喉に詰まった言葉
「そうです。私は、この学校を辞めます」
ヨハンナ先生が言った。
はっきりと言った。
寄宿舎の玄関に集まったみんなが静まり返る。
ひすいちゃんでさえ、この空気を感じ取って静かにした。
アンネリさんから聞いてはいたけど、先生本人の口から辞めるって聞いて、目の前が一瞬暗くなる。
だけど、はっきりと言い切った先生は、どこか覚悟を決めているみたいでカッコよかった。
悔しいけどカッコいい。
僕が尊敬する、大好きなヨハンナ先生だった。
「まずは落ち着きましょうか。食堂に移動して、そこで話をしましょう」
鬼胡桃会長がみんなを促す。
僕達は黙ったまま食堂に移動した。
食堂で、先生はいつもの上座に座って、僕達はその周りを囲む。
僕は先生の隣に座った。
ここは僕の指定席だ。
ここでいつも僕は先生にお酌したり、おかずを取り分けたりする。
こうやって先生の側にいると、柔軟剤と先生が一日働いた汗が混じった、僕の大好きな匂いがした。
「さっきも言ったように、私はこの学校を辞めます」
先生は、一度、集まったみんなを見渡してから口を開く。
「もちろん、なにか理由があって辞めるんですよね、先生」
ショックで何も発せられない僕達に代わって、鬼胡桃会長が訊いてくれた。
やっぱり、会長は頼もしい。
会長はいつまでも僕達の会長だった。
「ええ、もちろん」
先生が深く頷く。
「実は、私はある人に誘われて、今度新設される高校の立ち上げに協力しようと思ってるの。この学校を辞めて、そっちで教鞭を執ることになると思う」
先生が続けた。
「ある人っていうのは、前に篠岡君には話したかな? 私の先輩で、私が教職の道を目指すきっかけを作ってくれた人なの。その人がすごい人でね。自分の理想の学校を作るんだって堂々と語って、その理想に共感した人が、その人の周りにどんどん集まって来るの。資金を援助してくれる人とか、学校新設の許認可の手続きを手伝ってくれる人、文科省のキャリア官僚の人まで巻き込んじゃうの。挙げ句の果てには、潰れた短大の土地と建物をただみたいな値段で貸してくれるっていう人が現れて、その人の理想の学校が一気に実現することになったの。そこで私も働かないかって、その先輩に誘ってもらった。私はまだ教師としてはひよっこだけど、その先輩が評価してくれて、学校を作るのに協力しないかって言ってくれたの。もちろん、この学校も良い学校なんだけど、私達、若い教師の声は中々届かないっていうか、色々なしがらみもあるしね」
確かに歴史がある学校だし、古い考えを持つ先生がいるし、しがらみはある。
それで、僕達主夫部が苦労したこともあった。
「先輩が作る学校では、ある程度私の裁量でやれることもあるみたいだし、色々と任せてもらえるみたいなの。誘ってもらって、お世話になった先輩の役に立ちたいっていう気持ちもあるけど、やっぱり、私としてもこの新しいチャレンジはやってみたいし、これはチャンスだと思う。だからやるって決めたの」
ヨハンナ先生が言う。
先生の目がキラキラ輝いていた。
隣から見る先生の横顔が凜々しい。
こんな事情がなければ、僕はその美しい横顔にずっと見とれてたかもしれない。
「篠岡君がここの管理人になることも決まったから、寄宿舎についてはもう安心だしね。まあ、元々私は名ばかりの管理人で、この寄宿舎の管理は主夫部のみんながやってくれてたんだけどね。それに、主夫部にしたって、去年まではどうなることかと思ったけど、文化祭でも大活躍だし、もう、この部を潰そうなんて人は教師にも生徒にもいないでしょ? そんな安心もあって決断したの」
先生、僕が進路を寄宿舎の管理人って決めて、肩の荷が下りたとか言ってたけど、そういうことだったのか。
「まあ、この学校に心残りがないかって訊かれたら、正直、あるけどね」
先生がそう言って、一瞬、目を伏せた。
「それじゃあ、ある意味、栄転っていうか、新しい学校で、ヨハンナ先生が本当にやりたいことが出来るっていう素晴らしいことじゃないですか。なんで黙ってたんですか?」
鬼胡桃会長が訊いた。
「うん、私の受け持ちが三年生で、まだ受験もあるし、クラスのみんなを混乱させたらいけないから、当分黙っておくつもりだったの。辞めるって言っても、それは来春のことだし、今のクラスは卒業まで責任を持って受け持つしね。折をみて、主夫部とか寄宿生のみんなには前もって話すつもりだったんだけど……」
「お姉ちゃんゴメン。私、もうみんなには報告が済んでるんだと思って……」
アンネリさんが頭を下げる。
「ううん」
って、ヨハンナ先生が首を振った。
「私が言うのを迷ってたから、こんなことになっちゃっただけだから。みんな、私のためにこんなふうに集まってくれてありがとう。そして、本当にごめんなさい」
先生はそう言うと、立ち上がって頭を下げる。
深く深く、みんなに頭を下げた。
僕達は頭を上げてくださいって頼んで、先生を座らせる。
「それがヨハンナ先生がやりたいことだったら、全力で応援するのが主夫部じゃないか?」
母木先輩が言った。
「大好きな人を手伝って、一緒に夢を追いかける。それが僕達主夫部だ」
先輩の言葉に、錦織も御厨も、子森君も頷く。
「それは、そうですけど……」
母木先輩が言うことは正しかった。
絶対的に正しいと思う。
だけど、ヨハンナ先生がいなくなるっていう事実が、僕にはまだ受け入れられなかった。
そんなこと想像出来ない。
「おい、みんな、なに静かになってるんだ! おめでたいことじゃないか。今日はせっかくみんなが集まったんだし、ヨハンナ先生の栄転をお祝いしよう。夕食の準備は出来てるんだろう?」
縦走先輩が訊いた。
「はい、みなさんが集まるから、たくさんご馳走を作ってあります」
御厨が答える。
「それなら、これから宴会だよ。私達はいつもそうしてきた」
縦走先輩がそう言って追い立てるみたいに手を叩いた。
「よし、先生の栄転を祝って、あとで私達で歌をプレゼントしようかな」
古品さんが言って、な~なとほしみかが頷く。
「せっかくお休みをもらったんだし、昔みたいに朝まで盛り上がりましょう」
ほしみかが言って、な~なが「賛成!」ってアイドルらしい弾けた声を出した。
古品さん達が盛り上げてくれて、静まり返っていた寄宿舎が、どっと沸く。
「布団も用意してあるし、空き部屋も掃除してあるから、みんな泊まっていけますよ」
錦織が言った。
「ほら、お姉ちゃん達、着替えて、楽な服装にしよう」
花園が、鬼胡桃会長や縦走先輩の手を引っ張っていく。
「それじゃあ、準備の間、私、先にお風呂入って来るね。汗、流しちゃいたいし」
ヨハンナ先生が席を立った。
「ねえ篠岡君、髪洗ってくれる? さっぱりしたいの」
先生が訊く。
「はい、いいですけど」
「それじゃあ、服脱いで待ってるから、ちょっとしたら脱衣所に来て」
先生がそう言って、僕にウインクした。
「篠岡、行ってこい。準備は僕達でするから」
錦織が僕の肩を叩く。
先生から少し遅れて脱衣所に行くと、そこには先生の服が脱ぎ散らかしてあった。
僕はそれを拾って籠に片付ける。
「それじゃあ、お願いね」
ヨハンナ先生は、すでに洗髪台の椅子に座っていた。
服を脱いで、タオルを胸の高さまで巻いて体を隠している。
僕は、頭皮をマッサージしながら先生の綺麗な髪を丁寧に洗った。
先生の頭を抱くようにして洗う。
「塞君、ゴメンね。別に、隠してたつもりじゃないんだけど」
先生が言った。
「いえ、別に」
先生の青い瞳に見詰められると、何も言えなくなる。
僕と先生の顔の距離は、30㎝もないし。
「あーあ、こうして塞君に髪を洗ってもらうのも、あと少しかな」
先生が、そんな悲しいことを言った。
「だけど先生、ここを出て、一人で生活出来るんですか? だって先生は、朝、僕が起こさないと起きられないし、歯だって僕が手伝わないとちゃんと磨かないし、出勤前に先生のスーツを揃えるのも僕だし、脱ぎ散らかした服を片付けるのは僕だし、僕が掃除しないと半日で部屋がぐちゃぐちゃになるし、僕が止めないとすぐにお酒たくさん飲むし、お酒飲んで酔っ払うと、ベッドまで僕がお姫様抱っこで運ばないと動かないって駄々こねるし」
他にも、先生を放っておけない理由は、4テラバイトのハードディスクが一杯になるくらいある。
「あ、あの、まったくその通りなんだけど、なんか私がダメ人間みたいだから、それ以上言うのはやめて」
先生がそう言って僕に笑いかけた。
「私はこの寄宿舎に住むまで一人暮らしをしてたんだし、なんとかなるでしょ」
先生に言われても、そうですねって首を縦に振るわけにはいかない。
昔の先生のマンションの、あの惨状を知っている僕は、絶対に同意できなかった。
新しい環境になったら、職場の方でも色々と忙しいんだろうし、誰か、先生のサポートをする人が必要なのだ。
先生をカッコイイ先生でいさせるために、それを支える誰かが絶対に必要だった。
「また、君と出会う前に戻るだけだから」
先生が言う。
「よし、それじゃあ、ここを離れる日まで、毎日髪を洗ってもらおう。一生分くらい洗ってもらおうかな。いい?」
「もちろんです」
「そう、嬉しい」
ヨハンナ先生はそう言うと目を瞑った。
無防備なヨハンナ先生が、僕に身を任せる。
僕のこの手の中には、ヨハンナ先生の頭がすっぽりと収まっていた。
僕の手の中で、すっかり安心した先生の息づかいが聞こえる。
先生は、裸にタオル一枚だけで、胸元も、太股のあたりも露わになっていいた。
「あの、先生」
「なに?」
「あの……」
「んっ、どうした?」
「あの、僕……」
「んっ?」
「いえ……なんでもありません」
「変な塞君」
目を瞑ったまま、ヨハンナ先生が「ふふ」って笑う。
僕は今、ヨハンナ先生になにを言おうとしたんだろう。
なにかが僕の口から発せられようとしていた。
あともうちょっとで、その言葉が喉から出たはずなんだけど、それは引っ込んでしまう。