缶詰とパスタ
船体が大きく揺れて、僕はデッキのベンチシートから投げ出された。
「みんな、大丈夫!」
すかさず、ヨハンナ先生が操縦席からラダーを伝って下りてくる。
船尾のステップに座っていた弩と萌花ちゃん、宮野さんを確認すると、三人は手すりに掴まっていて海には落ちてなかった。
「篠岡君も大丈夫ね」
「はい」
先生が僕を起こしてくれる。
「新巻さんは? 大丈夫?」
先生がキャビンの中に投げかけた。
「はい、大丈夫です」
新巻さんがキャビンから出てくる。
僕とヨハンナ先生で、ステップにいる三人をデッキに引き上げた。
三人ともびっくりしてたけど、怪我はないみたいで安心する。
「この船、どうなったんですか?」
僕は先生に訊いた。
「分からない。ここは水深があるし、岩礁なんてないところだし、乗り上げたりはしてないはずだけど」
周りを見たけど、確かに、あたり一面深い海だ。
「漂流物か何かにぶつかったのかもしれない。ちょっと調べるね」
ヨハンナ先生は、そこここのハッチを開けて船倉を点検した。
浸水警報装置に異常がないことも確かめる。
幸いなことに、船体の傷や浸水はなかった。
少し時間がたっても、船が傾く様子はない。
本当に、さっきのは一体なんだったんだろう?
「とりあえず、帰りましょうか。帰って落ち着こう」
ヨハンナ先生が言った。
「そうですね。帰って夕ご飯にしましょう」
僕の提案に、女子達も頷く。
あたりは日が傾いて、海がオレンジ色に染まりかけていた。
さっきまで、周囲に僕達しかいないことが心地よかったのに、急に心細く感じる。
この海の上では、こんな大きな船も、落ち葉の一枚みたいに小さかった。
先生が操縦席に座って、来たときと同じように僕達も席につく。
みんなすっかり落ち着きを取り戻して、弩が「先輩、今日の晩ご飯はなんですか?」とか、軽口を叩くようになった。
ところが、僕達が座って待っていても、先生がなかなかクルーザーを動かさない。
「どうしたんですか?」
助手席の僕が訊いた。
「それが、エンジンが動かないの」
先生は、エンジンスタートスイッチを押したり、計器を確かめたりしている。
「燃料もあるし、バッテリーも生きてるんだけど……」
「えっ?」
まさか……
ヨハンナ先生は後部デッキのハッチを開けて、エンジンを確かめた。
バッテリーや燃料バルブ、燃料や冷却水のフィルターを点検する。
「ダメだ。分からない」
一時間くらい、エンジンと格闘したけど、先生にもお手上げだった。
そうこうしている間に、辺りはすっかり暗くなっている。
先生が航海灯をつけた。
「仕方がないね。迷惑かけちゃうけど、救助を要請しよう」
スマートフォンを取り出すヨハンナ先生。
「あなた達の安全には代えられないしね」
先生はそう言ってスマホの電源を入れた。
だけど、そこでまた先生が首を傾げる。
「どうしました?」
「それが、電波が来てないみたいなの」
先生が、スマホを高く掲げたり、角度を変えて電波を拾おうとした。
「船が沖に流されたのかもしれない。さっきまでちゃんと繋がって、ネットの天気予報を見ることも出来たのに」
僕達も自分のスマホの電源を入れてみたけど、アンテナは一本も立ってなかった。
ネットも通話出来ない。
「私達、この船で漂流してるってこと?」
新巻さんが言った。
認めたくないけど、そういうことだろう。
「まあ、大丈夫よ。私達がいなくなってクルーザーがないって分かれば、それに乗って海に出たことは分かるし」
ヨハンナ先生が言った。
「だけど、コテージを借りたのは週末までだから、気付いてくれるのは週末以降ですよね」
「確かにそうだけど、その前に私達全員と連絡がつかないってなったら、おかしいって思う人がいるだろうし」
先生が答える。
確かに、お兄ちゃんのことが大好きな枝折や花園が、僕と連絡取ろうとして取れずに、弩やヨハンナ先生に電話してみて、それでも繋がらなければ、おかしいって思うだろう。
「それに、偶然、どこかの船が近くを通るかもしれないし」
ヨハンナ先生が言うけど、この真っ黒い海を見ていたら、その可能性がほとんどないことは明白だった。
昼間、船を止めてから、まだ一隻の船とも行き会ってないのだ。
船の中に、不穏な空気が流れそうになった。
そのとき、弩のお腹が、ぐうって鳴る。
「ふええ」
顔を真っ赤にして恥ずかしがる弩。
緊迫した場面だったのに、なんだか笑ってしまう。
「もう! 弩さんたら」
新巻さんも口では文句を言ったけど、笑っていた。
「それじゃあ僕、なにか用意します」
こういう時は食事だ。
不安なことがあってお腹が減ってたら、余計にイライラするし。
「じゃあ、篠岡君、お願いね。私は、もう一回連絡取れないか試して、上で見張りをしてるから。女子達、夜の海に落ちたら大変だから、キャビンから出たらダメだよ」
ヨハンナ先生は、そう言ってラダーを登った。
僕は、ギャレーにある食材を確かめる。
棚の中には、パスタやクラッカーがあった。
オイルサーディンやツナ、ホールトマトにコーン、スープの缶詰もある。
冷蔵庫の中には、ハムやウインナー、ベーコンがあるし、チーズもあった。
アボカドやズッキーニなんかの野菜もある。
そして、瓶詰めのキャビアまで入っていた。
このクルーザーを使う予定でキャンセルしたVIPのために用意されたものなんだろう。
調味料も一通り揃ってるし、調理器具もあった。
僕は、食材を見て、オイルサーディンとホールトマトを使ったパスタを作ることにする。
幸い、発電機のほうのエンジンは動いていて、電気でお湯を沸かすことが出来た。
「先輩、なにか手伝いますか?」
弩がお手伝いを買って出る。
「うん、それじゃあ、配膳をお願い」
ギャレーが狭いから、弩にはテーブル周りを頼んだ。
二口あるクッキングヒーターの一口目でパスタを茹でて、もう一口のほうで、オイルサーディンとトマトを炒めたソースを作った。
唐辛子とニンニクを入れて、塩こしょうで味を調える。
茹で上がったパスタにソースを絡めたら、最後に乾燥バジルを散らして出来上がり。
パスタの茹で汁でオニオンスープの缶詰を湯煎して、カップに移した。
それを、弩がキャビンのテーブルに運ぶ。
「先生! ご飯ですよ!」
外の操舵席で周囲を監視していたヨハンナ先生を呼んで、みんなでテーブルを囲んだ。
外はもう真っ暗だ。
陸の明かりが、遙か遠くに微かに見える他に、海は黒々としていた。
「うん、おいしそう」
キャビンに入ってきたヨハンナ先生が頬を緩めた。
「いただきます!」
みんなで手を合わせてパスタを食べ始める。
ここだけはいつもの寄宿舎と変わらない。
「おいしいです!」
弩が口いっぱいに頬張って言った。
「まあ、限られた食材でこれだけおいしいと、認めざるを得ないよね」
新巻さんがそんなふうに褒めてくれた。
「おかわり!」
宮野さんが言う。
「熱い」
猫舌の萌花ちゃんが、ちびちびとスープを飲んでいた。
それにしても、ここにいる女子達は強かった。
漂流していて救助の連絡がつかないこの状態でも、誰一人文句を言わない。
この状況を楽しんでいる向きもある。
「たぶん、もう私達のことは探してくれていると思うし、すぐに帰れると思うけど、体力温存のために、食べたらあなた達は寝なさい」
ヨハンナ先生が言った。
「大丈夫だとは思うけど、一応、水と電気は節約してね」
先生が付け加える。
「先生は、どうするんですか?」
僕が訊いた。
「私は、近くを船が通らないかどうか、上で監視しておくから」
「ダメですよ。先生一人なんて」
「大丈夫、一晩徹夜するくらい、なんともないし。綺麗な星空を見て夜を過ごすのも、おつなものだしね」
「だけど……」
「分かった、それじゃあ、朝になったら交代して。それにこれは船長命令です。船の上では、船長の言うことは絶対だよ」
先生はそう言って笑って見せた。
食べ終わった後、使った食器をさっと洗う。
寝る前、女子達も僕も、シャワーは使わずに水で濡らしたタオルで体を拭いて済ませた。
まだ夜の8時過ぎだったけど、電気を節約するためにみんなでベッドルームに入る。
電気を消すと、天窓から月明かりが入って来た。
みんなで、広いベッドの上で一緒に寝る。
「先輩、また先輩のこと、枕にしていいですか?」
弩が、そんなことを訊く。
弩は僕が許可を出す前にもう、僕の腕に頭を置いた。
すると、新巻さんが無言で僕のお腹に頭を置く。
萌花ちゃんが僕の太股を使って、宮野さんはふくらはぎだ。
僕は、子犬におっぱいを飲ませる母犬状態で眠る。
海の上で漂流しているっていうのに、あまり不安ではなかった。
それは、こんなふうにみんなが周りにいるおかげだし、上で見張りをしてくれているヨハンナ先生のおかげかもしれない。
僕達は絶対に助かるって確信している。