理想の夫婦
「ほら、塞、動かないの」
母が言った。
「だって、くすぐったいし」
「動いたら怪我しちゃうよ」
母はそう言って、僕の顎に手を掛けて、耳を覗き込む。
「やっぱり、くすぐったい」
ぞくぞくするし、母が顔を近付けてくるから、なんだか照れてしまうのだ。
「もう、我慢しなさい」
母が笑顔で言った。
大晦日の、我が家。
リビングのテレビでは「笑ってはいけない異世界24時」が流れていて、花園がチャンネルを変えながら見ている。
キッチンからは、父と枝折が料理をしている楽しげな声と、包丁の音が聞こえた。
僕は、母の膝枕で耳掃除をしてもらっている。
「ほら、もうちょっとだから、良い子にしなさい」
ピンクベージュのニットに、グレンチェックのスカートを穿いた母。
「だって……」
「お母さんに甘えて、お兄ちゃんマザコンだね」
僕と母を見て、花園が茶化してくる。
「こら、花園!」
母がふざけて怒った。
「えへへ、ごめんなさい」
花園はそう言って、母の背中から首に手を回してまとわりつく。
「お兄ちゃんはいいの。普段一緒にいられないんだから、こうやって一緒にいられるときは、思いっきりべたべたして、これでやっとみんなと釣り合いが取れるくらいなんだから」
母が花園のほっぺを撫でながら言う。
「それに、私の大切な息子が、もうすぐお婿に行っちゃうんだもの。お母さんだって、塞とべたべたしたいし」
母は膝枕したまま、僕の頭を抱きしめた。
母からは、そこはかとなく、潮の香りがする。
「はい、じゃあ、反対側ね」
母が僕の頭の向きを変えた。
暖かいリビングで、家族が側にいて、ゆったりとした時間が流れている。
母に耳掃除をされながら、ヨハンナ先生と母は、ちょっと似ているかもしれないとか、思ってしまった。
「次は花園ね!」
花園が僕の横に寝て、母の膝枕に割り込もうとする。
「もう! 花園ちゃんは」
母が花園の脇腹の辺りをくすぐって、花園がキャッキャ騒ぐ。
僕も母に加勢して花園をくすぐると、花園は、
「やめてー」
って嬉しそうに言いながら、リビングのラグの上を転がり回った。
「花園ちゃんは、受験勉強いいの?」
僕が訊いた。
「うん。枝折ちゃんが、大晦日と、お正月の三箇日は休んでいいって。花園は優秀みたいなの」
花園がドヤ顔で言う。
「枝折ちゃん、ホント?」
僕は、キッチンの枝折に訊いた。
エプロン姿の枝折が、キッチンからリビングに来る。
「うん、勉強はスケジュール通り進んでるし、模試の結果もいいよ。それくらいは休んでいいと思う」
枝折が花園の頭を撫でながら言った。
「ほーらね。花園が本気を出せば、こんなものだよ」
花園は腰に手をやって胸を張って、得意げである。
「そうだね、花園は、お母さんの子供だもの」
「ねー」
母と花園が、顔を見合わせて言う。
「よーし、お鍋の準備出来たぞ」
台所から、父が土鍋を持ってきた。
コタツの上のカセットコンロにそれを置く。
土鍋の中で、野菜や豆腐が美味しそうに煮立っていた。
そこへ父が、下味をつけた鴨のロース肉を入れる。
この鴨肉は、修学旅行でお世話になった北海道の益子さんが、カニと一緒に送ってくれた。
猟師の三鹿さんが撃った鴨らしい。
鴨鍋と茹でたカニに、父の料理がコタツの上一杯に並ぶ。
「ご馳走ご馳走!」
花園が目を輝かせた。
「普段のお兄ちゃんの料理だって、ご馳走だよ」
枝折が、僕の肩をポンって叩いてフォローしてくれる(枝折、ありがとう)。
「それじゃあ、頂きましょうか」
母が言って、僕達はコタツに入った。
「いっただきまーす!」
花園の元気な声で、大晦日の夕餉が始まる。
「うん、おいしい」
鴨肉を噛みしめて、嬉しそうな花園。
「今年一年、ご苦労様でした」
父が母にお酌する。
夕餉のお酒に、母は日本酒の熱燗を選んだ。
「あなたこそ、ご苦労様でした」
母が言う。
「二人は、いつまでもラブラブだね」
花園が茶化すように言うけど、まったくその通りだと思った。
食事をしながら何気なく二人を見ていたら、なんか、感心してしまう。
何気ないようだけど、父がお酌するタイミングが、絶妙に見えたのだ。
折をみて、母にすっと徳利を差し出す父。
母の食事のペースを乱すことなく、おちょこを長らく空にすることもなく、合いの手をを入れるみたいにお酒を注いでいる。
母は気持ちよさそうに段々と頬を赤く染めていった。
母に鍋を取り分けたり、カニの殻を剥いて美味しいところを食べさせたり、父にはそれが自然に出来ていた。
これも、長く夫婦をしている二人だから出来ることだろうか?
今まで気にしなかったけど、ヨハンナ先生と結婚することになって、母と父の、「夫婦」ってことを意識するようになった。
僕もヨハンナ先生に、こんなふうにお酌出来たらなって思う。
お酒が好きなヨハンナ先生を、気持ち良く酔わせてあげたい。
そして、飲み過ぎないように、悪酔いしないように、体を気遣ってあげたいと思った。
「よし、じゃあ、締めの蕎麦にしようか」
鍋の具材がなくなったタイミングで、鴨と野菜の旨味がたっぷりと出たところに、父が蕎麦を入れる。
それが我が家の年越しそばになった。
「満足、満足」
蕎麦までペロリと平らげた花園が、お腹をさすりながら寝っ転がる。
「こら、花園。お行儀悪いよ」
母が、花園のめくれたスカートを直した。
片付けに僕が立とうとすると、
「いいから、塞は座ってろ」
父が言う。
「でも……」
「そうさせてもらいなさい」
母が言った。
父の言葉に甘えてコタツの中でぬくぬくとしてたら、段々眠たくなる。
「お兄ちゃん、寝ちゃだめだよ。このあと、CDTVの大晦日スペシャルに、『Party Make』が出るんだから」
花園が僕を揺り起こした。
そうだった。
最近、テレビでの露出も多くなった「Party Make」の活躍を、新年早々見られる。
「Party Make」ファンの枝折は、録画の準備をして待ち構えていた。
そんな、後もう少しで新年というところで、僕のスマートフォンに電話が掛かってきた。
「どうせ、ヨハンナ先生からの電話なんでしょ? 塞君、寂しいよぅ、とかさ」
花園が生意気を言う。
花園に言い返したいけど、たぶん、その通りだと思った。
実家に帰った甘えん坊のヨハンナ先生が、電話を掛けてきたんだろう。
ちょうど僕も、電話を掛けて先生の声が聞きたいところだった。
母と父を見ていたら、ヨハンナ先生が恋しくなった。
僕はスマートフォンを持ってリビングの隣の客間に行く。
花園が付いてきて、僕達の会話を聞こうと顔を近付けた。
ところが、スマホの画面を見ると、電話を掛けてきたのはヨハンナ先生じゃなかった。
先生の妹、アンネリさんからの電話だ。
アンネリさん、どうしたんだろう?
嫌な予感がした。
僕はすぐに通話ボタンを押す。
「塞君! 塞君、大変! お姉ちゃんが、お姉ちゃんが!」
スマホのスピーカーから、そんな悲痛な声が聞こえた。
「お姉ちゃんが病院に運ばれて……」




