たこ焼き 8×12
梅雨らしい、はっきりとしない曇り空の朝だった。
休日の土曜日も早起きして寄宿舎に朝食を作りに来た僕達は、食後、アルバイトに向かう弩を送り出す。
紫陽花模様のワンピースに麦わら帽子の弩は、少し緊張していた。
「ハンカチは持ったか?」
「切符の買い方は分かるな?」
「変な人に声を掛けられたら、防犯ブザー鳴らすんだぞ」
主夫部の男子部員が口々に声を掛ける。
「もう、大丈夫です! 私は子供ではありません!」
弩が口を尖らせた。
そうやって口を尖らせるのが、まだ子供の証拠なんだけど。
「アルバイト頑張ってこい」
母木先輩が言う。
「はい、色々と学んで参ります」
緊張してるけれど、弩は目をキラキラさせていた。
新しいことに挑戦する好奇心が、緊張に勝ってるみたいだ。
「いってらっしゃい」
僕が言った。
「いってきます」
弩が少し硬い笑顔で言う。
僕達は、弩が林の中の獣道に消えていくのを見送った。
妻を仕事に送り出す主夫とは、こんな感じだろうか?
いや、これはちょっと違う気がする。
初登校の小学生の娘を送り出すみたいだ。
「さあ、僕達は粛々とカフェの準備を進めようじゃないか」
母木先輩が言って、僕達は掃除道具を持ってカフェ予定地の第二視聴覚室に急いだ。
さすがは文化祭前の土曜日で、校内には平日と変わらないくらいの生徒がいる。
授業がなくてみんな活気に満ちている分、いつもより賑やかだった。
私服だったり、仮装していたり、みんなの服も様々だ。
廊下で、じょうろを持って足にミサイルのようなものをたくさんつけた女子生徒とすれ違ったけど、これって何かのコスプレだろうか?
第二視聴覚室の空気は、やっぱりどんよりと淀んでいた。
とにかく窓を全開にして、新鮮な空気を導き入れる。
「今日中にこの教室を現状回復してしまおう。僕達はマイナスからのスタートだ」
母木先輩が言って、自分と僕達を奮い立たせるために、パンパンと手を叩いた。
カフェとして装飾する前に、まず教室を使えるようにしなければならない。
主夫部の男子部員全員でそれに当たる。
ぼやで煤が付いた壁はクリームクレンザーで擦った。
これは母木先輩からの教えだ。
先輩の掃除知識は半端ではなかった。
ぼやを出すつもりはないけど、これは将来、主夫になる上で、役立つ知識だと思う。
僕達は確実に主夫になる能力を高めている。
「そういえば、ヨハンナ先生、見掛けませんね」
壁を擦りながら御厨が言った。
確かに、寄宿舎で弩を見送るときもいなかった。
朝からヨハンナ先生を見掛けていない。
主夫部の顧問だし、寄宿舎にいると引っ張り出されて手伝わされると思って、逃げたんだろうか。
お腹が減ったとか騒ぎ出さないから、いないならいないで作業が捗るけど。
全員で黙々と作業して、壁と天井は本来の白さを取り戻した。
でも、煤落としだけで午前中いっぱいかかってしまった。
そのまま、床の掃除と修理に入る。
昼ごはんは第二視聴覚室でそのまま、作業を続けながら合間におにぎりを食べて済ませることになった。
ところで弩は、昼ご飯を食べただろうか。
食べる暇はあるのか。
他の店員さんと上手くやっているだろうか。
お客さんに迷惑かけていないだろうか。
そもそも、一人でアルバイトをするカフェまでたどり着けたのか。
「篠岡、手が止まってるぞ」
母木先輩に注意された。
考えているあいだに、作業が疎かになっていたらしい。
「すみません」
僕は、弩のことを頭から追い出した。
追い出したはずなのに、エプロンをつけてちょこちょこ歩き回っている弩の姿が脳裏をかすめる。
そういえば、仕事をしている最中、弩は長い髪をどうしているんだろう。
あの髪はカフェでの仕事には邪魔なはずだ。
後ろでまとめているんだろうか。
それとも、ポニーテールにしているのか。
ツインテールはないだろう。
三つ編みはあるかもしれない。
カフェの年上のお姉さんに、弩が髪を編んでもらっている姿を想像して、少し萌えた。
知らぬ間にまた、手が止まっていたらしい。
「篠岡、ちょっといいか?」
母木先輩に声を掛けられる。
怒られるのかと思ったら、違った。
「用事を頼まれてくれるか?」
「はい、いいですけど」
「ここに行って、ランプを受け取ってきて欲しい。カフェのインテリアにするランプを借りることになってるんだ。話はついているから、行ってくれ」
母木先輩はそう言って、行き先のアンティークショップの住所を書いたメモを渡す。
「はい、分かりました、でも……」
先輩から受け取った店の住所を見ると、弩がバイトしているカフェの近くになっていた。
そういうことか。
「それじゃあ、頼んだぞ」
母木先輩はそう言って、床を直す作業に戻る。
僕に弩を見てこいって言ってくれているんだろう。
作業に身が入らないなら行って来いと、そういうことか。
こうやってさり気ない気配りが出来るような人間になりたい。
僕は先輩に頭を下げて、ありがたく、見に行かせてもらう。
弩がアルバイトをしているカフェは、店の前にオープンテラスがある、雰囲気の良いカフェだった。モスグリーンの落ち着いた色の壁に、ピンと張った真っ白な日よけが鮮やかだ。
土曜の午後だけあって、店内は混んでいて、オープンテラスのテーブルにもたくさんの客がついている。
僕は道路の反対側の街灯の影に陣取った。
そこでスマホを弄っているふりをしながら、テラスや店内をチラ見する。
しばらく見ていると、弩がテラス席のテーブルに出て来た。
他の店員と同じように白いパリッとしたシャツに、壁の色と同じ、モスグリーンのエプロンを付けている。
髪は後ろでまとめて捻って、シニヨンヘアにしていた。
耳とうなじが見えているためか、普段の弩よりも軽快で、活発に映る。
テラスに出てきた弩は、カップルの客に自然な笑顔で注文を取って、再び奥に消えた。
店内で、テーブルの上を片付けたり、他の店員についてもらってレジを打ったり、僕の想像していた弩とは違って、てきぱきと仕事をこなしている。
合間を見つけて店の外を掃除したり、通行人に道を聞かれて答えたり、何年も前から務めているように店員をしていた。
少なくとも、今日初めて店に入ったようには見えない。
失敗ばかりで怒られて、泣いているんじゃないかとか、帰りたいと駄々をこねているんじゃないかとか、勝手に心配して見に来た自分を恥じた。
弩のことを解ったつもりでいた自分を恥じる。
と同時に誇らしかった。
自分達の妻が、こんなふうに颯爽と仕事をしている姿は、自分のことのように誇らしい。
さあ、僕も自分の仕事に戻ろう。
この辺で引き上げようとした、そのときだ。
店の前の街路樹に隠れている金髪女性に気付いた。
金髪の長い髪に日本人離れした容姿、すらっとしたスタイル。
どう見てもヨハンナ先生だ。
オレンジ色のキャップを目深に被って、ティアドロップ型のサングラスをかけてるけれど、先生だ。
これで変装したつもりだろうか。
しばらく街路樹の影で店内を窺っていたヨハンナ先生が、踏ん切りをつけたようにカフェに入ろうとするから、僕は急いで道路を渡って、直前で先生の手を引いて止めた。
なんだか補導しているみたいだ。
教師と生徒で立場が逆だけど。
「なんで私だって分かったの?」
先生がサングラスを外して訊く。
「だって、そのままヨハンナ先生ですから」
「そう? 私だって分かる」
「はい、ばればれです。一ミリも隠れていません」
僕が言うと、先生は口をぽっかりと開けて固まった。
いや、そんなびっくりしたような顔をされても……
「なにしてるんですか?」
「いやあの、いつものように休日のカフェ巡りをしていたら、知り合いによく似た子がバイトしてるなーと思って」
嘘だ。
いつも休日は寄宿舎で昼頃まで寝てるじゃないか。
カフェ巡りとかしないじゃないか(居酒屋巡りなら解るけど)。
「帰りましょう。弩は一生懸命やってるようですし、邪魔したらいけません」
「せっかくだから、こうやってバレないように普通のカップルとして入店して……」
先生が僕の腕に手を絡めて来た。
「確実にバレます!」
僕が強めに言って、ヨハンナ先生は渋々店に入るのを諦めた。
まあ、僕だってこうして弩を覗きに来たんだから、先生のことはそんなに責められない。
それに、ヨハンナ先生は初めてアルバイトをする弩が心配で、わざわざ見に来てくれたんだろう。
いい加減なようでいて、実は我が校の教師の中で、誰よりも生徒に熱心なのがヨハンナ先生じゃないだろうか。
改めて先生のことを見直した。
それにしても、先生に手を絡められて休日の街に立っていると、周囲の視線が痛い。
僕みたいな奴がなぜ、あんな素敵な女性と? と思われてるみたいだ。
この人の中身は四十代の中年男性ですから、と言いたくなる。
ただの教師と生徒ですから、と言い訳したくなる。
ああでも、教師と生徒が腕を絡めて歩いていることのほうが問題か。
せっかくだから先生に腕を絡めてもらったままで、僕達は店の前を離れた。
アンティークショップで母木先輩に頼まれたランプを受け取って、ヨハンナ先生の車で学校に帰る。
弩は辺りが暗くなって、七時過ぎに寄宿舎に帰ってきた。
「ただいま、戻って参りました」
疲れているのか、弩の声は少し掠れていた。
「おかえり!」
寄宿生と主夫部、全員で弩を迎える。
鬼胡桃会長まで玄関に迎えに出ていた。
弩は僕達を見て、ほっとしたような笑顔を見せる。
それまでぴんと張っていた背筋が丸くなった。
「初めてのアルバイトはどうだった?」
母木先輩が訊く。
「カフェのこと、少しは分かったか?」
錦織が訊く。
「いえ、一日では全然分かりません」
弩は包み隠さず言った。きっぱりと言う。
けれど、一日で分かったような口をきくよりは断然いい。
「でも、仕事というのがすごく大変なのは分かりました」
弩が言って、僕達は笑った。
「それに、お客さんが、お茶も、スイーツも、そして店の雰囲気も、すごく楽しみにしてカフェに来ているのが分かりました。この雰囲気を楽しみに来てるんだなって分かりました」
「そうか、それなら一日バイトした甲斐があったな」
母木先輩が言って、弩が「はい!」と大きく返事をする。
それはそうと、さっきから何やら良い匂いがしていた。
それは弩が手に持つ紙袋から漂ってくる。
僕が紙袋を見ていると、弩はそれに気付いた。
「そうでした。頂いた今日のアルバイト代で、おみやげを買ってきたのでした」
弩が言って、持っていた紙袋を掲げた。
紙袋の中に入っていたのは、おいしそうなたこ焼きだった。
八個入りのたこ焼きが十二箱も入っている。
まだ、ほんのりと温かい。
「もらったバイト代全部使って買ってきたのか?」
僕が訊く。
「はい」
弩はコクリと頷いた。
せっかく人生初のアルバイトで、初めて自分で稼いだお金なのだから、もっと何か、大切な事に使うとか、取っておくとかすればよかったのに。
「ありがたい。おみやげは夜食として頂こう。今日はもう少し作業をしたい。徹夜になるかもしれない」
母木先輩が言う。
でも、弩が初めての労働の対価として受け取ったこのたこやきは、なんだか食べるのが勿体なかった。




