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白鳥の子

「あのう、淳之介君のお姉さんですか?」

 僕は、さっきまで雑誌で見ていたモデルの女性に話しかけている。

 ホワイトデニムのパンツにストライプのシャツ。

 さりげない格好なのに洗練されている。

 後ろで無造作にまとめた髪さえ、小ざっぱりとしていて、綺麗だ。


「まあ、お世辞が上手ね。私は淳之介の母です」

 その人はそう言って笑った。

 

 嘘だ。

 絶対に嘘だ、大嘘だ。


 笑っても、顔のどこにも皺が出ない。

 すっぴんに近いナチュラルメイクで、肌がツルツルだ。

 もし本当に御厨の母親だとしたら、不老不死の薬でも飲んでるのか。


 どう見ても二十代後半、ヨハンナ先生の同級生で通用する。


 ヨハンナ先生も相手が有名人と気付いたようで、

「モデルの『天方リタ』さんですよね?」

 と正面から訊いた。


「はい、そうです」

 彼女は、はっきり答えて、チャーミングな笑顔を見せる。


「わざわざ本当にすみません。うちの子、風邪で少し熱があるようなので、休ませました」

 台詞からすると、本当に御厨の母親みたいだ。

 でも、彼女が御厨の父親の再婚相手、という可能性もある。

 いや、その可能性のほうが高い。



 彼女は僕達を室内に招き入れて、御厨の部屋に案内してくれた。

「淳之介、先生とお友達がお見舞いに来てくださったわよ」

 呼びかけて、ドアを開ける。


 窓の高い、開けた部屋だった。

 畳にすると、二十畳くらいあるんじゃないだろうか。

 部屋の造りや家具は、直線を基調としたシンプルモダンな意匠で揃えられていて、モデルルームみたいに生活感がない。

 真っ白い壁には、絵の具を気の向くままに塗りたくったような現代美術の絵画が掛けてあって、そんな絵がこの部屋には合っている。


「ちょっと失礼します」

 御厨の母という女性が部屋を出て行った。

 ヨハンナ先生が「お構いなく」と、その背中に言う。



 御厨は部屋の奥のキングサイズのベッドに、ちょこんと横になっていた。

 僕達を認めて、ベッドから上半身を起こす。


「ありがとうございます。わざわざすみません」

 寝ていていいって言うのに、御厨は、退屈してたし、もうすっかり具合もいいからと、ベッドを離れて、窓際のソファーを勧めてくれた。


 シルクのパジャマにカーディガンを羽織った御厨。

 長いこと寝ていたためか、サラサラの髪が潰れて寝癖がついている。


「御厨のおやつが食べられないってなげいて、先生が強引にお見舞いに来ちゃったんだ」

 僕が言うと、御厨が笑った。

「明日からまたちゃんと用意します」

 と、先生に約束する。

 全快するまでおやつはいいわよ、って先生が言うのかと思ったら、言わなかった。



「でも、お母さんがモデルの天方リタさんだったなんて、びっくりした」

 僕が言うと、

「わざわざ、自分から言うことでもなかったので」

 と御厨は照れた。


「立ち入ったことを訊くけど、お父様は?」

 ヨハンナ先生が訊いた。

「いません。母は結婚をせずに僕を産んだので、僕は父を知りません」

 御厨が言う。


 ああ、やっぱりあの人が御厨の母親だったのか。


「母はモデルの仕事をして、その仕事で僕を育ててくれています。だから、手伝えることはなるべくと思って、僕が家事をしています」

 仕事で忙しい親の代わりに家事をしているのは、僕と同じような事情だ。

 でも、御厨はそんなことを話さないし、今までそんな素振りも見せなかった。


「お母さんに憧れます。私もお母さんみたいになりたいです」

 雑誌で見たモデル本人に会った感動で、ぼうっとしていた弩が言う。


「ならないほうがいいと思うよ」

 しかし、御厨が目を伏せて言った。

 その言い方にどこか冷たいニュアンスが含まれていて、びっくりした弩が思わず「ごめんなさい」と謝る。


「いや、そうじゃないんだ。ごめん」

 今度は御厨が弩に謝り返した。


「母のあのスタイルを見たよね。子供の僕が言うのもなんだけど、本当に見とれてしまうような完璧なスタイルだと思う」

 御厨が臆面もなく言うだけのことはある。確かに完璧だ。


「でも、母はあのスタイルを維持するために大変な苦労をしているんだ。食べたい物も食べないで、食事を制限してる。休みたいときに休まないで、毎日トレーニングをしたり、肌の手入れをしてる。体にいいということは、片っ端からやって、あのスタイルを維持しているんだ。仕事が仕事だから、仕方ないけど、体のことだから休むわけにはいかない。一年三六五日、一日も休まずそれを続けてる。はたから見ていると、すごく辛そうなんだ」

 いつも朗らかな御厨から、笑顔が消えていた。

 湖を優雅に泳ぐ白鳥が、水面下では必死に足で水を掻いているという例えで言えば、御厨は母が必死に水を掻いている部分ばかり見てきたんだろう。


「だから、母みたいにはならないほうがいいって意味で言ったんだ。僕は、自分の妻になる人には、好きな物を好きなだけ食べて欲しいと思ってる。たくさん食べてぽっちゃりになって欲しい。そのために僕はたくさんおいしい食事を作る」

 御厨が言って、弩が頷く。


 世界中の全ての女性をぽっちゃりにしたいという、御厨の野望の原点がここにあったのかと納得した。

 でも、その野望は少しだけ控え目にして欲しい。


 世界中の全ての女性はやりすぎだ。



 僕達が話をしていると、ドアがノックされた。

「あのう、ちょっとごめんなさい」

 御厨の母がドアから顔を出す。

「皆さんに紅茶を入れようとしたんだけれど、紅茶が置いてある場所が分からなくて……」

 母親が恥ずかしそうに言った。

 ヨハンナ先生が本当にお気遣いなく、と断る。


 休んでいる御厨の代わりに、僕がキッチンを見に行った。

 収納がたくさんある、広々としたアイランド型のキッチン。

 キッチンは引き出しが出たままになっていたり、食器棚の扉が開けっ放しになっていたり、一生懸命紅茶を探そうとした痕跡があった。

 シンクを見ると、ここ二、三日分の汚れた食器がそのまま放置されている。

 病気の御厨におかゆでも作ろうとしたんだろうか、焦げた米粒のようなものが入った鍋が、コンロの上に放置されていて焦げ臭かった。


 御厨が床に伏せっていて、家事が回ってないんだろう。


「あの、僕、ここ片付けていいですか? よかったら、その後でお茶を入れます」

 初めて伺った家で不躾ぶしつけかもしれないけれど、僕はそう提案した。

「そんな、お客様に悪いわ」

 御厨の母は困っている。

 当たり前だ。

 息子の友達が家に来て、いきなり家事をしますと言ったら、誰だって戸惑う。


「いえ、僕達は主夫部ですから、気にしないでください」

 汚れた食器に汚れた部屋。お茶なんかより、こっちの方が僕へのおもてなしというものだ。


「それから、洗濯物があったら、それも片付けてしまいます。大丈夫、下着とかあっても、僕は毎日妹のパンツとかブラジャーとかを洗濯してるんで、それで、性的に興奮するとかありません」

 キッチンがこの様子だと、洗濯物も溜まっているに違いないと思って、言っておいた。


 でも、なぜか僕は今、キッチンについてきた弩に、すごく睨まれている。


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