長い沈黙のあとで
「僕を、ヨハンナ先生のお婿さんにしてください」
僕は言った。
寄宿舎のトイレの一室で吐いていたヨハンナ先生と、その背中をさすって介抱していた僕。
忘年会帰りで紺のワンピースの先生は、トイレの床にぺたんとお尻をついている。
「僕は全然、カッコよくないし、運動神経とかも良くないし、お金持ちでもないですけど、家事のことなら、絶対に、他の人には負けない自信があります。先生の好みの料理とか全部作れますし、先生が好きなおつまみも全部知ってますし、先生の服の洗い方だって、全部、把握してます。もちろん、先生のパンツをどうやって畳んだらいいかだって、分かってます。一緒にいたら、毎日、ヘッドスパでマッサージしてあげられますし、髪だって梳かしてあげられますし、歯だって磨いてあげられます。新しい土地に行っても、今まで通り、学校から帰って服を脱ぎ散らかしてくれれば、温かいお風呂と、温かい晩ご飯で、先生を迎えます」
先生は口を半開きにしたまま、焦点の合わない目で僕を見ている。
「それに、なにより、僕は先生のことが好きです。大好きです。教壇の上で、凜としたカッコイイ先生も好きですし、僕に甘えて『お姫様抱っこして』とか言う先生も好きです。先生をお姫様抱っこするたびに、僕は心臓が飛び出るくらいドキドキしてました。先生を抱っこしたら、この腕の中に僕の望むもの全てがあるって、思ってました」
「この二年間、先生に、学校でも寄宿舎でも、長い休みのときは家にも来てもらって、ずっと一緒にいて、先生と色んなところに行ったり、普通に生活してたら絶対に出来ないような経験をさせてもらって、心から感謝しています。逆に、僕が先生に色々してあげたり、先生に心地いい一日を送らせてあげようって考えること、それが楽しくて、毎日が充実してました…………もう、先生と離れて生活することは考えられません。僕は、これからもずっと、先生と居たいです。一日だって、離れたくありません。だから、僕を先生と一緒に連れて行ってください。僕を、先生のお婿さんにしてください」
僕は、心の中で思っていたことを全部言ってしまった。
今まで口から出なかったのが不思議なくらい、すらすらと言葉が出た。
自分がなんでこんなに饒舌なのか、自分でも分からない。
だけどとにかく、僕は取り憑かれたみたいにしゃべった。
僕が話すあいだ、先生は無言で聞いていた。
ぴくりとも動かないで聞いている。
瞬きさえ、してないみたいだった。
真夜中の寄宿舎は静まり返っている。
トイレのタイルの壁に、僕の心臓の鼓動が響いて聞こえそうだった。
「ねえ、塞君」
ずっと黙っていた先生が、口を開く。
「ここは、トイレだよ。私、お酒臭いし、ベロベロに酔ってるし、便器を抱えるみたいにして吐いてるし、髪はボサボサだし、ストッキングは伝線してるし、ほら、ワンピースには、忘年会で零したお醤油のシミが付いてるんだよ」
先生が、脇腹の辺りのシミを指した。
「古今東西、どこの世界に、こんなシチュエーションでプロポーズされたヒロインがいるのよ。古典でも、現代文でも、私が君に読ませた物語の中に、そんなヒロインいた?」
先生が、僕に顔を近付けて訊く。
「い、いえ、いないと……思います」
「分かる? これは私が受ける、一生に一度の大切なプロポーズなんだよ。大切な瞬間だよ。それを、こんなところで……」
先生はガックリと肩を落とした。
「まったく、君は、君って子は、主夫部っていいながら、女子の気持ち、全然分かってないんだから!」
「すみません」
「これまで主夫部で何を学んできたのよ。主夫部は主夫部であって家事部ではないって、それが主夫部の格言じゃなかったの? 家事の腕はどんどん上がってるのに、女子の気持ちを考えるって、そっちは置き去りじゃない」
ヨハンナ先生が、涙目になっている。
先生の青い瞳から大粒の涙が一筋、零れた。
失敗した。
僕は、完全に失敗した。
よく考えてみれば、先生の言う通りだ。
僕は、先生の都合も考えないで、一方的に自分の感情を吐き出してしまった。
ここがどこだとか、そんなこと考えてなかった。
自分勝手にプロポーズしてしまった。
それは、僕が高校生だからだとか、子供だからだとか、そんな言葉で逃げられることじゃないと思う。
しばらく放心状態だったヨハンナ先生が、黙って立ち上がった。
そして、壁を伝いながら脱衣所まで一人で歩く。
僕は後を追った。
すると、脱衣所で先生はおもむろに服を脱ぎ始める。
僕は一旦、脱衣所から出てドアを閉めた。
少しして、中からお風呂場のドアが開いた音がする。
シャワーの水音がするのを確認して、僕は再び脱衣所に入った。
先生が脱衣所に脱ぎ散らかした服を片付けて、バスタオルと着替えを用意する。
酔っ払った先生がお風呂の中で倒れたらいけないから、僕は、時々曇りガラスのドア越しに先生を確認した。
やがて、シャワーを終えた先生が、スエットに着替えて脱衣所から出てくる。
先生は、自分で髪を乾かした。
洗面所に行って歯を磨いて、入念にうがいをした。
そして自分の部屋に戻ると、ベッドの掛け布団をめくって、横になって布団をかけた。
ここまで、先生は何も言わなかったし、僕も、何も言えなかった。
僕は、先生が夜中に喉が渇くといけないから、ベッドのサイドテーブルに、水差しを用意する。
そして、部屋の電気を消した。
「先生、さっきは、本当にすみませんでした」
僕はベッドに寝た先生に頭を下げた。
深く深く、頭を下げる。
篠岡塞は、ここに散った。
僕の決死のプロポーズは、失敗したのだ。
たぶん僕は、彼女いない歴=年齢のまま、この生涯を終えると思う。
もう一生、誰かを好きになることなんて、ないと思う。
「ねえ、塞君」
僕が部屋を出ようとしたら、先生がベッドに寝たまま僕を呼び止める。
「私、今日は一日中、二日酔いで頭痛いだろうし、疲れてて起き上がれないと思うの。でも、明日の日曜日には体調も戻ると思う。いつも通り動けると思うの。そしたら、君を車でどこか雰囲気のいいところに連れて行くから、そこで、私にもう一度プロポーズしなさい。君が、こんな情けない私の姿を見て、それでも気持ちが変わらないなら、こんな酔っ払いに懲りてなかったら、もう一度、プロポーズしてください」
「えっ?」
「そしたら、私、『はい』って頷くから」
「お願いします、私をあなたのお嫁さんにしてください、って答えるから」
「先生、どういう……」
僕はベッドに駆け寄って訊いたけど、先生はもう気を失ったみたいに眠っていて、スースーと寝息を立てていた。




