大海原
僕達が滞在するコテージの二階は、トイレからも海が見えた。
トイレの窓が、海に向けて完全に抜けているのだ。
僕は、海を眺めながらトイレ掃除をするっていう、未知の経験をした。
お昼を過ぎて日が西に傾きだした海が、青々としている。
穏やかな夏の海を見ながら掃除が出来るなんて、このコテージに来て良かったって、しみじみ思う。
そんなふうに考えながらトイレ掃除をする僕を、後ろからヨハンナ先生が見ていた。
「なんですか先生? トイレなら、今は一階のを使ってください」
ゴム手袋をして、柄付きのたわしを持った僕が、先生の視線に答える。
「ううん、違うの。こうやってバカンスに来てまで、よく家事に精が出るなあと思ってさ」
先生が僕を見てニヤニヤしていた。
「塞君を見てると、なんだか掃除が楽しいものだって思えてくるよ」
先生はそう言って肩を竦める。
「楽しいですよ。汚いところが目に見えて綺麗になるのが楽しいし、綺麗になったことに喜んでくれる人がいると、もっと楽しいですし」
「ふうん。それじゃあ、部屋を汚す私は、塞君に娯楽を提供しているわけだ」
ヨハンナ先生がそんなことを言う。
「いえ、それは違いますから!」
先生には、しっかりと釘を刺しておかないといけない。
確かに僕は掃除大好きだけど、先生の部屋を汚す能力は怪物並みだから、これ以上されると、僕の力も及ばなくなってしまう。
「掃除はここで終わり?」
「はい、終わりました」
お風呂掃除はさっきやったし、みんなの部屋の掃除も終わって、新しいシーツでベッドメイクも済んでいる。
あるとすれば、あとは庭の草むしりだけだ。
「それじゃあ、午後はクルージングに出掛けましょうか?」
ヨハンナ先生が言った。
「クルージング?」
すると、どこからともなく女子達が集まってくる。
弩に新巻さんに、萌花ちゃんに宮野さん。
さっきまで広間のソファーの上とか、バルコニーでだらだらしていた女子達が、クルージングと聞いて目の色を変えた。
「クルージングって、あの桟橋に止まってるクルーザーで行くんですか?」
弩がぴょんぴょん跳ねながら訊く。
「そうだよ。あれで大海原に漕ぎ出しましょう」
ヨハンナ先生が言って親指を立てた。
そういえば、ヨハンナ先生は朝から桟橋の辺りで何かゴソゴソしていた。
クルーザーの後部デッキのハッチを開けて何か見てたけど、何してたんだろう?
「でも、誰が運転するんですか?」
宮野さんが訊く。
「もちろん、私よ」
ヨハンナ先生が胸を張って言った。
「先生、小型船舶免許持ってるんですか!」
新巻さんが興奮した声を上げる。
「うん、持ってるよ。それも2級じゃなくて1級ね。あの船で、世界一周だって出来るし」
先生が、パスケースに入れた免許証を見せてくれた(2級は海岸から5海里までに限られてるけど、1級は無制限に航行出来るらしい)。
ヨハンナ先生、自動車運転免許証の下に、そんな秘密兵器を隠し持っていたとは……
「だけど、なんで先生、小型船舶なんて持ってるんですか?」
僕は訊いた。
「もしかして、今日のために?」
肝試しの準備の他に、僕達にクルージングをさせるために、小型船舶の免許まで取ったとか。
「違う違う、私もそこまではしないよ。取ったのは大学生の時」
先生が慌てて言う。
「先生って大学生時代、クルーザーとか乗り回して遊びまくってたんですか?」
萌花ちゃんが訊いた。
「まさか、免許は取ったけど、叔父さんが持ってる釣り船を運転してたくらいだよ。私、真面目な女子大生だったし」
ヨハンナ先生が頭を振る。
「その頃、憧れてた先輩がいてさ。その人が小型船舶とかバイクの中免持ってるアクティブな人でね。その人に追いつこうって、頑張って取ったんだよ」
先生は過去に思いを馳せているのか、少しだけ遠い目をした。
そういえば、僕はヨハンナ先生の学生時代のこととか、まったく知らない。
ヨハンナ先生って、どんな女子大生だったんだろう。
どんな学生生活を送ってたんだろう。
そして、その、憧れてた先輩って……
「あれ? 篠岡君、もしかして、妬いてる?」
ヨハンナ先生が、僕の顔を覗き込んで意地悪く訊いた。
「いえ、別に、全然」
別に、先生が憧れてた人のことなんて、気にならないし、全然、ホントに、これっぽっちも、1ミリだって気にならないし。
「安心して、その先輩って、女性だから」
ヨハンナ先生が言った。
「なんにでも挑戦する人でさ、その人に感化されて飛び回ってたな」
別に僕は気になってないのに、ヨハンナ先生が勝手に話す。
「どう? 安心した?」
「いえ、別に」
僕が答えたら、女子達がクスクス笑った。
一体、何がおかしいって言うんだ。
「さあ、それじゃあみんな準備して。すぐに出発だよ」
先生が言って、
「はい!」
って、従順な生徒達が小気味よい返事をした。
女子達が着替えたり、日焼け止めを塗っている間に、僕はクーラーボックスの中に飲み物を詰めて、果物とか、おやつに食べられそうなものを見繕っておく。
海は波が穏やかで、船を出すのに丁度良かった。
桟橋に泊めてあるクルーザーが、真っ白に輝いている。
滑らかな流線型の船体で、全長が十五メートルくらいあった。
キャビンの上にもう一つの操縦席があるタイプで、青空の下にむき出しになったハンドルや、スロットルレバーがキラキラ光っている。
キャビンの中は、白いソファーと飴色に輝くテーブルがある広々とした空間で、テレビやオーディオ機器も充実していた。
船内にはギャレーもあって、シンクにクッキングヒーター、電子レンジに冷蔵庫も備え付けてある。
シャワールームとトイレもあるし、パウダールームには高級ホテルみたいなアメニティーグッズが揃っていた。
前のデッキの下はベッドルームになっていて、僕達六人が横になっても十分に眠れるくらいの広いベッドがある。
5000兆円手に入ったら、僕もこんな船の一隻くらい買ってもいいかと思った。
「すごーい!」
みんなで、はしごを登ってキャビンの上に上がる。
キャビンの上は、操縦席と助手席の他に、大人四、五人が座れるL字型のシートがついていた。
上に登ると、視線が高くて見晴らしがいい。
「はい、みんなこれ着て」
ヨハンナ先生にライフジャケットを着せられた。
そういうところは、やっぱり先生だ。
「それじゃあ、出発するよ」
先生が操縦席に座って、僕が助手席に着いた。
後ろのシートに女子達が座る。
先生が始動ボタンを押して、船尾の方からエンジンの振動が伝わってきた。
慎重にスロットルレバーを入れると、大きな船体が桟橋から離れて、そろそろと動き出す。
クルーザーは、そのまま、ゆっくりとしたスピードで岬の間を抜けた。
先生は周囲に鋭く目を配っている。
「もうそろそろいいかな」
前が開けた頃合いで、先生がスロットルをさらに倒した。
ゆっくりと動いていた船が、みるみる加速していく。
一応、風防はあるけど、気持ちのいい風が頬を吹き抜けた。
横で見てると、ヨハンナ先生の金色のポニーテールが後ろになびいている。
白いショートパンツに青いヨットパーカー、ボーダーのインナーのヨハンナ先生。
ハンドルを握る先生が凜々しかった。
普段、車を運転する横顔も見てるけど、こんな大きな船を操る先生は、一段とカッコイイ。
僕達のクルーザーは、真っ青な海を切り裂くように長い白波を引いた。
目の前の波を砕いて船体が少し揺れるたびに、後ろの女子達がきゃあきゃあと楽しそうに声を上げる。
クルージングを満喫している女子達を見ていたら、自然とニヤけてしまった。
「何笑ってるの?」
新巻さんが不審そうに訊く。
「いえ、風で前髪が後ろに飛んで、みんなのおでこが丸見えだから」
五人の可愛いおでこが、白日の下にさらされていた。
「もう!」
新巻さんに怒られる。
でも、可愛いんだから仕方がない。
「裸を見られてるみたいです!」
前髪ぱっつんで、いつもおでこを隠している弩が抗議した。
だけど、裸を見られるのと同じっていうのは、ちょっと言い過ぎだと思う。
一生懸命直してもすぐにまた風で飛ばされるから、僕はまた笑ってしまう。
陸が遠くに霞むくらいになったところで、先生が船を止めた。
エンジンを切ると、波音以外、何も聞こえなくなる。
360度、どこを見ても、船の周りには何もなかった。
僕達だけで大海を独り占めしたみたいな感覚だ。
「しばらく、ここでのんびりしましょうか」
ヨハンナ先生が言った。
「はーい!」
弩と萌花ちゃん、宮野さんの三人が、船尾のステップに下りて、並んで座った。
裸足になって、足をちゃぷちゃぷと海につける。
「三人とも、落ちないようにね」
操縦席からヨハンナ先生が注意した。
先生は操縦席の上の幌を張って、椅子を倒して足を伸ばした。
サングラをして、周囲を監視しながら海を眺める。
大きなサングラスが似合うヨハンナ先生は、まるでハリウッド女優だ。
新巻さんは、キャビンに入って、ソファーの上でノートパソコンを開いた。
創作意欲が刺激されたらしく、海を見ながらそこでカタカタと何かを綴り始める。
クルーザーの中で執筆とか、どこかの大御所作家みたいだ。
僕は、ギャレーに下りてグラスを用意した。
オレンジジュースに、種と皮を取ったマンゴーとレモン汁を入れて、ミキサーにかける。
パイナップルも切って、それをグラスの縁に刺した。
チェリーとミントを飾れば、立派なトロピカルドリンクだ。
執筆中の新巻さんや、船尾で涼んでいる三人、そして、操縦席のヨハンナ先生にドリンクを届けた。
「ありがとう」
「ありがとうございます!」
みんな、笑顔を返してくれる。
「お酒をちょっと入れて飲みたいな」
ヨハンナ先生がふざけて言った。
僕も、後ろのデッキのベンチシートに寝そべって、そこでトロピカルドリンクを飲む。
何も考えずに、ぼーっと海を眺める時間が心地良かった。
船尾から女子達の楽しそうな話し声が聞こえてくるし、キャビンからは、新巻さんがカタカタとリズムを刻むみたいにキーを打つ音が聞こえて、眠気を誘う。
抗おうとしたけど、無駄だった。
朝から掃除をしていて、それが案外体に応えたのかもしれない。
でも、抗わなくてもいいと思った。
僕はそのまま、眠気に任せる。
そのまま、眠りに落ちようとしていた、その時だった。
どーん! と、体全体で感じた衝撃と共に、船体が大きく揺れて、僕はベンチシートから投げ出された。
トロピカルドリンクのグラスがデッキに落ちて割れる。
一瞬なにが起こったのか分からない。
次の瞬間、僕は船尾のステップに三人が座っていたことを思い出して、後ろを振り返った。