして畳んでやる。
そして、弩がぐっすりと眠れるように、部屋の掃除のとき、毎日枕を叩いて中の羽根をほぐしてあげてるけど、今日はそれもなしだ。
でも、とにかく、無事で良かった。
それにしても今頃、萌花ちゃんと河東先生の話し合いはどうなってるんだろう。
そして、先生がこのまま主夫部を許すわけがない。
僕達はこれから、どうなってしまうんだろう。




