家族の風景
「明けましておめでとうございます。ようこそ、お越しくださいました」
髪をアップにして着物を着た先生が、玄関でお客さん達を出迎えている。
淡いピンク色で、胡蝶蘭の柄の着物に身を包んだヨハンナ先生。
先生は普段、教壇に立っている時とは違う、優しい笑顔で客さんに笑いかけていた。
新春の陽光が先生の髪に当たって、その笑顔を金色に縁取りしている。
「綺麗……」
思わず花園が零した。
枝折は瞬きもしないで先生に見とれている。
「塞、あんな素敵なお嫁さんは、絶対に逃がしたらダメだよ」
母がそんなことを言った。
僕達が、父が運転する車で先生の実家、旅館「霧島屋」に着いたのは、元旦の午前9時過ぎだった。
一組のお客さんを迎えた後で、先生が到着した僕達に気付く。
「本当に、お騒がせして申し訳ありません」
ヨハンナ先生と、先生のお母さんで女将のイヴォンネさん、先生のお父さんと妹のアンネリさんが、旅館の玄関で並んで頭を下げた。
「いいえ、頭を上げてください」
母が言って、イヴォンネさんの手を取る。
こんな形だけど、結婚する僕達両家の、初めての顔合わせになった。
昨日の大晦日の夜、アンネリさんから電話があったときは心臓が止まるかと思った。
「お姉ちゃんが病院に運ばれて……」
アンネリさんにそう言われて、一瞬、クラッとした。
「お姉ちゃんが倒れて病院に運ばれて、お姉ちゃんが若女将をやるって言い出して……」
あのとき、アンネリさんは電話でそんなふうに言った。
「アンネリさん、落ち着いてください」
混乱しているアンネリさんをなだめて詳しく話を訊くと、若女将をしている先生の姉、ペトロネラさんの具合が悪くなって病院に運ばれて、実家に帰っていたヨハンナ先生が、ペトロネラさんの穴を埋めようと若女将として旅館に立っている、そういうことらしかった。
その時はあと少しで新年っていう時間だったから、僕は母と父と相談して、元旦の朝出発して、ここに駆け付けることになった。
「余計な心配をかけるから、塞君には言わないようにって、アンネリに言っておいたんだけど……」
先生が言う。
「だって、家中大騒ぎだったし、旅館の方も満室で、大晦日とお正月で、バタバタだったから」
アンネリさんが縮こまりながら言った。
「構いませんよ。何かあったときは、お互い様ですから」
母が言う。
「それで、ペトロネラさんは大丈夫ですか?」
僕は訊いた。
「うん、落ち着いてる。ここのところ忙しくて疲れが溜まってたみたい。それにね……」
ヨハンナ先生が意味ありげにためを作る。
「塞君、君は叔父さんになるよ」
先生が微笑んだ。
「えっ?」
「お姉ちゃんに、赤ちゃんが出来てたみたいなの」
なんだ、そういうことか!
「おめでとうございます」
母と父が、先生のご両親を祝福する。
「ありがとうございます」
両家の親同士が、頭を下げ合った。
「そんなこともあって、念のため病院で様子を見ることになったけど、お姉ちゃんは大丈夫だから」
ヨハンナ先生の言葉に安心する。
「それで、お忙しいと思うので、何か手伝いができればと思って来たんですけど、皆さんは旅館の方に掛かりきりだと思うので、母屋の家事は僕がやりましょうか?」
僕が提案した。
「それはいけません」
イヴォンネさんが首を振る。
ベージュの花車の着物に身を包んだ先生のお母さん、イヴォンネさん。
背筋がぴっと伸びた美しい姿勢で、先生よりも、もっと落ち着いた雰囲気があった。
威厳があってなおかつ、全てを包み込むような優しさに満ちている。
なんか、母と似ている気がした。
「僕に気は使わないでください。僕はヨハンナ先生の夫なるので、先生のご家族のピンチは、僕のピンチです。働かせてください。それに、ここのところ母と父が家にいて家事をしてしまうので、僕は家事がしたくてしたくてうずうずしてたんです」
「だけど……」
イヴォンネさんが、僕の両親の方を見る。
「うちの塞でよければ、使ってください」
母が言って、父も頷いた。
「本当に、申し訳ありません」
「すみません」
先生のお母さんとお父さんに恐縮されてしまう。
「塞君、ありがとう」
青い瞳を潤ませたヨハンナ先生が、僕に手を伸ばそうとして、一瞬ためらって止めた。
たぶん、「ありがとう」って僕を抱きしめようとしたんだけど、両親の前だから我慢したみたいだ。
「それじゃあ、お義母さんとお義父さんは、ゆっくり温泉にでも入っていてください。枝折ちゃんと花園ちゃんも、のんびりしてってね。あとで、うちの板前さんのおせちを届けるから」
先生が言った。
「やったー! 温泉だ! おせちだー!」
花園が、無邪気に喜ぶ。
「こら、花園」
って、母が緩く怒った。
だけど、花園の明るい声で、そこにいたみんなが笑顔になる。
「こちらが妹さんの花園ちゃんで、そちらが枝折ちゃんね。あら、枝折ちゃん、ちょっと雰囲気が変わったわね」
イヴォンネさんが言った。
あっ、まずい。
前、ここにヨハンナ先生の婚約者として来たとき、車に隠れていた弩を、妹の枝折って紹介したんだった。
「これくらいの女の子だもの、どんどん、成長するよね」
ヨハンナ先生が眉を引きつらせながら誤魔化した。
「そうかしらねぇ」
イヴォンネさんは首を傾げている。
「さあさあ、遠くからお疲れでしょう。どうぞ、こちらへ」
事情を知っている先生のお父さんが、間に入ってくれた。
白髪で渋い先生のお父さんは、霧島屋の紺の法被を着ている。
お父さんのおかげで、どうにか事なきを得た。
僕達は、お父さんに付いて母屋へ向かう。
「塞君、どう? 私の若女将姿?」
廊下を歩きながら、ヨハンナ先生が僕だけに聞こえるよう、耳元でささやいた。
もちろん、最高に決まってるじゃないか!
霧島屋の廊下を歩いてると、小学生くらいの男の子が、向こうから廊下を走ってきた。
「はいそこ、廊下は走らない!」
ヨハンナ先生が注意する。
男の子は、「ごめんなさい」って素直に謝った。
「危ないから、走ったらダメだよ」
先生が、膝を折って視線を合わせて、男の子の頭を撫でる。
なんか、先生みたいな若女将だ。
まあ、先生なんだけど。
「ここを使ってください」
先生のお父さんは、僕達を母屋の客間に案内した。
「古い旅館ですけど、温泉だけは自慢なので、ご自由にお入りください」
お父さんはそう言って、僕達の家族分の浴衣と、綿入れ羽織を用意してくれる。
「私達は大丈夫ですから、旅館の方、戻ってください」
母が言って、お父さんが「それでは」と頭を下げた。
「それじゃあ、塞君、よろしくね」
ヨハンナ先生もお父さんに付いて旅館に戻る。
「塞、がんばるのよ。お婿さんとして、認めてもらえるチャンスなんだから」
僕達だけになった母屋で、母が言った。
「うん」
もちろん、家事には全力で当たるつもりだ。
僕はまず、溜まっていた洗濯物を入れて洗濯機を回した。
各部屋と、内風呂の掃除をする。
その間に洗い上がった洗濯物を干した。
昼食とか夕食とか、忙しくて食べている暇がない先生達のために、軽くつまめるようにサンドイッチを作った。
霧島家の人達は、ペトロネラさんが抜けた穴を埋めようと、アンネリさんも仲居さんの着物を着て頑張ってたし、先生のお父さんも広い風呂場の掃除をしたり、お客さんの送り迎えをしたり、忙しそうだった。
そんな中、ヨハンナ先生は、若女将の仕事をテキパキとこなしている。
先生は大勢のお客さん達の前でも堂々と振る舞った。
普段、僕達みたいな四十人の生徒をまとめてるんだから、当然なのかもしれない。
お客さんに頼まれて記念写真に応じたり、昼間からお屠蘇で酔っ払ったお客さんを上手くあしらったり、本当に若女将みたいに見えた。
事情をよく知らないお客さんに、「日本語お上手ね」とか言われて「ありがとうございます」って笑顔で返す。
ヨハンナ先生は高校の国語科の教師なんだけど。
一方で僕の両親は、ゆっくりとお湯に浸かって、何度も温泉を堪能していた。
その間に花園と枝折を連れて近所のお宮さんに初詣に行ったり、伊勢エビが入ったお重のおせちを頂いたり、お正月を楽しんでいる。
先生のご両親は恐縮してたけど、うちの家族もゆっくりとした元旦を過ごせたみたいで良かった。
夜遅くになって、母屋にヨハンナ先生が帰ってくる。
僕は、先生の部屋で着物を脱ぐのを手伝った。
「慣れないから、疲れた」
長襦袢になった先生が自分で肩を叩く。
僕は先生の背後に回って、肩を揉んだ。
「ありがとうね。塞君が来てくれて、家事をしてくれて、本当に助かった。母も父も、塞君に心から感謝してるよ。母が、良いお婿さんに巡り会ったねって、しみじみ言ってた」
先生が教えてくれた。
先生のご両親から認められて、涙が出そうになる。
これも、主夫部で日々、鍛錬してた結果だ。
「こんな日は、塞君にヘッドスパでマッサージして欲しいなぁ」
二人だけの部屋で、先生がちょっと甘えん坊の顔を見せた。
これは、先生が僕だけに見せてくれる顔だ。
「いいですけど、ここには洗髪台がないですし。あれがないと、先生が服を着たまま、髪を洗えません」
僕が言ったら、ヨハンナ先生が「そうだねぇ」って空で考える。
「ねえ、内風呂に、二人で入っちゃおうか?」
「えっ?」
だって、それって……
「いいじゃない、私達、もうすぐ結婚するんだし」
「ですけど……」
「それとも、私の裸なんて見たくない?」
先生が悪戯っぽい顔で訊いた。
長襦袢の襟がはだけて、先生の胸元が覗く。
それはもちろん見たいけど。
控え目に言って、ガン見したいけど。
「嘘嘘、お義母さんもお義父さんもいるし、ここは塞君を襲ったりしないで、猫を被って大人しくしてないとね」
先生はそう言って、僕の髪をくしゃくしゃってした。
「あーあ、純情な男子高校生をからかうのは、楽しいなぁ」
まったく、教師にあるまじき発言だ。
「だけど、これくらいはいいよね」
先生が僕を抱き寄せた。
先生の胸に抱かれて、息が出来なくなる。
ヨハンナ先生、新年早々、僕をどきまぎさせないでください。




