高度な宿題
「いっけなーい、遅刻遅刻!」
僕は、パンを口に銜えて家を出る。
ちょっと寝坊して、朝練に遅れてしまった。
弩と萌花ちゃんがいないっていう気の緩みと、昨日の、諏訪部さんが残した「あの人」っていう言葉の意味を考えていて中々眠れなかったから、寝過ごしてしまったのだ。
今夜、二年生が修学旅行から帰ってくるっていうのに、まったく、なにしてるんだ。
「お兄ちゃん、交通事故に気を付けるんだよ」
妹の花園と枝折が、玄関先で、ヤレヤレって感じで僕を見送る。
僕は駅までの道を走った。
僕が起こさないと、ヨハンナ先生が遅刻してしまうかもしれない。
先生の評判を落とすような、そんなことがあってはならない。
僕は、全力で走る。
駅までの道の、高い塀がある曲がり角に来たところで、目の前に人影が見えた。
角の向こうから誰かが歩いてくる。
だけど、全力疾走の僕は止まることが出来ない。
あれ? でも、これってフラグじゃないか。
いっけなーい、遅刻遅刻。
パンを銜えている。
見えない曲がり角。
これは完全に美少女とぶつかるフラグだ。
それも、相手は転校生に違いない。
美少女の転校生とぶつかって、教室で再開するパターンだ。
これはまた新巻さんに、「篠岡君が新しい女子を連れてきた」とか、「女たらし」とか、言われちゃうんだろうなって考える(その間0・01秒)。
「おい、てめぇ、ふざけんな!」
しかしそんな妄想は、野太い男の声に砕かれた。
「なんだお前!」
僕は、190越えで背が高い学ランを着た男の胸に跳び込んでいた。
胸の筋肉が厚くて跳ね返される。
彫りの深い四角い顔に、太い眉毛。
背中に、空手着のようなものを背負っている。
その後ろには、同じ学ラン姿の筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》な二人が控えていた。
目付きが悪いその三人組に、僕は見下ろされる。
学ランを着てるし、学生鞄を持ってるし、たぶん高校生なんだと思う。
「ふみまへん!」
パンを銜えたまま、僕は謝った。
その彼は、僕とぶつかってパンくずがついた学ランを、パンパン払う。
「ぶつかっておいて、ただで済むと思うなよ」
いきなり、胸ぐらを掴まれて凄まれた。
すごい力で持ち上げられて、僕は爪先立ちになってしまう。
僕と同じように通学の途中だった他校の女子達が、遠巻きに僕達を見ていた。
サラリーマン風の男の人が、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。
なにが美少女とぶつかるフラグだ。
なにが転校生だ。
これは、絶体絶命のピンチだ。
僕は覚悟して目を瞑った。
一、二発は、食らうかもしれない。
せめて、命だけは助かりますように。
僕は心の中で手を合わせて祈る。
「おい、ちょっと待て。この人、主夫部の篠岡さんじゃないか」
ところが、脇にいた一人がそんなふうに言った。
「ああ?」
僕の胸ぐらを掴んでいる学ランの彼が顔をしかめる。
「ホントだ、篠岡さんだよ。鉄騎丸が、すげーヤバイ人だから逆らっても絶対に勝てないって言ってた人だ」
もう一人も言う。
「まさか……」
胸ぐらを掴んでいた一人が、その手から力を抜いた。
「あんた、篠岡さん?」
彼が訊いた。
「はい、篠岡です」
「主夫部の?」
「はい、主夫部の篠岡塞です」
僕が答えると、三人がお互いを見る。
「す、すみません! まさか、篠岡さんとは存じ上げずに。首、苦しくなかったですか?」
胸ぐらを掴んでいた彼が、僕の襟を丁寧に直した。
他の一人が、僕のジャケットの肩の埃を優しく払う。
「あの、登校ご苦労様です。これ、今コンビニで買ったばかりなんッスけど、良かったら飲んでください」
もう一人が、コンビニのレジ袋から缶コーヒーを出して見せた。
「これ、肉まんも、今買ったばかりなんで、食ってください!」
そう言ってレジ袋を僕に無理矢理持たせる。
「それじゃあ、失礼します! 本当に、申し訳ありませんでした!」
三人は、逃げるようにしてその場から走り去った。
遠巻きに見ていた他校の女子も、ほっと胸をなで下ろす感じて、それぞれの行き先に戻る。
取り残された僕の手には、温かい缶コーヒーと肉まんが握られていた。
いったい、なんなんだ……
そういえばさっき、鉄騎丸君がどうこう言ってたけど、僕と鉄騎丸達の決闘が、黒龍剣山高校や、周囲の高校に、なんか変なふうに伝わっているのかもしれない。
噂に尾ひれがついて、僕が危ない奴だって思われてるのかもしれない。
僕はただ、毎日真面目に家事をしてるだけの普通の男子高校生なのに……
なんでやんちゃな人達から恐れられてるんだ……
まあ、ともかく、今は駅に急ごう。
「おはよう!」
僕が遅れて寄宿舎に着くと、ヨハンナ先生はもう起きていて、バルコニーに布団を干していた。
空は秋晴れで、空気は乾燥してるし、布団を干すにはもってこいの陽気だ。
僕はすぐに階段を上ってバルコニーまで行く。
「おはようございます、遅れてすみません」
「ううん、旦那様が寝坊したときは、妻が頑張らないとね」
ヨハンナ先生は悪戯っぽく言って僕を困らせた。
「どうしたんですか? 朝から」
先生が一人で起きてくるなんて、珍しい。
「旅行で疲れた弩さんと萌花ちゃんを、ふわふわの布団で寝かせてあげたいし、どうせ、土産話聞きたくて今晩は男子も泊まるんでしょ? だから、みんなの分の布団も干しとこうと思ったの」
先生が言った。
やっぱり、先生は何よりも僕達のことを考えてくれてるんだ。
先生、普段、寄宿舎ではぐうたらだとか言ってごめんなさい。
「北の大地の美味しそうなおつまみで、朝まで飲み明かせるしね!」
ヨハンナ先生がそう言ってニヤける。
前言撤回。
布団を干すヨハンナ先生は、グレーのニットワンピースに、黒のレギンスパンツを穿いていた。
金色の髪を後ろで緩くまとめていて、後れ毛がキラキラ光って見える。
こんな飾らない服装でも、ヨハンナ先生は綺麗だ。
逆にさりげない服装だからこそ、先生の綺麗さが引き立つのかもしれない。
僕がそんなことを考えて見てたら、先生がそれに気付いた。
「なに?」
手を止めて訊いてくる。
「いえ、べつに……」
「なに? 気になるじゃない。言いなさいよ」
先生が、僕のほっぺたを突っつく。
「先生は、飾らない服装でも、綺麗だなと思って」
言ってしまった。
恥ずかしいこと、言っちゃった。
たぶん、僕の顔は真っ赤になってると思う。
耳まで真っ赤だと思う。
「うん、ありがとう」
ヨハンナ先生は恥ずかしがる僕に笑顔をくれた。
「ねえ、塞君。これから、そういう言葉は積極的に口に出していこう」
「はい?」
「君も、もう一皮剥けた主夫になるなら、パートナーを言葉で喜ばせられるようになったほうがいいんじゃない?」
「はい……」
「さっきみたいに、実際に口で言ってもらえると、嬉しいものだよ。『綺麗だ』って、その一言だけで、今日一日頑張れるもの。よっしゃー、って、気合い入る。特にそれが、大好きな人からの言葉だったらね。それだけで、どんなことだって出来ちゃうって気がする」
「はあ……」
「よし、それじゃあ、主夫部顧問として、先生は君に課題を与えます。これから、一日最低一回は、寄宿舎の女子一人一人を褒めること、それを口に出して伝えること。いい?」
「はぃ」
「返事が小さい」
「はい!」
僕は自棄で大きな声を出した。
「うん、じゃあ、頑張って」
先生はそう言って僕の頭をくしゃくしゃってした。
「よし! 先生、めちゃくちゃ気合い入ったぞ。職員会議で、教頭の無理な要求も、突っぱねてやる!」
先生は布団を干し終えると、勇んで洗面所に向かった。
先生から大変な宿題をもらってしまった。
寄宿舎の女子みんなを一日最低一回は褒める。
大変そうだ。
僕は、顔を真っ赤にし続けて、頭に血が上って倒れちゃうんじゃないだろうか。
幸い、寄宿舎の女子は素敵な女子ばかりだから、褒める言葉に困らないからいいけど。
夜8時を過ぎて、弩達二年生を乗せたバスが、学校の駐車場に帰ってくる。
僕達、残った主夫部と寄宿生は、全員で二年生を出迎えた。
駐車場の周りは、出迎えの学校関係者と父兄でごった返している。
「ただいま帰りました」
何やらたくさんの荷物を抱えた御厨が、まず最初に僕達のところに戻ってきた。
たぶん、抱えているのはお菓子作りの材料だと思う。
カメラを構えた萌花ちゃんは、最後の最後まで、クラスメートの写真を撮っていた。
背が高い子森君はすぐに分かった。
僕達を見付けて、こっちに手を振る。
「ほら、弩、こっちこっち」
子森君が後ろに呼びかけた。
その後ろから、周りの生徒や父兄に押しつぶされそうになっている弩が、ちょこちょこ歩いてくる。
弩はスーツケースやお土産の紙袋に、振り回されていた。
「先輩、ただいまです」
弩が僕に元気な顔を見せる。
「お帰り」
ほっぺに絆創膏を貼った弩は、ちょっとだけ逞しくなったように見えた。