脅迫
「はい、みんな、おはよう」
紺のスーツでピシッと決めたヨハンナ先生が教室に入ってくる。
スッと背筋を伸ばして顎を引いた美しい姿勢の先生。
櫛が通った金色のサラサラの髪。
引き込まれそうな深い青の瞳。
口角が上がった自信に満ちた口元。
思い思いににだべっていたクラスのみんなが、自然と話をやめて先生に注目した。
スマホを弄っていた生徒も、電源を切ってそれをポケットに仕舞う。
先生が日直の生徒に目配せした。
「起立」
「礼」
「おはようございます」
クラスメート全員が頭を下げる。
「はい、みなさん、おはようございます」
先生も四十五度の角度で腰を折って礼を返した。
「着席」
日直の号令で、僕達は席に着く。
別に、先生は体罰を振るうわけでもないし、言葉で威圧するわけでもない。
それなのにうちのクラスは、きちんと規律が保たれていた。
これも、ヨハンナ先生が時に厳しく、時に優しく、僕達生徒に真摯に応えてくれてるからだろう。
先生の人柄のなせる技かもしれない。
教壇で出席を取り始める先生に、あらためて惚れ惚れとした。
これが、昨日の夜酔っ払って僕に抱きついてきた先生とは思えない。
今朝。
僕が朝練に行くと、先生はもう起きていてお風呂に入ってシャワーを浴びていた。
濡れた髪で、
「冷水のシャワー浴びたから、シャキッとしたよ」
とか、笑顔で言ってた(バスタオル一枚巻いてるだけだったから、いつ落ちるか、ハラハラしたけど)。
そして、
「昨日はゴメンね」
って、舌を出して可愛く謝った。
北堂先生から、昨日の様子を聞いてたらしい。
二日酔いで頭が痛いのかもしれないけど、先生はそれを微塵も見せない。
こうやって、教壇に立つときには、いつもの凜々しい先生に戻っていた。
主夫として、妻の仕事場での様子を見られる僕は幸せだと思う。
本当だったら、こんな姿見られないし。
立派に仕事してるから、今日はいっぱい甘えさせてあげよう。
放課後は、昨日の約束通り、弓道部に手作りの柔軟剤を届けに行った。
昨日、錦織が咄嗟に嘘をついたから、届けに行かないと怪しまれるし、なにより、あの後の諏訪部さんが心配だった。
ってゆうか、そっちの確認の方がメインだ。
僕の手には、昨日の夜中に諏訪部さんをイメージして作った柔軟剤の遮光瓶が握られている。
学年が一緒の枝折からも諏訪部さんの情報を仕入れて、イメージを膨らませた。
柔軟剤の中に入れるアロマの精油は、ペパーミントとローズウッドを中心にブレンドしてある。
さっぱりとしていて、清楚な感じがする香りだ。
「諏訪部さん」
弓道場の近くで待ち伏せして、部室に入ろうとする諏訪部さんが一人のところを捕まえた。
下手すると、ストーカーとか危ない奴だ。
「昨日の柔軟剤持ってきたんだけど」
そう言って、柔軟剤の瓶を渡す。
まだ袴姿になってなくて、セーラー服の諏訪部さん。
髪は昨日と同じポニーテールにしている。
「ああ、使わせて頂きます」
諏訪部さんは事務的な感じで受け取った。
「何回もゴメンね」
「いえ、私の方からも、昨日お借りしたハンカチを返そうと思っていたので、丁度よかったです。ハンカチ、ありがとうございました」
諏訪部さんは鞄からハンカチを出して僕に返す。
「そんなの、いいんだけど」
ハンカチはちゃんと洗濯してあって、ピシッとアイロンがかけてあった。
折り目がきっちりしていて、刃物みたいに尖っている。
なんか、ハンカチが諏訪部さんみたいになって戻ってきた。
ハンカチには一筆箋が添えてあって、
篠岡塞様
ハンカチ、ありがとうございました。
助かりました。
諏訪部ゆずる
って、少し角張った綺麗な字で書いてある。
「それで、あのあと部活はどうだった?」
僕は、お節介かもしれないけど、訊いてしまった。
「はい……」
諏訪部さんはちょっと迷ってから口を開く。
このお節介な人は、答えないと帰らないから仕方なく答える、って感じなのかもしれない。
「他の部員とは、まだぎくしゃくしてるっていうか、みんな恐る恐る私に接してるって感じです」
言いながら、諏訪部さんの顔が少し曇った。
「でも、私は先輩達がいない間、この部の規律を守らないといけないので、このまま続けます。嫌われ役になるかもしれないけど、仕方ありません。部のためです」
諏訪部さんの目は、完全に意思が固まってる目だった。
「まあ、規律も大切だけど、先輩もいないんだし、ちょっとくらい羽目を外しても……」
「ハンカチ、確かにお返ししました。他に何かご用はありますか?」
諏訪部さんが暗に帰ってくれと言っている。
「ううん、それじゃあ、後で柔軟剤の感想聞かせて」
僕はそう言って立ち去るしかなかった。
諏訪部さんが背を向けて、後ろ手にドアを閉めようとする。
諏訪部さんの後ろでポニーテールの髪が揺れた。
この小さな背中で、たくさんの責任に押しつぶされそうになってる彼女を見たら、たまらなくなった。
「諏訪部さん!」
気がついたら僕は、ドアを押さえて声をかけている。
声をかけずにはいられなかった。
諏訪部さんが振り向く。
僕は、ドアを開けて諏訪部さんに近づいた。
「ねえ、諏訪部さん、今日、部活が終わったら寄宿舎に来ない? 一緒に、夕飯食べていかない?」
僕は訊いた。
「えっ?」
突然の提案に、諏訪部さんは面食らっている。
「先輩に夕飯をご馳走になるいわれがありません。お断りします」
諏訪部さんはきっぱりと断る。
「そんなこと言わずに、こうやって知り合ったのも何かの縁だし」
「いえ、お気持ちだけで結構です」
諏訪部さんは頑なだった。
そして、絶対に折れないぞ、って感じで、キュッて口を結ぶ。
眉尻を上げて、半分僕を睨んでいる。
「それじゃあ、諏訪部さんが部室で一人で泣いてたって、部員にバラしちゃおうかなぁ」
僕は言った。
僕を睨み付けるようにしていた諏訪部さんがの眉がちょっと下がる。
「諏訪部さんが鼻水垂らして泣いてたって、言いふらしちゃうよ」
僕は卑怯だ。
最低だ。
昨日のことで、彼女を脅迫しているのだ。
「来てくれるよね」
僕は、ドラマとか映画に出てくるような、悪者になった気持ちで言った。
「そんな弱みを握られていたら、仕方ありません。伺います」
諏訪部さんが、目を瞑って答える。
徹底的に嫌われたかもしれない。
「うん、よかった。それで、夕飯のメニューは何かリクエストある?」
僕は訊いた。
献立はある程度決まってるけど、料理人は僕と錦織なんだし、融通は利く。
諏訪部さんは空で考えていた。
そして、
「ハンバーグ」
諏訪部さんがぽつりという。
「中にチーズが入ってるのが好きです」
チーズ入りハンバーグって、諏訪部さんが可愛いこと言うから思わず吹き出しそうになった。
でも、それで気が変わったら困るから我慢する。
「それじゃあ、部活が終わったら寄宿舎に来て。すっごく美味しいハンバーグをご馳走するから」
確証はないけど、僕達主夫部のホームである寄宿舎に連れ込むことが出来たら、もう、諏訪部さんが涙を流したりしないように、してあげられると思う。
主夫部として、そうしないといけないと思った。